二、悪女物語
趙迂は元は子の一族の生き残りだ。
本来生きてはならない存在であるが、壬氏曰く『一度死んだ者の罪は問わない』と約束したそうだ。
(誰がそんな約束をこぎつけたのか)
猫猫は虫好きの娘を思い出す。
とはいえ、子どもたちの家族は皆処刑されている。子の一族の生き残りと明かさず秘密裡に育てられているのは、帝の沙汰が甘いと思われぬようにするためと、親の仇を討とうなどと考えぬよう監視するためだ。
生き残った子どものうち趙迂だけは蘇りの薬の副作用で記憶を失っていた。半身も麻痺している。
花街という場所で趙迂だけ別に暮らしているのはそのためだ。
猫猫は梓琳から借りた本を開く。
「北の悪女か」
猫猫はぺらぺらと頁をめくった。
巷にありふれた北の悪女『楼蘭』の物語だった。
先帝に捨てられた元妃が娘を操り国を傾けようとする話だ。
(大まかなところは間違ってはいない)
だが悪女楼蘭の描写や台詞には違和感しかない。いや猫猫が知らないだけで『楼蘭』は本のような傲慢で高飛車な妃だったのだろうか。噂をかなり誇張して書いているようだ。
先帝は『楼蘭』の母『神美』の本性を見破って、お手付きにしようとしなかったとある。『神美』の性格はともかく理由は違うし、多少先帝を美化しているようにもとれた。
『楼蘭』、『神美』と実名をつかっているので検閲を考えての内容なのかもしれない。
(普通、友達が悪しざまに描かれているとなれば、怒るものだろうな)
だが『楼蘭』はそのように演じていた。逆に物語の『楼蘭』が悪女であれば悪女であるほど、彼女の目論見を達成したように感じた。『楼蘭』が知ったらむしろ喜びそうだ。
猫猫にとってどうしようもない悪女は『神美』のほうだが、噂話でもこの本でも『楼蘭』が徹底的に悪女扱いされている。
大立ち回りの末に、皇弟の顔を傷つけた。
(ここだけ手に取るようにわかる虚構)
仙女のごとく麗しい顔に傷をつけたのだから、誰よりも悪い女になるはずだ。理由も「自分より美しかったから」という陳腐なものである。
とはいえ、手垢がつくほど回し読みされていただけあって、読み応えがあるものだった。猫猫が何の関係もない者として見せられていたら、面白いと感じただろう。
猫猫は本を閉じると、畑仕事で汚れた服を着替えて、緑青館へと向かう。
妓楼は開店準備のため、女たちが忙しく動いていた。
猫猫は店じまいをしている左膳に声をかける。
「趙迂は?」
「さっき家に戻ってたぞ」
「いや、そのあとだよ」
左膳は猫猫の表情を見てなにか感じたようだ。
「なんかあったのか?」
「……この本、流行ってるのか?」
左膳は顔を曇らせる。左膳は趙迂の経緯を知る人間の一人だ。
「店じまいしながら話すか」
「ああ」
猫猫と左膳は薬屋の中に入る。中は片付けの途中で雑然としていた。
(薬づくりは丁寧にはしているな)
創造性はないが言われたことはちゃんと守る。左膳の長所であり短所だ。やりかたも変えていないので猫猫も片付けを手伝える。
「趙迂の記憶は戻っているのか?」
猫猫は売れ残った薬の確認をしながら言った。
「うーん、それがわかんねえんだ。ただ、普段は勉強が嫌いなのにこの本だけはしっかり読んでいた」
記憶が戻ったら面倒になる。記憶がないことを前提に取られた特別処置なのだ。温情ともいえよう。
「問い詰めたところで簡単に話すわけがないよな。左膳にも反抗してるのか?」
「俺にはそれほどあたりは強くねえよ。ただまあ難しいお年頃で、そろそろ身長こされて力負けしそうで怖い」
「負けることはないだろ」
身長は伸びても、体に麻痺が残っている。
「右叫にも頼んで、趙迂の監視を強めてもらうけど問題ないか?」
「俺に聞かないでくれ。何より変な動きがあったらすぐ報告する、だから――」
「だから?」
「趙迂を国賊にしないでくれ」
左膳は猫猫の顔色を窺っていた。生意気なくそ餓鬼だが、左膳にとっては多少は愛着がある子どもなのだろう。
猫猫とて簡単に見捨てるのは無責任だと思っている。
「私だってそんな面倒くさいことは勘弁だ。何より約束を違えることになってしまう」
「約束か。そうか」
妙に納得した声で左膳は言った。
猫猫が誰と約束したかなんて、左膳には言っていないはずだ。だが、左膳は妙に知ったかぶっているように聞こえた。
たまたまそう聞こえたのだろうと猫猫は流すことにする。
「あとこの本について気になることを言っていいか?」
「何だ?」
左膳は頁をぺらぺらとめくる。
「この作者、まさに大衆向けに受けるように話を書いてるよな」
「ああ、噂話通りに」
「でも、ここら辺」
左膳はある描写を指す。
『楼蘭』を悪女たらしめるために数々の拷問をやったとある。
「やったのは、母親のほうなのに。……ん?」
猫猫は首を傾げる。
「ほら、おかしいだろ」
「おかしい」
『神美』の仕業がすべて『楼蘭』のせいになっていた。
「実はこの拷問のどれもが砦の中で行われていたことなんだよ」
「本当か?」
「あんたは知らないだろうが、砦の描写も細かいところで妙に一致するんだ」
「つまりこの本の作者は、子の一族の関係者だと言いたいのか?」
左膳は頷く。
だったら巧妙に検閲を避ける理由もわかる。身元がばれるのを防ぐためだろう。
「左膳がいるから、他に何人も逃げ出していてもおかしくないか」
何より銭をばらまいて火薬を爆発させて下男たちを砦から逃がしていたのは他ならぬ悪女ご本人だった。
とはいえ、火薬を製造していた下男たちにこんな物語を書けるほど字の達者な者がいるだろうか。
「なにより身元がばれる危険を犯してまでこんな物語を書く理由はあるのか?」
猫猫は唸りながら薬箱の抽斗を開けた。黒糖の在庫がずいぶん減っていた。
「趙迂におやつとして黒糖やってないよな?」
「やってねえよ、たまにつまみ食いされるけど」
やっぱりと猫猫は抽斗を戻す。
「しかし道理でじっくりこの本を読んでいたわけだ。他に何冊か似たような本があったけど流し読みしていたのに」
猫猫は本の最後の頁を見る。作者の名前は『漢 俊杰』よりありふれた名前で『張 三』とある。本名とは思えない。
手書きなので印刷所の判もない。
(徹底的に検閲対策してるな)
「作者に心当たりないか?」
「わっかんねえよ。あの砦に何百人いたと思ってるんだ」
「それもそうだな」
「ともかく趙迂に異変があったらすぐ知らせる」
「頼む」
猫猫は本を手にすると、薬屋を出る。やり手婆に本の出先を聞いたら、宿舎に帰らないといけない。
(自由に休みが取れたらいいんだけど)
そうもいかないのが勤め人のつらいところだ。