一、鶏肉
皇帝の手術を無事に終えてから半月、猫猫はいつもの業務半分、投薬実験半分の仕事形態に落ち着いた。皇帝の術後の治療は上級医官に代わってもらっている。投薬実験の規模は減ったが続けるのは今後、役に立つと考えたためかもしれない。
季節も肌寒くなってきて、医療服も厚手の生地に衣替えしている。町の診療所の患者の布団も少し厚手の物を足したところだ。
「わんわん先輩。仕入れる薬剤はこちらで問題ないですか?」
猫猫は、長先輩ことわんわん先輩に記帳を渡す。
「問題ないが、なんか最近やたら名前を呼ばれる気がする」
「そうでしょうか」
「あと発音がちょっと独特な気がする」
「気のせいでしょう」
わんわん、『王旺』と書く。
他人の名前と顔を覚えるのが苦手な猫猫にとって大変ありがたい名前だ。つい愛着を込めた発音になるのは仕方ない。
「よしこれで薬剤を発注しておいてくれ」
「わかりました。あと私は午後から宮廷に戻りますがなにか用事はありませんか?」
「うーん。今のところはないなー。そういや今日は薬剤室の確認か?」
わんわん先輩は猫猫と同じく薬の在庫確認をしているので当番が誰かわかっている。
「はい」
「じゃあ、近くに天祐あたりがいたら煽っておいてくれ」
「しかと承りました」
猫猫はぴしっと背筋を伸ばして返事をする。
散々大変だった皇帝の手術について、一番やらかしたのは誰かと言えば天祐だった。どうやらかしたといえば、極度の緊張による失敗ならまだいい。だが、天祐の場合、天祐が天祐たる所以でのやらかしであったため、情状酌量の余地はなかった。皇帝の命に係わる仕事の途中で私情を挟みまくった天祐が悪い。むしろ首を斬られないだけましだったというべき温情措置だ。
かなり減給されているし、残りは居候先の食費なので無給と言ってもいいが。
というわけで、天祐はこれからしばらく無賃で働くだけでなく、医官という医官から毎回煽られるという罰になった。
煽ったところで元々飄々としている天祐だ。医官たちの間ではどうにかして天祐を悔しがらせるのが一つの流行になっていた。
(いじめかどうかと言われると)
天祐本人がまったくこりてないどころか楽しんでいる節さえある。
そんな流れで猫猫は宮廷へと戻る。
薬剤室には後輩の妤がいた。猫猫たちがいないときは補充をやってくれている。
「猫猫さん、さっき補充したばかりなので確認お願いします」
「はい」
賢い後輩は、基本的な仕事はちゃんと覚えている。なおかつ驕らずにさらしや敷布の洗濯、器具の消毒などやってくれる。
(基礎がちゃんとできるってすばらしい)
いくら賢くても話を聞かない人間というのは質が悪い。そして質が悪い人間がやってきた。
「やあ、娘々に妤。お仕事中かい?」
天祐だ。
猫猫は無視しようかと思ったが、わんわん先輩のことを思い出す。
「ええ天祐さん、お顔がやつれていますが、ちゃんと食事はとっていますでしょうか?」
「うん。劉医官のところで食べさせてもらっているからね」
劉医官は天祐を野放しにできないと思って責任もって飼っているが、さすがに飼いならすことは無理らしい。
猫猫とて天祐を煽ることが難しいのは良く知っている、だから、特別な道具を用意した。
「そうですか」
猫猫はさっと取り出すのは大きな籠だ。籠の中に何があるかといえば――。
「そ、それは!」
大きな鶏肉だ。頭を切り落とし、羽根を抜き、血抜きはしっかりされている。若鶏ではなく卵を産まなくなった廃鶏だが、だからいい味が出る。しっかりことこと煮込んで、卵とくず粉を入れてとろみのある汁物にしたら大変美味い。
仕事で街中にでることが多い猫猫は、夜食の買い出しを頼まれることもある。医局で汁物を作り持って帰れば、医官たちに感謝されるし夕餉代も浮くので一石二鳥だった。
だが、天祐が食いついてきたのは汁物ではない。
「あー、おねがいだからさー。ねえ、娘々、その鶏、解体させてくれない?」
わざとらしく両手を頬に当て、普段の魚のようなどんよりした目をきらきらさせている。
劉医官はわかっている。減給程度では天祐は反省しない。
(奴を苦しめるには)
天祐が大好きな解剖をさせないことだ。
外科手術でやらかしているので、しばらく外科手術は出禁になっている。それどころか遺体の腑分けも、それどころか動物の解体作業もさせてもらっていない。
銭がないので市場で肉も買えない。
たまに禁断症状がおきると、かろうじて食用蛙だけは出してくれるらしい。
「あー、ねえおねがいだよう。うまくさばくから解体させてよー」
「いやですねー」
普段なら手間が省けたとまかせるところだが、今日はじらしにじらしまくってやる。
「あー、そういえば水が欲しいなあ。この水瓶一杯に水を汲んでこなきゃなあ」
「はい、やらせていただきますから。ねえ、おねがーい」
散々、じらした挙句水汲みと洗濯をやってもらった。
仕事が早く終わった分、医務室で内職をやる。妤も同じく猫猫の横に座り、洗濯し終わったさらしをくるくる巻いていく。
隣の部屋ではようやく鶏の解体にありつけた天祐が見事な包丁さばきを見せていた。筋に従いするすると分けられていく。
「もも肉は炒め物に使いますので一口大に切っておいてください。骨はねぎと一緒に鍋に入れて茹でてくださいね」
「はいはーい」
味付けは猫猫がやる。同僚の燕燕のほうが料理上手だが、今日はいないので仕方ない。
「いいんですか、劉医官に止められているのでは?」
妤が猫猫に耳打ちしてきた。
「たまにああやって餌をやらないと、そのうち近くにいる人間解体しそうじゃないですか」
「……いやまさか」
(いや、やる)
天祐とはそれだけ危ない男だ。だからこそ手綱の扱い方は心得ておかねばならない。
「ちゃんと灰汁はとってくださいね」
「わかってるー」
そんなやり取りをしていたら、老医官がやってきた。
「おや、今日の夜食はなんだい?」
「蛋花湯です」
「ほうほう、木耳はいるかい?」
「あるならください」
老医官は薬箱の中から黒い乾物を取り出した。ちゃっかりしたこの医官は、薬味や具材になる生薬を仕入れている。医官の健康を保つことも立派な仕事だと言い訳していた。
猫猫は木耳を湯で戻しつつ、汁物に酒や塩を加えて味付けをしていく。
鶏肉の炒め物はありあわせの野菜で適当に作る。
「医官さま。畑を作ってはいけませんか?」
猫猫は老医官に聞いた。
猫猫としてはねぎや韮くらいとれたての新鮮なものを作りたいと考える。そしてあわよくば生薬もたくさん植えたい。
「だめだよ。前に畑を任せた官女がやらかした件があるからね」
「そーですねー」
どの官女かといえば翠苓のことだ。壬氏暗殺を企てたとして、現在存在を許されていないことになっている。
老医官は鼻をひくひくさせながら、文を読んでいた。
「そこにいる子は妤だったっけね」
「はい」
「……ふむ、ちょっといいかい?」
「なんでしょう?」
猫猫ではなく妤に日誌を見せている。気になって猫猫も近づく。
文は他所の地方で働く医官からのものだ。
「……これは」
妤の顔色が変わる。
「うーん、ちょっと怖いことになるかもしれないなあ」
文には水膨れができた患者が増えていると書かれてあった。