十五、告白 裏
取り乱してしまった、と阿多は思った。
他三人の表情を見ながら、気付かれたと思いつつ知らないふりをしてくれるのは助かった。無かったことにして欲しい、無かったことにする。
陽は手術前になぜこんな風に月を呼び出したのか。そして、表向き無関係な阿多を呼んだ意味について考えた。
陽は、月を手放す気がないのだと思った。それは、阿多と昔かわした下らぬ約束のためか、それとも己が『天』であるために、月にも『天』を継がせたいのか。
故に遺言としながら、阿多などを呼ぶ。
本来、そんな重要な場面に妃でもない女はいらない。皇后である玉葉を呼ぶべきなのだ。
月を縛る方法はある。それこそ、帝として公式に後継者に指名すればよい。敵は多かろうが味方も多い。なにより実の息子ではなく弟を指名することは、周りを困惑させるだろうが、それも解決する。
ここで月に自分の本当の息子であると伝えればいい。
いくら月であろうとも、陽の命を拒めなくなる。
まだ他の皇子たちが幼いこと、月の執務能力の高さ。その二つは、生母である阿多の位の低さも撥ね退けるだろう。
ただ皇后玉葉とその一族にとってはとんでもない話だ。
陽は玉葉を寵愛している。彼女の立場の他、人格も気に入っているだろう。何度か茶会をしたことがあるが、いい妃だと思った。少なくとも好んで国を陥れようと思う性格ではない。
玉葉を困らせたいわけではない。
あえて火種となる死んだはずの皇子を今更出す必要はない。
陽がやろうとすることは、愚かにも程がある行動だと阿多は考える。
でも、当人はわかりつつも思っているはずだ。
陽は『人』ではない、『天』である。それ以外の者は『人』なのだ。陽がやることは、陽が皇帝であるうちはなんでも許されるのだ。それこそ天命が革まらない限り。
『天』なので『人』を好きなように扱える。たとえ思いつきでも夜伽の指南役に選ぶことがどんなことか考えなくてもよい。『人』一人を生涯面倒見るだけの権力を持っている。だから、気にしなくてよい。
陽は『天』だが、月はどうだろうか。月もまた『天』であるのか。
しかしそれは阿多の杞憂だった。
月は『天』ではなく『人』だった。
陽はまだ阿多を見ている。
阿多は落ちた雫を手のひらで隠しながら、陽を見る。
「陽よ。月はこのように言っている。どうするのか?」
いつも通りの声を出せたはずだ。
「……」
「一度帰らせるか?」
「ああ」
陽の態度に、月も猫猫も呆然としていた。月はなぜ阿多がこの場にいるのかわからないだろうし、さらに阿多が猫猫を呼んだことも意味不明だろう。
察しがいいのに気づかない。
陽を「ちちうえ」と呼んでいる時期もあった。
月と阿多は雰囲気が似ていると何度も言われただろう。
実際、阿多は月の身代わりをしていたこともあった。
気づいていて知らないふりをしていればそれで良い。
それとも水蓮が上手く誤魔化しただろうか。
どちらでもいい。
阿多にとって月が『人』であった。それが確認できたのだ。
そして、陽にとっての衝撃でもあっただろう。
「よろしいのですか?」
月が陽に訊ねる。
「ああ」
「明日の手術はどうされますか?」
「心配するな。大人しく受けよう」
この言葉に月よりも猫猫がほっとした顔を見せる。
「遺言はどうするんだ?」
聞きにくそうな月に代わり、阿多が聞いた。
「あとで書いておく。とりあえず帰れ」
月の顔が不安でいっぱいになっている。猫猫も不安そうだが、手術を受けるという言葉のほうが大きいらしく、そこまで深刻そうではない。
「では、失礼するか」
月と猫猫についていくように、阿多も席を外そうとした。
「待て」
「なんだ?」
「おまえには用がある」
陽は手を離さない。
「はいはい、わかったよ。気にせずに帰れ、二人とも」
月と猫猫は顔を見合わせつつ、退室する。
静かになったところでようやく陽が手を離した。
