十六、皇子と乳母
手術はつつがなく終わった。いや、終わるまで色々あったが、成功したので良しとする。
本当に色々あったのだが――。
そういうわけで、次は猫猫たちの出番だった。たとえ手術が終わっても、術後の経過が悪くて、死亡となっては困る。
術後の主上の部屋は、言うまでもなく特別室だ。普段の寝所ではなく、近くに別の部屋を特別に作った。すぐそばには医官たちが常駐した部屋もある。
全体的に白い部屋には、最低限の調度品。華美な装飾は控え、埃が立たぬよう、掃除がしやすいようにしている。
特に気を使っているのは寝台だった。あまり寝返りがうてないこともあって、柔かすぎず硬すぎずちょうどいい布団を寝台に敷き、体躯に合わせて段差をつけている。
変わっているのは寝台二台を隣り合わせにしており、なぜそんなことをするかと言えば、敷布を毎日交換するためだ。汗や皮脂はかびや虫の原因になる。数日なら問題ないが、ここで毎日取り換えるのが帝というものである。寝心地を良くするために汗で湿っているだけでも取り替える。その際、もう一つある寝台に移動してもらうのだ。
(超高級寝台、お値段いくら?)
それこそ装飾は派手ではないが、天蓋の帳ひとつでも絹の衣が何着つくれるだろうか。
最初は、まったく同じ部屋を作り、敷布交換、掃除のたびに移動してもらう話だったが、移動させるのはどうかという話がでてこのように落ち着いた。なお、掃除中は換気に気を付け、埃を飛ばさないよう細心の注意を払う。
さらしの交換は一日二回。劉医官たちが傷口の様子を見る際に替える。正直、医官たちは一日一回で十分だと思っているが、煩い高官たちの中には半時ごとに確認しろなどと無茶をいう奴もいる。変に回数を増やしても、外部から毒が混入する可能性が高いとは思わないらしい。
食事は流動食だ。
猫猫は梨花妃の看病を思い出す。重湯を持ってくるたびに主上は辟易した表情を見せる。切られた腹は痛いが、慢性的な腹痛や吐き気はおさまっていた。
なお、着替えや清拭はさらしを交換する際、医官たちがやっている。侍女や官女にやらせない理由としては、じゃらじゃらした格好の女たちを近づけないためだ。
(さすがに髭の大旦那も手を出す元気はないだろうけど)
女官たちはこれ幸いに変な気にさせるかもしれない。
勿論、病人に対してそんな不埒な真似を許すわけにはいかず、なおかつ皇后である玉葉后の面会も控えてもらっている。
部屋の掃除は猫猫や劉小母さん、それから特別に駆り出されてきた水蓮がやる。
そして、現在猫猫は水蓮と共に掃除中だ。埃が飛ばないように細心の注意を払いながら、丁寧になおかつすばやく掃除をしていく。壬氏付だった時代を思い出し、猫猫は少し萎縮していた。いびりとまではいかないが、厳しくしつけられた記憶が思い出される。
(この人、何でもやれそうだもんなあ)
壬氏の乳母だが、その前は皇帝の乳母だったこともある。その点では、気が置けない相手に違いない。
「この場所には花がないなあ」
掃除をしていると寝台の帳の奥から声が聞こえた。
「あら、嫌ですねえ。誰のせいでこんなに老けた白髪のおばあちゃんになったと思うのかしら?」
鼻歌をまじえながら水蓮が言い返す。
護衛はあまり見たことがないが、たぶん馬の一族の者だろう。戦々恐々とした顔で水蓮を見ていた。国の頂点に立つお方に対して軽口を叩くおばあちゃんがいるのだ。
(普通なら不敬と取り押さえられるだろうけど)
むしろ娯楽のない寝たきりの状態の皇帝は、水蓮の軽口を楽しんでいる。これでは、水蓮を止めたほうが咎められそうだ。
「誰がお乳をあげて、おむつを替えてあげたと思っているのかしら?」
「そんな覚えてもない幼い頃の話は知らん。ただ……、刺客から庇ってもらったことは感謝している」
幼かった皇太后を守った伝説の侍女と言われただけのことはあった。どんな活劇があったのか聞きたいところだが、深く立ち入りすぎてはいけないと猫猫は床の乾拭きを続ける。
「阿多もあんな目にあっていたのか?」
「ええ。知らなかったんですか?」
「そうだな」
「あらあらまあまあ」
おっとりしている声でいて、何かしら怨嗟が含まれている気がした。
「やはりさっさとお金が貯まったら出て行くべきでしたかねえ」
「そんなこと考えていたのか?」
「だって娘衣装も嫌いな跳ねっかえりですもの。あのまま宮廷にいても官女になれるとは思えないでしょう? 貯めたお金を元手に、商売でも始めましょうかと話していましたのに」
「朕が計画の邪魔をしたようだな」
「よくおわかりで」
護衛だけでなく猫猫も冷や冷やしてくる。とはいえ、皇帝が水蓮を罰することはないとわかっているので、息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
「ところで、水蓮。瑞についてだが」
「はい」
「あやつは知っているのか?」
(何を知っているのか?)
猫猫は壬氏の出生についてのことだと思った。手術の前日、壬氏とともに先に退室させられた。壬氏は、自分が皇帝と阿多との子だと気付いているのか、いないのか。それは猫猫にはわからない。
「知っていても知らなくてもどちらでも問題ありませんよ」
水蓮は手を止めずに話す。
(そうだな)
壬氏は知っていても知らなくても変わりない。変わるとすれば周りなのだ。
そして、皇帝さえそのことを口に出しさえしなければ、何も起こらない。皇帝はもう話すことはないだろう。
「さーて、坊ちゃま。おんばはお部屋を出ますけど、寂しくないですか? お話の読み聞かせくらいならできますよ」
(っふ!)
猫猫は噴き出しそうな口を思わず塞いだ。塞いだのはいいが、手に雑巾を持っていたので、うげっとなった。
猫猫だけでなく護衛も苦しそうだ。ぎゅっと唇を噛みながら、指で己の太ももに爪を立てて笑うのを我慢している。
「坊ちゃまはやめてくれ」
その聞き慣れた台詞は、壬氏とそっくりだった。