十四、告白 表
猫猫は雀の案内で、見たこともない宮に連れていかれた。外廷から内廷に向かう手前、おそらく皇族の私的空間になるのだろう。
(絶対、入っちゃいけない場所だ)
猫猫は宮に入る前、雀に体中をまさぐられる。
「猫猫さん、栗鼠みたいに色んな場所に色んな道具を隠し持ってらっしゃいますねぇ」
どんどん出てくる生薬やら裁縫道具やらさらしやらに雀が呆れる。
「その言葉、まんま雀さんにお返ししますね」
雀こそ一体何が出てくるのかわからない。
猫猫は、医務室から一度宿舎に帰った。湯あみをして着替えるためだ。久しぶりに美髯の君に拝謁するので、失礼に当たらないようにとの配慮だが――。
(あー、行きたくねえ)
そう思うしかない。
「これは何ですぅ?」
雀が荷物確認の中で、布包みを取り出す。
「胃薬です」
「ほうほう、胃薬ですかぁ」
雀はぺろっと薬を舐め、不味そうな表情を浮かべると猫猫に返した。
「これだけはどうぞ」
「はい」
足が重いのを雀が後ろから背中を押す形で向かう。
「雀さんは同席しますか?」
「残念、雀さんは見張りですよぅ」
雀がいるだけで場の雰囲気がいくらか軽くなる気がしたが、期待できなくなった。
「高順さまはどうですか?」
「義父さまはどうでしょうかねぇ。たぶん、見張りになるかと思いますねぇ。ご安心を。ちゃんと舅の好きな点心を持参する良い嫁なのですねぇ」
雀はどこからか取り出した蒸籠を見せる。隠せたとして湯気が出ていて熱そうだった。
長い廊下は窓が無く、かといって暗くもない。揺らめく炎は足元を照らしている。
廊下の突き当りに高順が立っていた。他にもう一人護衛がいる。
(どっかで見た顔だよなあ?)
「お義兄さま。点心食べますぅ?」
『お義兄さま』と聞いて、猫猫は手を叩いた。麻美の旦那の『馬なんとか』さんだ。
「いいえ」
「葡萄酒飲みますぅ?」
「酒はちょっと」
「では果実水はどうですかぁ?」
「一体、どこから出るんだ?」
猫猫と全く同じ疑問を持つ馬なんとかさん。
「雀、仕事ですよ」
「仕事ですが、気力も大切ですよぅ。ご安心を、変な物は入れていないことを雀が食べてみせますねぇ」
高順は呆れたまま、猫猫を見る。
「小猫。中へ」
「はい」
高順に言われて、猫猫は中に入る。
(いつもにも増して豪華な調度)
一寸織るのに一年かかりそうな細かな毛氈を踏みながら進む。奥の長椅子には、皇帝と阿多が座っていた。
(うーん)
皇帝より後にやってきてしまった。
「呼び立ててすまなかったな」
「いえ。滅相もありません。遅れて申し訳ありませんでした」
湯あみも急いだほうなのに、これなら直接行ったほうが良かっただろうか。
「月はまだかな?」
まだ壬氏が来ていないだけましだろう。
座れと阿多が合図するので、猫猫は一番小さな丸椅子に座る。もう一つ背もたれがある大きな椅子があるが、壬氏用だろう。
長椅子が一つに一人用の椅子が二つ。主上と阿多は二人で長椅子の両脇に座っている。いちゃつくわけでもなく、疎遠というわけでもない。ちょうどいい二人の距離を表しているようだった。
円卓には徳利が二つある。すでにある玻璃杯の中身を見る限り、葡萄水と水のようだ。杯は四つあり、二つは空だ。椅子の数といい、杯の数といい今日の一席は四人で行われるらしい。
猫猫はそっと視線を主上へと移す。美髯は変わりないが、顔色は悪くない。
(いや)
悪くないように見せている。頬の表面にこすれた跡があり、主上の肌色に合わせた白粉で誤魔化していることがわかる。
(遠目では気付くまい)
主上の側近たちは不調を勘繰られないよう努力していたようだ。