「私に代筆しろとでもいうなよ。おまえが死んだら、捏造だと処刑されてしまう」
「そんな真似するか」
陽は天井を見る。
「月を次の帝にと書かないのか?」
陽は黙ったままだ。
「月なら座につけばちゃんと仕事をこなしてくれよう。東宮が育った頃に自ら退位するだろう」
陽はまだ仰いだままだ。
「歴史に残る賢帝とならずとも、愚帝にはなるまい」
「……書き記せばよいか?」
「いいや。私に国母は似合わないだろ?」
阿多は自虐するように言った。
「てっきり月に言うかと思ったぞ。私のやった過ちのことを」
「想定して部外者を連れ込んだのは、阿多だろ?」
「言っても問題あるまい。猫猫は聡い」
「羅漢の娘だからなあ」
なぜずっと陽は天井を見ているのかわかった。その目にあふれ出す涙をこぼすまいとしている。
「阿多よ。おまえは朕を恨んでいるか?」
「陽よ。逆に恨まれないと思っているのか?」
「足りないものが何かあったのか?」
「ははは。そういうところだ」
陽は阿多によくしてくれた。東宮時代も帝になってからも、阿多が不自由にならぬよう取り計らってくれた。後宮を去ったあとも便宜を図り、特別であることは周りからも明け透けだったはずだ。
「私を国母にしたかったか?」
「言ったのはおまえだろう?」
陽の目からあふれた水が頬を伝う。
「阿多は朕との約束は守る。約束を反故しない限り、守るだろう?」
「そうだ。何度、おまえから約束を破られたことか」
阿多は呆れた弟分に手を伸ばす。涙を拭き取る真似はしない。逆に髭を引っ張ってやった。
「月の代わりに東宮を立てても、幼いうちは私が残ると思ったのだろう?」
「ああ。阿多は律儀だからな」
阿多は腹が立った。このまま髭を引き抜いてしまおうかと指に力が入る。
「幼い東宮を立てることで、他の臣下たちを上手く操る。時が来れば、立派に育った月と入れ替える気だったか? それとも、私との約束を反故するつもりだったか? 約束を反故するなら、さっさと宣言してくれればよかった。何年も何十年も飼い続けるつもりでいたか?」
優柔不断だ。あってはならないことだが、陽はそれが許される。
「政治ならもっときっぱり決めることができるだろう。私のような無駄なお荷物はさっさと切ってしまえばよかったんだ!」
「荷物ではない」
「荷物だろう! 何年、役目のない妃と笑われてきたと思う? おまえは知らん。女たちの諍いは男ほどひどいものじゃないと高をくくっている。そうだな、直接殴り合いは少ないな。たまに刺され、たまに毒を盛られ、たまに火を付けられるくらいだ」
阿多は陽の髭をぐいっと引っ張り無理やり視線を合わせる。あふれていた涙がこぼれ、はじけるように阿多の頬にかかった。
「私はもう子を産めなくなった。その子どもが死んだとき、なぜさっさと約束を反故してくれなかった」
「阿多よ。おまえは自分から約束を反故にしない。もう約束が守れないと知ったら、どんな形であっても、勝手にどこかへ行ってしまうだろう」
だが、残っていた。
「だからか。赤子の入れ替えに気付いたのは」
阿多は思わず笑いがこぼれていた。入れ替えの共犯である安氏も水蓮も裏切るわけがないのに、とどこから陽にばれたのかずっと疑問だったのだ。
「私の行動原理はよくわかっているんだな」
「ああ」
「そんな陽が私のやりたかったことを忘れたわけでもあるまい」
「ああ」
陽が東宮時代、勉強が嫌で抜け出した先、隠れて菓子を食べることがよくあった。食べながら駄弁りつつ、話したことがあった。
「どうせ私は官になれない。なら、商人にでもなろうかな」
阿多が欄干によりかかりそんな話をしたのは何年前か。夜伽の指南役になれば、商人どころか宮の外にすら出られなくなる。
そんなことがわからないわけがない。
「陽にとって夜伽の指南役はただの思いつきだが、私にとっては一生の問題なのだよ」
「……阿多が商人になれば、宮廷に戻ってくることはあるまい」
陽の白髪がまざり始めた髪がはらりと落ちる。
