一、兄保育
ざくざくと土を耕す音がする。
猫猫はぼんやり頬杖をついて、畑仕事をする男を見ていた。
場所は都の城壁のすぐ外側、ここには猫猫や養父の羅門が作った畑がある。いや、あった。
衛兵には城壁に張り付いた葛を処分する代わりに、畑については目を瞑ってもらっていたのだが――。
ここ数年、まともに畑の世話をしていない。荒れ放題になっていた。
だが壁の葛だけは綺麗に片付いている。
(前に葛を駆除したのはいつだっけなあ)
左膳と克用を連れて採取したのを思い出す。
あのときは克用の本質について何も知らなかった。知らないが故に単純に悪い奴ではないと思っていた。
今、荒れ果てた畑にいるのは羅門でも左膳でもない。
「いい場所あるじゃないか!」
いきいきした顔で額の汗を拭くのは羅半兄だ。
変人軍師の屋敷の庭を耕すだけ耕して、ちょこちょこ敷地外も耕していたようだが駄目だと言われたらしい。
(そりゃそうだ)
そういう理由で猫猫にちょうどいい土地はないかと聞いて来たのだ。花街のあばら家にある畑は薬草を植えるために取っておくとして、使えそうな場所はここしかなかった。
「羅半兄はいつも元気ですねえ」
「体が資本だからな。しっかり食って、しっかり寝て、しっかり動く」
「何を植えるんですか?」
季節を考えるとそんなに植えるものはなさそうだ。羅半兄を見ていると暑苦しいが、口から吐く息は白く濁っている。
「うーん、具体的に何か植えようとは考えてなかったな。寒起こしと土壌改良だけしとこうかと思っていた」
「蝗対策というわけでもないんですね」
地面を掘り返すことで、蝗の発生を防ぐ効果があることは猫猫でも知っていた。嫌というほどやってきた。
「まあとりあえずこれ撒いてくれ」
羅半兄は大きな袋を指す。中をのぞくと砕いた貝殻の粉が入っていた。
「おまえらも手伝えよー」
『はーい』
羅半兄の周りに子どもたちが集まってくる。
四番、五番、六番に俊杰、それから梔子だ。
(妙な集団になってる)
猫猫は腕を組んで不思議そうに眺める。
俊杰はともかく梔子がなじんでいるのが妙におかしい。あれだけ病弱なお嬢さまをやっていたというのに、今は薄汚れた服に藁沓を履いている。雪は降っていないが、外気は冷たい。
頬を真っ赤にして、貝殻の粉をまく姿は皇太后の姪、皇帝の従姉妹だと誰が思うだろうか。
本来なら止めるべきところだが、本人はとても楽しそうだ。何より走り回れるくらいに元気になったのは喜ばしい。一時期の飢えた獣のような姿には驚いたが、今はだいぶ落ち着いているらしい。
「おーい、そこ撒きすぎだぞ。まんべんなく撒いていくんだ。ちゃんとしないと作物の出来が悪くなっちまうぞー」
「はーい」
あまりに素直な返事を聞いて、猫猫はそっと花街にいる反抗期の趙迂を思い出す。
(あいつも羅半兄に任せたら素直になるんじゃないだろうか?)
羅半兄は人望があるが野心はない。一応、人並みに金持ちになって出世しての欲もあるが、今の姿が似合いすぎている。
(そういや羅半に騙されて西都に来たんだもんな)
羅半兄の名前は残らないが、彼の功績は今後、西の地で語り継がれるかもしれない。
(一揆だけは起こしてくれるなよ)
羅半兄が何かに反逆するときは、鍬を持って農民たちを率いる姿しか思いつかない。
「おーい、羅半妹ー。暇なら手伝えよー」
羅半兄はたまに猫猫を『羅半妹』と呼ぶ。いつもなら「妹じゃない」と否定するところだが、羅半兄に言われると仕方ないと思うときがある。
「暇っていうか、羅半兄が畑になりそうな場所案内してくれって言ったんじゃないですか」
「でもたまには体動かしたほうがいいぞ。なんかさっきは切羽詰まった顔をしていたからな」
「……」
何か悩んでいることを察してくれたらしい。
(妙に鋭い)
だが詮索しない。
猫猫は克用という存在をどう扱うか悩んでいた。
彼は無害な相手に対しては無害、有害な相手には有害だ。彼の行動は生き物としては正しい。
今のままで緑青館に入り浸っても、問題がないと信じたい。薬屋を任せている左膳は根は悪い奴ではない。やり手婆もごうつくだが、犯罪めいた商売はしない。
昔なら猫猫はもっと簡単に目を瞑っていただろう。だが、法というものに近い人たちと接するようになると、道をいくつも外れている克用を罰するべきか悩んでしまう。
猫猫が悩んでいることを羅半兄に見抜かれていた。
「考えても仕方ないことを考えてる顔だな」
「ええ、考えても仕方ないことを考えてました」
猫猫は大きく息を吐く。
こんなときの猫猫の行動指針はなんだったろうか。
(考えても答えが出ないことは考えるだけ時間の無駄だ)
とりあえず横に置いておく。そして、今やれることをやる。
「とりあえず一度忘れて仕事をします」
「そうしろ、そうしろ。ってか、羅半も連れてくればよかったな。あいつも頭でっかちで運動全くしてねえだろうが」
「羅半は翌日から使い物にならなくなりますよ」
「それもそうだ」
猫猫は羅半兄から鍬を受け取ると、貝殻の粉を地面にすき込んでいった。
畑仕事のあと、猫猫は羅半兄たちと途中で別れる。元々、土仕事をするつもりはなかったので着替えは持ってきていない。
泥だらけの姿で宿舎に戻るわけにもいかず、花街によることにした。
「うっわー、汚ねえ」
猫猫の元住処のあばら家には趙迂がいた。反抗期真っ最中のくそ餓鬼は猫猫の背を追い越しているようだ。
「着替えしに来ただけだ」
「……」
趙迂は急に不機嫌になり、あばら家を出ていく。
「態度悪いな」
猫猫は気にせずに古びた行李を開ける。以前、古着屋でもらった趣味の悪い服が何着かあった。泥だらけの恰好よりいくらかましだろうと思っていたら、つんつんと肩を叩かれる。
誰かと思ったら梓琳だった。趙迂も成長したが、梓琳もだいぶ大きくなっている。まだ禿扱いだがこのままだと二年もしたら客を取らされそうだ。
「何か用か?」
いつも趙迂の後ろにくっついている金魚の糞だ。
梓琳はもの言いたげな顔をしているが、口がきけない。耳は聞こえるのだが、喋ることはない。生まれたときから喋ったことがないと聞いている。生まれつき喉に異常があるのか、それとも言葉を覚える前に病気や怪我でしゃべる機能を失ったのか。
猫猫は薬師として原因を追究したいところだが、専門分野ではないので難しい。
梓琳は砂が入った箱を持ってくる。
『趙迂、最近おかしい』
話せない代わりに字はしっかり教わっているようだ。
「私以外にもあんな態度なのか?」
『そうじゃなくて』
梓琳はどう書いたらいいのかわからないと唸る。
『思いつめてる』
「何を?」
梓琳はいそいそと懐から本を出した。何度も回し読みをされた手垢にまみれた本だ。
『この本を読んでからおかしい』
「……そうか」
猫猫は梓琳の頭をぽんと叩く。
「これ、借りていくぞ」
『うん』
猫猫は本を受け取った。
題名は『北の悪女』と書いてあった。