一、親父(12.12.07改)
蛇足編は蛇足にならないようにするため、全面書き直し中です。
旧蛇足編はこちらにおいてあります。
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「それは本当でしょうか?」
丁寧な言葉づかいだが、それだけでは敬う心が足りない御方に壬氏は言った。美髯をたくわえた壮年の君は、ゆっくりと頷く。
場所は、宮廷のとある宮。小さな造りだが、周りの見通しがよく鼠一匹忍び込むことはできまい。
玻璃の器に葡萄酒を手酌で注ぎ、ゆっくりと象牙飾りのついた長椅子に横たわる君。この国で誰よりも尊き方と同席をする壬氏は、それでいて非常にゆったりとくつろいでいた。さきほどまでは。
帝は美髯を撫でながらにやりと笑う。食えない、そんな言葉が似合うと言えば非礼にあたるだろうか、だがそれがとてもよく似合う、決して勝てない御方なのである。
「さあてどうする? 朕の花の園を手入れする庭師であろう、おまえは」
いかにも挑発するような物言いに壬氏は、苦笑いを浮かべたくなった。しかし、そこにあるのは、誰もが蕩けると言われる天女の笑みだろう。自分で言うのもおかしな話だが、壬氏は自分の容姿だけは自信があった。皮肉なものである、本当に自分が欲しいものはなかなか手に入らないというのに。そう、どんなに努力しようとも優にはなれど秀にはなれぬ、所詮は凡人に毛が生えた程度のものなのに、外見だけは誰よりも優れたものがついてきたのだから。
昔は気に食わなかったそれであるが、今はもう割り切っている。知も武も秀才の域を出ないのであれば、他の秀でたものを利用しようと。結果、壬氏は美しき後宮管理官として存在している。甘い眼差し、甘い声、男として過剰すぎるそれをいくらでも利用しようではないか。
「御心のままに」
たおやかでかつしたたかな笑みを浮かべて壬氏は、帝に礼をする。
やれるものならやってみろ、と帝は葡萄酒を口に含んで笑っているようだった。
わかっている、壬氏など所詮は子どもに過ぎない。そして帝の大きな手のひらの上であがいているに過ぎない。
なんだってやってやる。
壬氏は、無茶な帝の願いを聞き届けなくてはならなかった。それが、壬氏の仕事であり、同時に帝との賭けでもあった。
賭けに勝たなくてはならなかった。それが、壬氏が自分の道を選ぶ唯一の方法だ。他に方法はあるかもしれない、だが凡人である壬氏にはその方法が思い浮かばない。
ゆえに今の道を選んでいる。
壬氏は、杯を口に含むと、甘い果実酒で喉を潤した。
その顔に、麗しき天女の笑みを浮かべて。
〇●〇
「はいはい、これも、これも。ああ、これも持っていきな」
慌ただしく紅やおしろい、衣を投げつけるのは妓女の梅梅である。場所は、緑青館の梅梅の部屋で猫猫は女童に言われてこちらに来たのだった。
「こんなにいらないよ、小姐」
猫猫は投げられた紅やおしろいをつかむと、そのまま部屋の棚に戻す。梅梅は、その様子を呆れた顔で非難する。
「いらないじゃないわよ。あっちじゃもっといいもの使っている奴らばかりなんだからね、ちょっとはまともな格好しなさい」
「仕事に行くのに洒落るのは、妓女くらいなもんでしょ」
昨日とってきた薬草を調合したいなあ、と猫猫がよそ見をしていると、木簡が飛んでくる。面倒見はいいが、少々短気な梅梅が投げたものである。猫猫は頭をおさえてうずくまる。
「あんたは、せっかくいい仕事もらえたんだから、それに見合う人間になろうとか思わないわけ? 世の中、あんたの立場がうらやましくて仕方ない人間だっているのよ。そこんとこ、感謝しながら生きていかないと、せっかくの上客だって逃げちゃうんだから」
「……わかりました」
やり手婆といい梅梅といい緑青館の教育は少々手荒い。しかし、梅梅の言葉には説得力があり、猫猫は少しばつが悪そうに木簡を拾う。木簡は何度も書いては削ったあとがあり黒ずんでいて、その上に秀麗な文字で歌が書かれていた。梅梅は妓女としては、もう引退を考える年齢であるが、今なお人気が衰えないのはその知性があるからだ。歌を作り、碁や将棋を行い、客を楽しませる。色ではなく芸を売る妓女である。
梅梅は緑青館の三姫の一人である。老舗妓楼の最高級妓女に上り詰めるには、どんな努力が必要だったかわからない。だが、梅梅は自分が今の地位にいるのは、自分に知識を教えてくれた大姐のおかげだという。妓楼でいう大姐とは血縁の姉ではなく、自分を禿時代に雇ってくれた妓女のことをいう。
現在、三姫である三人の妓女はすべて同じ大姐に雇われていた。
「せっかくいいところ勤められるんだ。しっかり稼いでくるんだよ」
先ほどまでの木簡を投げつけた乱暴な小姐でなく、優しい面倒見のいい小姐がいた。ゆっくりと爪紅をつけた指先で猫猫の頬を撫でると乱れた横髪を耳にかけてくれた。
「……はい」
猫猫が素直に返事すると、梅梅はにっこりとたおやかな笑みを浮かべる。
「んでもって、いい旦那でも見つけてくるんだよ。場所が場所だけに、有望株はたくさんいそうだから。ああ、ついでに上客もつれてきてくれるとうれしいわ」
