五、変装(13.02.03改)
「お前は化粧に詳しいか?」
(一体なにを?)
猫猫は首を傾げる。
執務を終え、私室へと戻ってきた壬氏が言った言葉だ。水蓮に手伝ってもらい、着物を着換えている。
確かに、花街で育てば化粧の仕方は嫌でも覚えるし、薬の他に化粧品を作ることもある。詳しいといえなくもないが。
「どなたか贈り物でもするのですか?」
「いや違う。俺が必要なんだ」
「……」
猫猫は底の見えない穴の中をのぞきこむような目をした。まさに虚ろである。
その表情を見た壬氏は、
「何を想像している」
と言った。と言われても、言われたとおりのことしか想像していない。
(必要ないだろうに)
猫猫は、壬氏が化粧を施している姿を想像していた。今の姿ですら天上人のごとき美しさである。ただ、まなじりに朱線を入れ、紅を引き、花鈿を額にあしらえば、それだけで国を傾けるだろう。歴史にくだらない戦がたくさんあるが、その中のいくつかは、傾国の美女によって引き起こされている。
「……国でも滅ぼす気ですか?」
「なぜそうなる!」
壬氏は、上着に袖を通し終わると、椅子に座る。猫猫は鍋から粥をそそぐ。塩味のきいた鮑粥で、毒見で一口いただいたが大層おいしかった。壬氏の食事が終われば、水蓮が猫猫にわけてくれるので、さっさと鍋が冷える前に食べ終えてもらいたい。
「おまえのこれだ。そのおしろいはどうやって作っている?」
壬氏は自分の鼻の周りをさして言った。
(こっちのことか)
猫猫は納得した。ただでさえ無駄な美しさなのに、これ以上きらきらしくなる必要がないだろう。
「粘土を乾かして粉にしたものを油で溶いています。色を極端に濃くしたければ、木炭や紅を混ぜています」
「ほお。それはすぐできるか?」
猫猫はとりあえず懐から蛤の器を取り出す。中にはよく練られた粘土が入っている。
「今あるのはこれだけですが、一晩あればすぐ作れます」
壬氏は蛤を手に取ると指で中身をすくい取り、手の甲にのせた。殿方とは思えぬ白磁の肌には、猫猫用に調合したそれではやや色が濃すぎる気がする。
「使うのは壬氏さまですか?」
猫猫の言葉に、壬氏は柔らかく笑った。肯定も否定もしていないが、肯定ととらえて間違いないだろう。
「顔が変えられる薬があれば便利なのだが」
冗談めいて言う壬氏に猫猫は、
「ないことはありませんが、一生もとには戻りません」
漆でも顔につければそれだけで十分ですと。
「だろうな」
壬氏は苦笑をまじえて言った。さすがに、それは困るだろうし、そんなことをやられたら猫猫は、きっと周りの人間に八つ裂きにされて獣の餌にでもされるだろう。
「そういう技術ならなくもありませんけど」
「では、それを頼む」
壬氏は待っていたとばかりに笑って、粥を食んだ。こんがりと焼いた鶏肉がおいしそうだが、さすがにこれはおこぼれにはあずかれないだろう。最後の一口を残した皿はそのまま水蓮に下げられる。
「俺を今と全く違う姿の人間にしてくれ」
(一体なにをする気やら)
それを聞くほど猫猫は命知らずではない。知ったところで、自分に益となることはないだろう。大人しく言われた通りのものを用意するだけだった。
猫猫は「わかりました」と伝えると、夕餉を続ける壬氏が早く食べ終わらないかと見た。本当に美味しそうな鮑粥である。
翌日、猫猫は普段作るものより濃い目のおしろいを用意し、他にもいくつか必要だと思うものを布袋に詰め込んだ。
いつもより早い時間にやってきたのだが、壬氏の私室には明かりがついていた。中には、湯あみを終えた部屋の主が長椅子に座り、水蓮に髪を拭かせていた。貴人にしかできない贅沢である。たとえ着ている服がいつも以上に地味で質素な服であっても、その振る舞いは貴人そのものだ。
「……おはようございます」
猫猫は半眼のまま壬氏に言った。
「ああ。どうした? 朝から不機嫌だな」
「いえ、壬氏さまは今日も一日美しいのでしょう、と」
