九、陽の君
僥陽は生まれたときから、やることなすこと全て決められていた。
帝のたった一人の皇子、それが僥陽に与えられた地位だ。
常に誰かの監視が入り、好き勝手にできることはほとんどない。かろうじて自由と言える時間と言えば、乳兄弟たちと遊んでいる間くらいだった。
「お食事の時間です」
座りっぱなしの執務の終了を高順が伝える。二つ上の乳兄弟は、一時は瑞月につけていた。本来なら他の馬の一族の者を付けるべきだと言われていた。高順、当時は別の名で呼ばれていた男は、僥陽の副官兼護衛として代わりになる者はいない。だからこそ、瑞月につける必要があった。
昼餉に用意されたのは、米粒も見えない粥と具すらない汁だった。それとは別に、ちゃんとした料理も用意してある。
病人食だけ持っていくと、勘繰る輩もいる。そのため普段の食事も持ってくるのだ。
「お食事の前にこちらを」
「……飲まねばならぬか?」
「飲まねばなりません」
高順は薬を突き付ける。
独特の苦みを持った匂い。最初は味を誤魔化すために、果実水や蜂蜜を混ぜていたが、味は薄まるものの量が増えるのでやめてもらった。
薬を飲み干し、糊のような粥を匙ですくう。肉と塩の味が染みた粥はそれでこそこの形状でなければ、もう少しうまかっただろう。
僥陽は三口ほど食べて匙を置く。
「痛みますか?」
「聞くまでもなかろう」
慢性的な腹痛は、少しずつひどくなっている。微熱や吐き気をもよおすこともある。以前にもあった痛みなので、同じ治療法を行えば問題ないと思っていた。しかし、治る様子はない。
「医官たちは何をやっている?」
「申し訳ございません」
高順に当たったところで意味がないことはわかっている。ただ、誰かに吐き出しておかねば、公の場で口にしてしまうかもしれない。
瑞月が高順の前では甘えてみせるように、僥陽もまた高順に甘える。
馬の一族の中でもよくできた男だと、僥陽は思う。
そんな中、足音が響いてきた。
扉の奥から声が聞こえる。
「いけません。今はお食事中です」
「問題ない。私を誰だと思っている」
扉越しでもわかる声に、僥陽は冷めた気持ちになった。
やってきたのは、五十路ほどの男を中心とした集団だ。細長い男で、年齢の割に若く見える。童顔なのは血筋なのだろう。
「お食事中、失礼いたします」
にこにこと笑いながら近づくが、高順が間に入る。外の護衛たちも部屋の外から睨みを利かせている。
「失礼と思うようなら来なければよいだろう」
「ははは。手厳しい。伯父にたいしてもそのような仕打ちですか」
伯父、つまり僥陽の母、安氏の兄となる。名を豪という。
「ふむ。つまりおまえは、伯父であるから朕の食事の邪魔をする権利があるというのだな」
「いえいえ、滅相もありません」
大きく手を振って否定する豪だが、退室するつもりはない。
安氏自身はそれほど権力欲がある人間ではない。しかし、その実家は違う。幼子しか興味がない先帝を篭絡するために、安氏を送り込んだ。安氏は実家の目論見通り、僥陽を身ごもり、皇后、そして皇太后の地位についた。
女帝、僥陽の祖母はその野心に気付いていた。だから、彼女が存命の間は、僥陽の外戚であろうとも重要な地位につくことはなかった。
しかし、女帝が死に、僥陽が即位してから大きな顔をし出した。安氏の父はとうに死んだが、腹違いの兄がでしゃばるようになった。
外戚ということもあって、周りに強く言う者はいない。
母は異母兄についてはあまりいい感情は持っていない。僥陽も同じ気持ちだが、それを表に出すのは良くない。
僥陽が不平を漏らすだけで、飛ぶ首はいくらでもある。
「しかし、もっと楽しく食事をすればよいもの」
持ってきた食事を見て、豪は言った。粥と汁だけの質素なものであれば怪しまれたであろう。
「毒見役を用意する手間が増えるだろう」
僥陽は、薬を飲むのに使った杯を掲げる。高順が丁寧に葡萄酒を注いだ。
「ええ、どこの誰がお命を狙うかわかりませぬ。特に、西の民は野蛮でしょうから」
豪が何を言いたいのかわかる。豪は今の東宮が気に食わない。血筋としては、妹である安氏の孫なので、自身は大伯父だと言える。だが、東宮の母は玉葉だ。同じ東宮の外戚であっても今後は玉の一族が権力を持つことになる。