猫猫が観察している間に足音が聞こえてきた。
「遅くなりました」
壬氏は拱手しながら頭を下げる。宦官の真似事をやめてから、彼が頭を下げる相手は一人しかいないはずだ。
「座るといい」
主上が口にする。あくまで主上の客が壬氏で、阿多の客が猫猫なのだろう。
「酒も肴もない。果実水とただの水、どちらが良いか?」
阿多が二つの徳利をつまむ。猫猫が代わりに酌をしようとしたら、そっと止められた。大人しく客人でいろということらしい。
「果実水で」
「水でお願いします」
酒で酔いたいところだが、ないのであればしかたない。猫猫は、ただの水を頼む。
二つの杯に液体が満たされたところで、早速本題に入るらしい。
「今宵、呼び出した理由を説明しよう」
「はい」
阿多と猫猫は黙り、壬氏だけが答える。
阿多はすでに知っているのだろう。猫猫は発言が許されるまで基本話さない、話せない。
「医官たちから話が来ているだろう。朕が明日の手術を渋っていると」
「はい」
「一応、言っておくぞ。渋っているわけではない。やるべきことをやってから、手術に挑みたいと伝えたまでだ」
そのやるべきことがこの一席のようだ。
「手術の成功率は高いらしいな。羅漢の娘よ」
「……はい。九割はこえるかと」
呼ばれ方に引っかかるものがあるが、とりあえず猫猫は答える。
「では手術せずにこのまま現状維持で行くのはどうだろうか?」
「痛みが以前よりおさまっているなら問題ありません。ですが、そうでないと医官たちが判断されたのだと思います」
ここで主上の主観を聞いてはいけない。主上のお気持ちで「痛くない」と言われたら、それを信じるしかなくなる。
「悪化したらどうなるのか?」
「虫垂炎、内臓の一部で盲腸の近くにある器官が腫れる病気があります。それであれば、虫垂という部位が化膿して破裂します。膿が腹にまき散らされることによって、他の病を引き起こし死亡に至る、とこれまでの症例であります」
猫猫はできるだけ正確に答えるように気を付ける。
「では――」
虫垂炎以外の病だった場合、その対処法。どうしても手術を行わねばならないのか、と主上は次々と質問する。
猫猫は、玉葉后に説明したように話す。
主上と壬氏は再確認するように、阿多は首肯する。
(阿多さまはやはり外の人扱いなのだろうな)
うっすらは話を聞いているが、細かい説明は受けていない。
なのに、この場にいることが不穏で仕方ない。
「うむ。ちゃんと仕事を教えてもらっているようだな」
言うまでもなく医官たちと同じ内容だったのだろう。これでちゃんと説明できなければ、医官手伝いの官女などお飾り職と思われたかもしれないのでよかったと安心する。
(いや、ここで安心するんじゃない)
主上は何をお考えか、それが今の重要事項だ。
「この通り、真面目で正直で頑固な医官たちは、必ず助かると言ってくれない。もちろん、最善を尽くすのはわかっておる。だが、もしもを考えるべきだろう」
「滅相もないことはおっしゃらないでください」
「滅相もないことか。しかし、瑞よ。ここ数年、虫が襲い掛かってくると妄言を繰り返し、増税の理由にしたと何度、官たちが提言したと思う?」
「実際来たではありませんか?」
壬氏はむすっとしている。『瑞』というのは壬氏の本名だろう。下々の者が聞くことはできない皇族の真名だ。
「そうだ。だから朕ももしもに備えることはおかしくない」
(これはぐうの音もでない)
主上はしてやったりの顔だが、腹をおさえている。痛みを我慢しているのだと、猫猫は気付いた。
「朕にもしものことがあった場合、何をすべきか書き記しておきたい」
(遺言残してなかったんかい?)
