八、鱠前編(14.06.22改)
「小猫、ちょっとよろしいでしょうか?」
仕事を終え、自室へと戻ろうとする猫猫に高順が声をかけた。彼の主人たる壬氏は、今日の仕事がお疲れらしく、食事を終え湯あみの準備をしていた。
「どうしたのですか?」
猫猫が聞くと、高順が少し戸惑ったように顎を撫で、そして、一息おいて言った。
「見てもらいたいものがあるのですが」
今日の従者どのはいつにもまして眉間のしわが深かった。
高順が見せたのは、木簡に書かれた資料だった。卓子の上に、木を何枚も連ねたそれを広げる。
猫猫はそれを見て目を細める。
「古い事件の資料ですね」
もう十年も前のもので、とある商家で起きた食中毒について書かれてあった。河豚を食べてあたったとある。
猫猫は思わずごくんと唾液を飲みこんだ。
(あー、食べたい)
高順が、やっぱり、という顔で猫猫を見ている。
「今度、その手の料理屋に連れて行きますから」
ただし、肝はでないぞ、と念を押すような目だ。
ぴりぴりとしびれる感覚を楽しむ通もいるというのに、などと思いながらも、美味い飯屋でおごってもらえるなら猫猫のやる気も出る。
「これがどうしたのですか?」
「昔、私がこの事件について仕事で関わっていたことがありまして、これとよく似た事件が最近起こったということで、元同僚に相談を受けたのです」
元同僚ということは、高順が宦官になる前だろうか。やはり武官か何かをやっていたのだろうか。
「よく似た事件ですか? どんなもので?」
猫猫は正直高順の過去より、今ある毒話のほうが興味ある。さっき考えたことを一旦脇に置いて話をすすめる。
「河豚の鱠を食べて、とある官がこん睡状態に陥っているのですよ」
(とある官?)
猫猫はなんだか嫌な予感がした。少々、この寡黙な男にしてはべらべらしゃべっているのではないだろうかと思う。
ちらりと猫猫は、高順の顔を窺い見る。
普段通りの眉間に皺を寄せた苦労人の顔だが、向こうも同じように猫猫を窺っているようにも思える。
「申し訳ありません、高順さま。それ以上は私が聞いてもよろしい話ですか?」
単刀直入にいってみるが、高順の表情は変わらない。袖に両手を突っ込んだまま、ゆっくり頷く。
「ええ、問題ありません。小猫は自分の立場をわきまえていますから」
ずいぶんなことを言ってのけてくれる。
そして。
「それに、今更、この話を途中で切ってもいいですか?」
「……どうぞお話の続きを」
もったいぶるような高順に少し顔をしかめながら猫猫は言った。
高順は木簡を指さすと話を続ける。
「今回、鱠に河豚の皮と身を湯引きしたものを使っていたそうです。それを食べてこん睡したと」
「河豚の身ですか? 内臓ではなくて」
「そうです」
河豚の毒は加熱によってなくならない。だが、毒の多い部分は肝といった内臓に多く、身は比較的毒が薄い部位である。なので、こん睡するような毒であれば、肝の部分を想像した。
(そんなに毒がたまっていたのか?)
それでも、種類や育った環境によって毒がある場合もなきにしもあらず。
一概には言えないので、そう言う場合もあるかもしれない。
猫猫が食べていたのは、その毒が薄い部分だ。たまに調子にのって肝を口にしたことがあったがあれはなかなか危なかった、やり手婆に胃袋ひっくり返されるまで水を飲まされたことを覚えている。
「それならば、別におかしな点はないのでは?」
猫猫の言葉に、高順はゆっくり頭を振った。
「それが……」
高順は首の後ろを掻きながら答える。
「料理人は河豚を調理に使ってないと言い張っているのですよ。今回の事件も、前の事件も」
どうしたものかと高順が顔をしかめるのをよそに、猫猫はぺろりと舌をだした。
とても面白そうな話だった。
今回と前回の事件の共通点はいくつもあった。
今回の事件で倒れた役人も、前回の商人もともに美食家でかつ珍味を好んだという。今回は鱠でも湯引きした魚肉を使っていたが、普段は生の身も食べていたという。新鮮とはいえ魚の生肉には寄生虫がいる場合もあり、普通の人はあまり好んで食べず、地方によっては禁止されているところもある。
そんな美食家たちだからこそ、河豚なるものを好んでよく食べていたという。皆は、否定するが、美食家の中には、わざと少し毒の残った身を食らい、ぴりぴりする感触を楽しむ者たちもいる。
(その良さがわからないとは)
人は、相手の好みにおおらかでないといけないと考える。
二つの事件の料理人はともに料理には河豚を使っていないと無罪を主張したという。しかし、食べた主人たちはともに中毒症状をおこしている。
厨房では、芥の中から河豚の内臓や皮が発見されておりそれが証拠として提出されたという。
(案外しっかり調べているんだな)
猫猫はそんなことで変に感心してしまった。世の中には状況証拠やでっち上げで犯人を作り上げるろくでもない役人がたくさんいる。
料理人はともに、前の日の料理で使ったが今日は使ってないという。真夏ならばともかくまだ凍える日の続く今頃の季節なら生ごみを数日おいておいたとしてもおかしくないだろう。
鱠の材料は別の魚で、その魚の残りかすも塵籠から見つかっている。
(役人がでっち上げともいえないし、だからと言って料理人が本当のことを言っている確証もない)
残念なことに証人となる人間がいなかった。
珍味を食べると、奥方から怒られるからと言って役人は部屋で一人食べることが多かったという。料理人は鱠を運んできたが、その中身を見たものは使用人が遠目で見ただけで、切り刻まれたそれが何の魚などわかるはずもない。
そして、被害者が倒れたのは全部食べ終えたあとだったという。時間にして食してから四半時後と。
息苦しそうに唇を真っ青にして痙攣していたところを、茶を持ってきた使用人が発見したという。
(症状も河豚毒みたいだ)
そんなこんなで、猫猫には高順が持ってきた情報だけでは不十分だった。一旦、考えを述べるのはやめにして、もう一度高順になにか情報を聞いてきてもらうことにした。
(一体何なのだろう?)
ぶつぶつつぶやいていると、横から端正な顔がぬっとあらわれた。
思わず猫猫は、顔面の神経を強張らせてしまった。
「すまんが、さすがにその顔は俺も傷つく」
濡れ髪の壬氏が言った。水蓮が水滴を落とす髪を「あらあら」と言いながら手ぬぐいでふき取っている。
猫猫は、元の顔の形に戻す。おそらく、異国の叫ぶ人参でも引き抜いたような顔をしていたみたいだ。
「高順の話をやけに熱心に聞いていたようだが」
どこかしら面白くなさそうに言う壬氏。
「面白い話なら、人は耳を傾けるものですから」
「……ちょっと待て。お前、俺の話をよく――」
なんだかもごもごと衝撃を受けた顔で言う壬氏。最後のほうは上手く聞き取れなかった。
「それでは遅くなりましたので、帰らせていただきます」
猫猫は、壬氏の髪をふき取るのに忙しい水蓮に頭を下げると、てくてくと部屋をあとにした。
翌日、高順がより興味深い話を持ってくることを望みながら。
そして、人死にに関係していることであれ、こうして自分の好奇心に抗えない自分を思うと、おやじに怒られるかなあと考えながら。