「朕を置いて戻ってこないだろう?」
「戻ってくるも何も、陽から言われなければ会えなくはなるだろう」
阿多が陽を呼び出せる権限はない。逆ならまだしも。
生まれた時点でその立場が違う。母である水蓮が乳母にならなければ、一生お目にかかることはなかったような相手だ。
陽の言いたいことはわかる。陽はなんでも与えられるが、どこにでも行ける人ではない。
阿多が遠くへ行くことを恐れたのだろう。それこそ、十二、三の幼い時分には、深く考えることもできなかったはずだ。
「おまえをどこにもやりたくなかった。だから、約束を守ろうとしたんだ」
「誰も得をしない約束をか? 私が本当に国母になりたいわけじゃないとわかっていてもか」
「そうだ」
陽は『天』として阿多という『人』を所有した。
陽の子である月はどうするだろうか。
父親と同じ道を辿るのか、そのために猫猫を呼んだ。猫猫を所有するか否か、それを確かめたかった。
杞憂だった。
月は『天』ではなく『人』であった。
「阿多よ。もし、おまえが商人になっていたら、朕と友人でいられたか?」
「宮廷御用達をくれたらいくらでもな」
「ははは」
陽が笑うと共に涙がこぼれる。
「なあ。頼みがある」
阿多は髭から手を離し、陽の首に両手を回した。顔を間近に近づける。
「約束は私から反故にしてやる」
「朕のもとから出て行くということか?」
阿多は、顔を上げようとする陽の頭を必死におさえる。
「いや、最後までいてやる。私の宮の荷物は、他では抱えきれないほど大きいだろう」
翠に子の一族の子どもたち、それから砂欧の巫女。
「だから月の好きなようにやらせてあげてくれ」
陽の耳元で、小さな声で言った。
「おまえの愚痴などいくらでも聞いてやる。それこそ骨をうずめるまで」
阿多は自分の頼みがどれほど傲慢か知っている。
阿多の子は月一人だが、陽の子は月以外にもいる。なのに月だけを特別扱いしろと言っている。
「あの子は皇族だが、あまりに『人』に近すぎる。優しすぎる」
「そうだな」
「賢君になれる才はあるが、同時に長生きするとは思えない」
「かもしれない」
皇帝に必要なのは優しさではない、慈悲なのだ。上から下に施す物であって、民を己と同等と見て考える君主は、病んでしまう。その病みを癒せる者を、月は最初から巻き込むつもりはない。
玉葉に梨花、他の妃たちには悪いと思っている。
とてつもない我が儘を阿多は陽に頼んでいる。
自分の子を守るために、他の子どもたちに責を押し付けようとしていた。
「失敗したんだ。賭けの戯れに後宮の管理など任せたのが間違いだったんだ。なんでそんな賭けをしたんだ?」
「阿多よ。あいつは案外ずる賢いぞ」
「ははは。後宮内では妃たちを誑かしまくっていたからなあ」
「その割には、全然手をつけていなかったな」
「陽にとっては子作りする手間が省けるが、月は面倒くささをよく理解していたんだろう」
陽の頭が揺れる。笑うだけの余裕はできたようだ。
「陽、早く寝ろ。明日は痛い痛い手術の日だぞ」
「煽るな。わかってる。さっさと寝る。寝不足で体力が無くなって、変に作用したら一大事だからな」
「遺言書は書かないのか?」
「朕は死ぬつもりはないぞ」
「それでも書いとけ。失敗しても医官たちに罪はないとな」
阿多は陽の頭を離す。
「朕を殺す前提だな」
陽の顔はいい年をして膨れ面だった。
「猫猫も手術の手伝いをしている。失敗したら、羅の一族を敵に回すぞ」
「やめてくれ。羅漢には叔父を追放した件で散々いびられてきたんだ」
「失敗したときは、この世にはいないからいびられることはない」
「だから死ぬ前提でいうな」
そう言いつつ陽は筆記用具を取り出した。
「相変わらず悪筆だな」
「うるさい」
十の子どもがやっているようなやりとりで、阿多と陽は遺言を書き始めた。
陽は『天』で、阿多は『人』。それでも友人の真似事くらいはできるのだ。