猫猫は思わず口に出そうになった。いかんいかんと口を閉じる。
「そのために、瑞の意見を聞きたい」
「どのような意見でしょうか?」
「瑞は、朕のあとを継ぎたいか?」
ここでいつもなら飲み物、食べ物を吹き出していただろう。生憎、食べ物はなく飲み物も手を付けていない。
壬氏は変わりない表情だ。
「東宮がいらっしゃいます」
「まだ七つにもならぬ子だ。政ができるまで何年かかるか」
「玉袁殿がいます」
「玉袁は高齢だ」
「他に身内はいましょう」
壬氏は受け流す。猫猫は持ってきた胃薬はいらなかっただろうかと思ったが、壬氏の頬が何度か痙攣したのでやはり必要かもしれない。
「傀儡にならぬと?」
「わかりません。ただ、多少は西に贔屓されることはわかりますが」
戌西州出身だからそれはありうる。
「幼い子どもだ。病で亡くなる場合も考えられるぞ」
縁起でもない話を主上は述べる。
(こんな話しないでくれよ)
猫猫の胃のほうが痛くなってきた。
「梨花妃の子もいます。素養だけで言えば、梨花妃より国母にふさわしいかたはいません」
壬氏は言い切る。
梨花妃の評で言えば、壬氏と同じである。西に贔屓な玉葉后よりも、国全体を見てくれるだろう。
「陽よ。月を困らせるな」
主上を『陽』と呼ぶのは阿多だ。
ここが四人しかいない空間とはいえ、一国の主を『陽』と呼ぶ。猫猫は鳥肌が立ってきた。
「はっきり言えばいい。私が皇子を殺したことを責めるといい」
鳥肌どころか羽毛が生えてきそうになった。
(早く帰って夕飯食べたい。作るのめんどい。燕燕のごはん食べたい)
猫猫は遠い目をするしかない。
「誰もそんなことは言っていない」
「しかし、私がちゃんとしていれば何もかもうまくいったのではないか?」
阿多には珍しく自虐するように言った。普段、自信満々で凛々しい阿多にはあるまじき言い方だ。
猫猫には、阿多が赤子を取り換えなければ、と言っているように聞こえた。
「子は育ち、成人し、きっと聡明に育っただろう。八つ当たりのように優れた医官を追放することもなかった。散々死んでいた他の子たちも、その医官ならちゃんと育つように指導したはずだ」
確かにと猫猫は思う。阿多が壬氏と本物の皇弟を取り換えなければ、優れた医官こと羅門は追放されずに済んだかもしれない。
ただ、今目の前にいる壬氏は、とうに死んでいたかもしれない。
「なにか問題があるとしたら私の身分位だ。私がやったことだ、全て私がやったことだ」
「……れ」
「なんだ? 聞こえないぞ」
「黙れ!」
立ち上がった主上の叫びで鼓膜が破れるかと思った。普段、表情を変えることがないお人であるが、今はこめかみを引きつらせ、じっとり汗をかいていた。
(胃薬じゃ足りねえ!)
余程声が大きかったのか、離れた扉を叩く音がする。外の高順たちだ。
主上は脂汗をかきながら、座る。息を整えつつ、猫猫を見る。
「……何事もないと伝えよ」
「かしこまりました」
猫猫は扉を開ける。
「主上のお声が聞こえましたがどうかされましたか?」
高順が心配そうに言った。
高順、馬なんとかさん、雀に加えて馬閃が増えている。
「何事もないと伝えよ、と伝えにきました」
「そんなわけなかろう!」
馬閃がつっかかるが、高順が頭をぐいっとおさえる。
「わかりました」
高順は深く追及しない。
「何かありましたら、すぐ助けを求めてください」
「はい」
猫猫は扉を閉めると、元の位置に戻る。
ぎすぎすとした雰囲気はまだ続いている。
(さっきのでさらにいらいらがたまったな)
ここで虫垂爆発させたりしないでほしいと猫猫は願う。
「阿多よ。しばらく黙っていろ」
「……」
阿多は不満そうだが、それ以上何も話そうとはしなかった。
「瑞、なぜ帝位を拒む? 国の頂に立てるのだぞ」
今度はなだめるように主上が言った。
壬氏は視線を泳がせる。
「国の頂がそれほどいいものでしょうか?」
「朕はそれしか知らぬ」
その通りだと猫猫は思った。
「朕以外に誰もいない。いや、いたとしても消されていた。朕の祖母はあの女帝であるからなあ」
実の祖母を女帝と呼ぶ。
先帝の唯一の御子としてずっと生きてきた。先帝の幼女趣味のせいで、他に子どもが見込めなかった。ずっとずっと大切にされてきたはずだ。