ただでさえ豪は焦っているだろう。邪魔な女帝がいなくなり権力を振るえるかと思いきや身内である安氏は消極的だ。さらに、野蛮な西の民と見下している一族に先に名が与えられている。
以前から遠まわしに、名が欲しいと言われていたが僥陽はずっと無視していたのだ。
「たとえ伯父であろうとも、東宮についてとやかく口に出す真似はやめてもらおう。すでに朕が決めたことだ」
「そうですね。そうでした。申し訳ございません。ですが、私にはとりあえず東宮に据えたという風に見えたと言ったらどうでしょうか?」
豪は目を細める。拱手に隠れた口元は笑っているように見えた。
「梨花妃の最初の御子の時もそうでした。最初に生まれた男児、ゆえに東宮にと」
「梨花は上級妃だ。何か問題があったというのか?」
「いえ、滅相もない。ただ、思うのですよ。もし、最初の御子がご存命であればと」
「終わったことだ」
僥陽は杯を揺らす。中の葡萄酒には口を付けず、揺蕩う赤い液体を見ている。
とうに終わったこと。阿多との子は亡くなったことになっている。
豪にとって、阿多との子が生きていれば好都合だったろう。後ろ盾のない阿多の後見人になれば、また次の代も大きな顔ができよう。
そして、困ったことにそれは僥陽の願いでもあった。
「ええ。きっと凛々しい青年に育ったことでしょう。瑞月さまのように」
「……」
僥陽は無言で豪を睨みつけた。だが、その視線は遮られる。
「っ⁉」
豪は目をむいていた。彼の鼻先には剣が突き付けられている。
誰が突き付けているかと思えば、高順だ。普段、寡黙で眉間にしわを寄せている苦労性の男、さらには恐妻家とくれば侮る者もいよう。しかも、瑞月の我が儘で七年も宦官の真似事をしなくてはいけなかった。
「ど、どういうつもりだ⁉」
豪の護衛達が反応する。皇帝の部屋ということもあって帯剣が許されていないが、屈強な護衛は三人いた。
「そのままお言葉をお返しします。なぜ、月の君の名を口にして無事にいられると思うのでしょうか?」
高順の視線は、剣先よりも鋭く豪を突き刺す。
「月の君の名を呼べるおかたは、今現在、主上おひとりです。貴方は自分の立場をわかっていない。天を騙ったと言ってもいい大罪です」
高順は馬の一族の中でも特に温厚な性格だ。そんな男がこのような真似をするということは、どれだけ豪が調子に乗っているのかわかる。
護衛達は動けない。高順を取り押さえるよりも先に豪の首がはねられることの方が先だ。それどころか、護衛達も全員やられるだろう。それだけ腕が立つ男なのだ。
僥陽はこのまま首をはねたほうがいいのだろうかと考えた。そうすればすっきりするが、後片付けが面倒になる。部屋の掃除は元より、豪を消すことで安氏の実家が弱体化するのは避けておきたい。子の一族が消えたことで、宮廷内の力関係は偏っている。これ以上、派閥を減らすのは良くない。
僥陽は手をあげて高順に剣を下ろさせる。
豪は真っ青な顔をしながら、高順を睨む。
「おまえに何の権限があって私にこんな真似をしている!」
唾を飛ばしながら叫ぶ豪。
「はい、私には何の位もありません」
馬の一族は役職にはつかない。高順も例外ではない。
「しかし、私は主上の剣です。主上の剣はどうすべきかと行動しただけに過ぎません」
「そうだな。誰もおまえに瑞月と呼んでいいとは言っていない。呼んでいいのは朕だけである」
豪は唇を噛む。
豪は僥陽の外戚である。外戚であるが皇族ではない。そして、高位の皇族の名を口に出して呼ぶことは、禁忌である。
豪は良くも悪くも程よい男だ。
ほどよく野心があり、ほどよく愚かだ。
これが、変に有能な男であれば困った。それこそ扱いづらい。
こうしてたまに愚かなことをしたら、手綱を引いて誰が主人かわからせればいい。
「これ以上、この場に留まっていいと思っておるのか?」
「……申し訳ございません」
豪は先ほどの態度から一変する。
「またお伺いします」
そう言って去って行った。
足音が完全に消えてから、僥陽は腹を撫でる。
「痛みますか?」
「ああ。さっきのでひどくなった」
「豪さまは何をお考えでしょうか?」
「なあに、月を東宮に戻せと言いたいのだろう」
「そうですか」
高順は先ほどの鋭い視線はない。
「戻す気はございませんよね?」
高順はいつも通りの声色で言った。
「……そうだな」
僥陽は、『是』とも『非』ともはっきりせず、葡萄酒の入った杯を置いた。