「新手のいやみか?」
嫌味に聞こえるほど真実であるだけだ。梳きほぐされる髪は光沢を放ち、そのまま織り機で反物にすればさぞや上等の絹織物ができるのではないかと思った。
「お前は最初から仕事をする気がないのか?」
「そんなことはありませんけど、壬氏さまは本当に別人になりたいとお思いですか?」
「昨晩から言っているだろ」
「なら失礼します」
猫猫はつかつかと壬氏のそばによると、壬氏の着ている服の袖をつかみ、顔を押し付けた。髪を梳いていた水蓮は「あらまあ」と、そそくさと部屋を出て行く。いつのまにかきていた高順も水蓮に背中を押されて部屋を退出する。
「な、なんだ? いきなり」
少し上ずった声で壬氏が言った。
(まったくわかっていない)
猫猫としては、仕事を与えられた以上、十二分の働きをしないと気が済まない性格である。それゆえ、今日は壬氏を別人にするためいろいろ準備していたというのに。
「こんな上等の香を焚く庶民はいません」
壬氏の服は、町民やせいぜい下級官吏の普段着に着るものだ。海の向こうから船をつかって取り寄せた最高級の香木とは縁がないはずだ。猫猫は薬草、毒草を嗅ぎ分けるため鼻が他人よりも利く。部屋に入るなり不機嫌になったのは、香りが鼻についたためだ。おそらく水蓮が気をきかせたのだろうが、正直迷惑だった。
「妓楼の上客の見分け方を知っていますか?」
「……知らん。体型とか着ている服とかか?」
「それもありますが、もう一つ。匂いですよ」
甘い匂いを漂わせる太った客は病持ちだが金はある、悪趣味な香をいくつも漂わせていれば大体女郎の間を渡り歩いているので性病の可能性が高い、若いのに家畜のにおいがすれば風呂に入らず不衛生など。緑青館に来る一見の客はほとんど追い返されるが、たまにやり手婆の目にかない通されることがある。それがほぼ間違いなく上客になるのは、婆なりの判断基準を満たしているからだ。
「とりあえず違う衣に着替えるのともう一つ」
猫猫は風呂場に向かうと、まだ温かみのある湯を桶に入れる。それを壬氏のいる部屋に持ってくる。途中、水蓮と高順が不安そうに猫猫を見ていた。猫猫はついでだと、高順に頼みごとをする。用意された服とは別のものを準備しないといけなかった。
猫猫は持ってきた布袋から小さな革袋を取り出す。中に指をつっこむとどろりとした油がくっついた。それを桶の中に入れて溶かしこむ。
「まずは絹糸を麻糸にしなくてはいけません」
手を桶の湯にくぐらせると、手櫛で壬氏の髪を梳いた。つややかに流れていた髪が何度も指をくぐらせるごとに光沢を無くしていく。丁寧に梳いているつもりだが、やはり手櫛なのと経験の差なのか、水蓮にやってもらうときよりも壬氏は落ち着かない様子である。
(これは、髪を引っかけてはいけないな)
猫猫もおのずと緊張してしまう。時々、忘れてしまうが、このお方のご機嫌を損ねれば猫猫の首は胴体と仲たがいしてしまうのだ。
まさにつややかな絹糸がざらざらとした麻糸に変わったところで髪を束ねる。使う髪紐は紐というより布の切れ端といっていい。要はまとめられたらなんでもいいのだ。
桶を片付け手を洗って戻ってくると、高順が言われたものを準備していた。さすが有能な従者だ。
「これで本当によろしいのですか?」
いかにも不安な顔で高順が見る。隣にいる水蓮は、高順が準備したものを見てあからさまに嫌な顔をした。まあ、彼女ほどの女官であれば、信じがたいものであろう。高順が持ってきたのは、使い古された少し大きめの平民の服だ。一応洗濯されているが、ところどころ生地が薄くなっており、持ち主の体臭が微かに残っていた。
「もっと臭くてもいいくらいですね」
衣に鼻をつけて猫猫が言うと、水蓮が信じられないと頬を両手で覆った。なにか言いたそうにしているが、高順が手で制するので何も言えないようだ。そういう高順も眉間にくっきりしわがきざまれていた。
水蓮には悪いが、猫猫は彼女の精神を捻じ曲げる行為をまだまだするつもりだ。
