十二、種まき
壬氏は頭が痛くなった。
「もし主上の御身に何かあったらどうしましょうか?」
疑問のようでいて、確認している官たち。
どんな答えを求めているのかは立場によって違う。
壬氏の立太子を求める者、求めない者。どちらの陣営につくや、はかりかねている者。
昼餉の時間になり、ようやく静かになった。
「どうにかしてくれ!」
「どうにもできません」
衝立の奥から否定する声が聞こえる。相変わらず馬良は、人の目を避けて仕事をしていた。やってくる官たちの中には、帳の奥に馬良がいるとは思っていない。おかげで、彼だけは誰が来ようが、粛々と仕事を片づけることができる。
「私も隠れたいくらいだ」
壬氏と同じように辟易した顔をするのは、馬閃だ。副官兼護衛として壬氏についているが、腹芸は得意ではない。ただ馬閃が殴りかからないだけいいと壬氏は思っている。馬閃が睨みをきかせているかいないかで、余計な詮索をする官はぐんと減る。逆を言えば、壬氏は舐められていることになる。
宦官の真似事を何年もしていたせいだろうか。それとも、もっと強面のほうがいいのだろうか。
「もっと他に必要かもしれないな」
壬氏は指で右頬の傷をなぞる。
「よからぬことを考えてはいませんか?」
壬氏はぎくりとして、声の主を見る。昼餉の準備をしていた麻美だ。今日は、馬三姉弟が揃っている。
麻美は簡単に食べやすい食事を卓の上に置く。前は昼餉を抜くこともあったが、この姉御肌の侍女には勝てない。忙しくても食べさせられる。
壬氏は花巻に角煮を挟んだものを食む。品のない食べ方だが、乳兄弟しかいないので大目に見てくれる。何より麻美が食事くらい気楽にと言ってくれたのが大きい。弟二人は姉の言うことに逆らえない。
「食べながらでいいので聞いていただけたら」
「……」
壬氏は無言で頷く。麻美は女性だ。女性であるがゆえに頼める仕事はある。
「現在空席の四夫人の席のうち、二席は埋まりそうです」
馬良、馬閃は男であるがゆえ、後宮の内情を確認するのは難しい。
壬氏は仮にも後宮を管理していた。もうその役目から離れて二年以上経つが、下手な官よりも内情は詳しい。
「月の君がおっしゃる通り、貴妃と徳妃の座にそれぞれ皇太后派、皇后派の娘を就ける予定です」
壬氏は差し出された書類を確認し、眉間にしわを寄せる。想定していない人物の名が挙がっていたためだ。
「さすがに二年前の資料のままでは、人選に不備が出ます。どちらが気になりますか?」
壬氏は口の中の花巻を茶で流し込む。すかさず麻美が手ぬぐいを差し出すので、手を拭いてから書類を持つ。
「皇太后派のほうだな。年齢は十七、昨年入内しているな」
皇太后の兄、豪の大姪とある。同時に皇太后の大姪でもある。
「豪に兄弟は姉と妹が一人ずつしかいなかったはずだが」
「はい。皇太后の姉の孫娘に当たります」
「皇太后の姉……」
壬氏は頭の中の家系図を思い出す。たしか、皇太后の安氏の姉は、当初中級妃として入内していた。しかし、お手付きになったのはその時侍女として付き従っていた安氏のほうだ。
罪深い先帝のお手付きの様子は、以前の子の一族の反乱に繋がる何かを彷彿とさせる。
異なる点があるとすれば、安氏の懐妊がわかったあと、安氏の実家は姉をすぐさま後宮から出しているところだ。
「いやいやいや」
「いやいやじゃありません。これ以上はない人材ですよ」
「滅茶苦茶縁起が悪いだろう」
「ええ。だから淑妃にせず、貴妃にします」
麻美は猛禽類を思わせる表情を浮かべる。前の淑妃は、楼蘭。子の一族の娘で反乱の首魁の一人でもあった。
「他に良い人選はなかったのか?」
「豪さまには入内できる直系がいなかったものですから。遠縁はいくらか入内しておりますが、何より豪さまの姉君が雪辱を果たす気満々だったようです」
『おおう』
壬氏だけでなく、馬良、馬閃も呆れた声を出す。
皇帝にとってその妃は従姉妹の子に当たる。近親婚による病を防ぐため、他に候補がいない限り、妃はできるだけ遠い血を入れるようにしていた。四夫人の中で皇帝の縁戚である梨花妃を賢妃にしたのも、そのためである。四夫人は同じ上級妃であるが、賢妃は一番序列が下である。
そんな選抜理由があると豪も思うまい。
「あまりにしつこかったようで、主上も一度だけ閨に入ったそうです」
「……」
壬氏は目を細めながら、花巻にかぶりつく。
宦官時代、その手の処理を自分が行っていただけに、妙な気まずさがある。馬閃は後宮に詳しくないが気まずさはわかるのか、少し気恥しそうに下を向いていた。
どの派閥の妃に、何度床入りをしたか。それによって大きく勢力図が変わる世界だ。
「同時期に、皇后派の娘が入内し、中級妃につけております」
壬氏は麻美が次に言うことがわかっていた。
この人選については壬氏も頭に入れていた。
玉鶯の養女は結局、玉葉后の侍女になってしまったため、誰か血縁を入内させないと印象が悪い。なので、玉鶯の他の弟妹の子の中から入内させる者を選んだ。大海、玉袁の三男の娘が適役ではないかと目を付けていた。
そこに娘の意思はない。娘の気持ちを考えては政治などできぬと思うが、同時に残酷なことをしているとわかっている。
時に壬氏は、己がとても卑怯者であると痛感してしまう。
「その娘の部屋にも、主上は訪問しておられます」
皇帝は本当に食えないお人だ、と壬氏は思う。自身の体調不良が今後何を引き起こすか考えていた。そこで、どうやったら円満でなくとも落としどころがつかめる終わり方ができるか想定していたのだろう。
「月の君もそれを想定して、上級妃の選定を促していたのではないですか?」
壬氏はまたごくんと口の中の物を飲み込む。
「ああ。しかし、しっかり種まきをしているのは抜け目がないと思っただけだ」
種まきとは二つの意味がある。
帝のお通りがある中級妃が上級妃に昇格する。後宮の外にいる者たちは、妃の懐妊を疑うだろう。
皇后派はどうかわからないが、皇太后派の頭である豪は比較的扱いやすい男だ。早合点して妊娠を疑ってくれればよい。身内に駒が増えれば、考えも変わってくる。
「男が生まれるか、女が生まれるかわからないのだぞ」
「世には、女の胎の状態で男女が決まると思い込む者がおります。なお豪さまは酒の席で子も孫も男しか生まれなかった理由を妊婦が酸っぱい食べ物ばかり食べていたからだとおっしゃっておられたそうです」
「それは本当だろうか?」
とはいえ、それで考えをかえてくれるのならそれにこしたことはない。
「上手くいくとは限らないが」
何もしないよりもずっとましだと壬氏は思う。
皇帝の病に対して、壬氏ができることはない。ただ、より円滑に治療ができるよう環境を整えることしかできなかった。