先ほどまでの優しい笑みとは違い、少々腹黒さが混じっている。
くくくっ、と笑う梅梅小姐は、どこかやり手婆に似ているな、と猫猫は思うのだった。妓女になるということはしたたかでなくては生きていけないからそんなものである。
結局、猫猫は大風呂敷に衣や化粧道具一式を詰め込まれて持ち帰る羽目になった。帰り道、他の妓女たちにもいろいろ手土産を持たされ、一方的に新しい客を連れてくるという約束をさせられた猫猫は、重い荷物によろめきながらあばら家へと帰るのだった。
後宮をでて半月後、麗しき貴人が花街に現れたのは記憶に新しい。
物好きな宦官は、冗談めいて言った猫猫の言葉を鵜呑みにしてくれた。借金の肩代わりとしては、十分おつりがくる金子をやり手婆の前に広げて見せ、手土産には冬虫夏草という気の配りようである。契約書に判を押すのに四半時もかからなかった。
よって、猫猫はまたやんごとなき場所にてお勤めをすることとなる。親父を置いたまままた住み込みで働くことになるのは、少々気が引けるが、契約書を見る限り以前よりもずいぶん規則がゆるくなっているようだ。まあ、前のようにどこにいるかもわからない行方不明の状態というわけではないので、親父は「好きにしなさい」と柔和な笑みを浮かべていた。だが、契約書を見た際、一瞬表情を曇らせて猫猫を見たのはどういうことだろうか。まあ、元宦官である親父にとってあまり良い思い出がない場所でのつとめなのでそのような顔をしたのかもしれない、と深く考えないことにした。世の中、深く考えても結局無意味なことは多いのだ、考えるだけ無駄である。
「ずいぶん貰ったねえ」
おっとりとした口調の親父は、大鍋で薬草を煮ながら言った。
隙間風が入るあばら家は、竈に火をつけていてもまだまだ寒く、猫猫と親父は服を何枚も重ねて着ている。親父は膝をしきりに擦っているところを見ると、昔、肉刑を受けたところが痛んでいるのだろう。
「あんまり荷物持っていけない」
猫猫は、すでに準備をしていた荷物を見る。すり鉢に薬研、薬草の種類を書き留めた帳面に必要最低限の衣服や下着。
(すり鉢も薬研も絶対必要だし、帳面も絶対いる。だけど、これ以上、下着を減らすのは)
猫猫が眉間にしわをよせながら唸っていると、親父が鍋を竈から下ろすと猫猫に近づいてきた。
「猫猫や、たぶんこれは持っていってはいけないよ」
調合道具を風呂敷から外されて猫猫は親父を怪訝な目で見る。
「医官でもないのにこんなものを持っていけば、毒殺でもしているのかと疑われる可能性があるからね。……ほら、そんな顔しない。おまえが決めたことだから、今更取りやめなんて駄目だよ」
「うそだろ……」
猫猫は力なく土間に座り込んだ。
その表情は、とりあえず親父が一目見て何が言いたいのかわかる顔をしているらしい。
「はいはい、早く準備して寝なさい。少しずつ許可をとれば持ちこめるものもあるからね。初日からぼんやりしたら失礼だろ」
「……わかったよ」
猫猫はしぶしぶと調合道具を軋んだ棚に入れると、貰った餞別の中でいくつか使えそうなものを風呂敷の中に入れた。紅の入った貝殻とおしろいを見て目を細めたが、とりあえずかさ張らない紅だけは風呂敷に入れた。
貰ったものの中には上等の綿入れも入っていた。客人の忘れ物をくれたのだろうか、その柄は妓女が着るような代物ではなかった。
猫猫は、鍋を片付け竈の火に薪をくべる親父を見る。親父は薪をくべ終えると、痛々しい歩き方をしながら、菰に薄布をかけただけの布団に横になる。上掛けもまた菰と着ていない着物を重ねただけである。
「ほら、終わったら明かりを消すよ」
魚脂の匂いがする灯篭を持って親父が言う。
猫猫は風呂敷を包み終えると、部屋の反対側にある寝床におさまろうとした。だが、ふと何かを思いつき、菰をずるずると引きずった。
「なんだい、ずいぶん久しぶりだねえ。もう子どもじゃないんじゃなかったのかい?」
「まあ、寒いし」
少し視線を気まずそうにずらす猫猫。持ってきた布団は、親父の寝床の隣に移動した。たしか、十を過ぎた頃には一人で眠るようになっていた。一体、何年ぶりだろうか。
猫猫は、貰った上等の衣を親父と自分の布団の間にかけると、ゆっくり目を瞑った。背中を丸めて胎児のように横になる。
「また寂しくなるねえ」
おっとりとした口調のまま言う親父の言葉に、
「別に。今度は何時でも帰ってこれるからさ」
猫猫はそっけなく返した。
だが、その背中は親父の腕に触れていて、ほんのりと温かかった。
「そうだね、いつでも帰っておいで」
猫猫の頭をしわがれた手が撫でた。親父、親父と言ってはいるが、その容貌は老女に近い。そして、その性格は周りから言わせたら母親のようであるという。
猫猫には、母親はいない。でも、優しい親父はいるし、うるさい婆ならいるし、にぎやかな小姐はたくさんいる。
(いつでも帰ってこれるからさ)
そうは思っていてもやはり物寂しいものはある。猫猫は髪を撫で続ける枯木のような手の温かみを感じながら、寝息をたてはじめた。