「壬氏さま、服を脱いでください」
「……あっ、ああ」
少しためらいがちに返事する壬氏。
猫猫は気にせず何かよいものはないかと部屋の中を物色する。手ぬぐいを数枚準備すると、布袋の中から今度はさらしをとりだす。
「すみません、お二人も手伝っていただけますか?」
はらはらしながら見ている二人を引っ張り出し、高順に手ぬぐいを持たせてそれを壬氏の素肌に巻き付けさせる。まるで天女のようなお方で大切なものはすでにないお人であるが、上半身は均整のとれた筋肉質な作りをしていた。さすがに下着だけになるのは寒いのか、袴服は履いたままだった。部屋は暖かいと思っていたので、悪いことをしたと火鉢に炭を足す。
高順が手ぬぐいを巻き、水蓮がそれをおさえ、猫猫はさらしを巻きつけて固定する。さらしを巻きつけ終わると、不恰好に腹が飛び出た影ができた。
その上から大きめの服を着るとちょうどよい。少し均整の偏った体型の出来上がりだ。身体に残った香は、そのうち服がかき消してくれるだろう。顔だけはいつもの壬氏なのはとても奇妙に見えた。
「では、次に行きますか」
猫猫は昨日新しく練ったおしろいを取り出した。壬氏の肌より少し濃いものを指先で丁寧に塗っていく。
(近くで触っても無駄にきれいだ)
髭どころか毛穴の見えない肌を見て感心してしまう。まんべんなく塗りながら次にもう少し濃い色を足していく。顔にまだらをつけ目の下にくまを作った。ついでだからと、両目の端にほくろをつけたしてみる。眉は柳の眉を少しずつ太くしていき、左右の大きさを変えながら描いていく。
顔の凹凸をごまかす方法もあるが、これは近くで見ると化粧をしていることがばれてしまうのでやめておく。女はともかく男が化粧をすると、怪しいと思われる可能性があるからだ。
代わりに綿を両頬に含ませて、輪郭をごまかす。そこまでするか、と高順と水蓮が見るがそれだけでは終わらない。余ったおしろいを身体の各所に塗ってしみや黄斑を作る。爪の間におしろいを詰めて不衛生な手を作る。
(さすがに白魚の手とはいかないか)
上半身と同じく壬氏の手は立派な男の手をしていた。普段、筆か箸くらいしか持たないと思っていたが、手のひらには堅いたこがある。見たことはないが、剣術か棒術をやっていると見受けられた。本来、宦官に必要のないことである。だが、それを追及するほど猫猫は命知らずでなく淡々と手の甲を汚れた町民のものにしていく。
「終わったか?」
額をぬぐいながら化粧道具を片付けていく猫猫を見て壬氏が聞いた。そこには、麗しき宦官はおらず、不健康な顔をした平民の男がいた。整った顔立ちだが、飛び出た腹と顔と手の黄斑、くまから不摂生な生活をしている、そんな風に見えるはずだ。
「……まあ、本当に坊ちゃん?」
「坊ちゃんはやめてくれ」
一部始終を見ていたはずの水蓮だがやはり驚きは隠せない。これなら、王宮の誰が見ても壬氏とわからないだろう。見た目だけなら。
猫猫は布袋に残った竹筒を取り出した。栓を抜き、杯に入れてそれを壬氏に渡す。壬氏は中身を見ると顔を歪めた。独特のつんとした匂いがしたからだろう。数種の刺激物を混ぜたそれは正直美味いと言える代物ではない。
「なんだ? これは」
「仕上げです。唇を濡らすようにゆっくり舐めて嚥下してください。唇と喉が腫れて声が変わりますから。口の詰め物はとったほうがいいですね」
見た目もにおいも変わってもはちみつのような甘い声が変わっていなければ気が付く人間がいるかもしれない。やるなら徹底的にやらないと気が済まないのだ。
「とても辛いですが、毒ではありませんのでご安心を。あと壬氏さまは姿勢がよいので、猫背で蟹股に歩くようにしてください」
『……』
ぽかんとする三人をおいて、猫猫はそそくさと片付けを始めた。
今日はこの後暇をいただき、明日まで休みだった。久しぶりに花街に戻り、大好きな調合をしようと思っていた。