帝になる、それ以外の道を示されなかった。
「瑞。おまえは朕よりもずっと広い世界を楽しんできた。それはおまえが可愛かったからだ。かといって甘やかしてもおらぬ。おまえなら、朕のあとをついでもちゃんとやれるだろう?」
「玉葉后は、東宮はどうなりますか?」
「東宮はまだ幼い」
「摂政を立てればよろしいでしょう? 今更、私が出てきたところで波乱しか呼びません」
そうだと猫猫は思う。
(矛盾している)
壬氏に皇帝の座につかないかといいながら、さっさと違う皇子を東宮にしている。勿論、宮廷内の権力調整のためにやっているかもしれない。表向き、主上の子どもを優先したのかもしれない。
本来、皇帝の遺言をまとめるのであれば、阿多がいるのはおかしい。まだ、玉葉后がいたほうが納得いくが、こんな遺言なら絶対呼んではならない。
「何より私には複数の女を相手にできるほど器用さはないのです。一人で十分です」
(……)
「後宮の試金石のくせにか?」
「そう呼ぶのはやめてください!」
壬氏が声を荒らげる。怒るというより、気恥ずかしさが混じった焦りだった。
(複数の女を相手にねえ)
あれだけ後宮内で妃を女官を射落としてきた男だが、一皮むけると不器用だ。不器用すぎるが用意が周到過ぎて猫猫は困ってしまう。困ってしまった。
「もし、一人の女しか相手できないでいるのなら、その者だけを囲うがいい。後宮にある数多ある花のうち、一つだけを愛でればいい」
「子は作らなくていいのですか?」
「できなければしかたない。さすれば、おまえが帝位についても、東宮は東宮のままでいられるだろう」
(それは絶対やめてほしい)
壬氏に他の妃の元に通わなくてもいいと言っている。
「いいえ。それは駄目です」
壬氏はきっぱりと言った。
「何が駄目だ? やはり自分の子を帝位につけさせたいか?」
「いえ」
壬氏はまつ毛を伏せる。
「たった一人の妃だけを愛でるのは、他の妃を全て敵に回すことになります」
「そんなもの、加護してやればいいだろう?」
「数多の恨みは、強大な加護をもすり抜けるのです」
壬氏は拳を握る。
後宮にずっといればわかることだ。帝の花園の女たちがどれだけ美しく、ずる賢く、醜いか。
「恨みつらみは、直接傷を付けなくとも、心を病ませます」
「ではどうするのだ? そのたった一人を」
「ええ。……きっと、妃になど、できないでしょう」
壬氏はゆっくり猫猫を見た。
「そのあるがままの形を無二と思っているのに、自分のせいで形成される場所へと閉じ込めてしまう。形が変わるかもしれない」
「変わらぬままやもしれない」
「変わらないと思わせているのかもしれません。でも、私には難しい」
壬氏は笑う。空虚な笑いだが、その両拳は決意するように握られていた。
「唯一を囲うくらいなら、まだ解き放ったほうがずっといい」
壬氏は、ぎゅっと拳に青筋が見えるくらい力をこめている。
「ずいぶん、浪漫を語るなあ。のう、阿多よ」
主上が阿多を見る。阿多は言われた通り、ずっと黙っていた。
阿多は口をぽかんと開け、呆然としていた。その見開いた目にはひと筋、涙がこぼれていた。
「阿多?」
「ん、ああ。そうだな」
阿多は零れた涙を弾き飛ばすように、顔を振る。
「阿多?」
主上は戸惑いを見せていた。
「なんだ? もう喋っていいのか?」
阿多はいつもの気丈な阿多に戻っていた。さっきの表情と涙は、長椅子にしみこんだ水の痕がなければ幻と思っただろう。阿多は濡れた痕を隠すように手のひらをのせた。
「それで月はどうしたい?」
「私は主上の臣下でいたいのです。代替わりするときも、東宮の臣下となりましょう」
「東宮に帝位の重み、後宮という手間のかかる花園を任せてもか?」
意地悪な質問をすると猫猫は思った。
「臣下とは、その重みを軽くするためにあります。あとは東宮が花の扱いに長けていることを願うばかりです」
壬氏は気まずそうに答える。
「だそうだ」
「……」
主上は、壬氏を見ず阿多を見ていた。その視線は、阿多の目、鼻、口を辿り、右手の平を見ている。
さっき零した涙の痕を確認しているようだった。