十一、ふたりはなかよし
馬閃の仕事は壬氏の護衛だ。基本、壬氏の執務室にいるはずだが、今日は違う。
(確か数日に一度は訓練に当てている)
午前中に相手を怪我させたということは、今日は一日訓練の日のはずだ。
(上司に呼び出されたりしない限り)
修練場には汗臭い野郎どもがたくさんいた。ちょうど休憩時間なのか、手ぬぐいで汗をぬぐい、竹筒で水を飲んでいる。上半身裸で、中には下着一つの者もいる。別に珍しくもない光景なので、特に気にせず通過する。
李医官は、修練場に行くと言ったら、「ついてこようか?」という顔をしたが、断った。二人して医務室の留守番がいなくなるのは困るし、なにより武官たちが猫猫を相手に何かすることはなかろう。変人軍師の身内であると思われたくないが、そこに恩恵がほんの少しくらいはあることは認めている。ゆえに、いかつい武官も猫猫に対して丁寧な対応をしてくれることが多い。余程の物知らずでない限り突っかかってこないだろう。
(狡いと言えば狡い)
でも、猫猫は小柄で弱い。使えるものは使わないと、生き残れない。
武官たちは、ちらりと猫猫を見て、おおっと首を伸ばし、そしてがっかりした顔、もしくは腫物に触れるような顔をする。
(変人軍師の管轄下だもんな)
正直、李医官の頼みは猫猫にはちょうど良かった。昼過ぎは変人軍師が重役出勤してきて、暇つぶしに医務室に寄る確率が高い。あのおっさんと顔を合わせるなら、汗臭い場所におつかいに行く方が良い。
皆が休憩する中、激しい打ち合いをする者たちがいる。
大柄な武官と比較的小柄な武官。
李白と馬閃だった。
李白と馬閃は木剣と小盾を使っている。汗まみれの顔を見るに、長い間打ちあっているようだ。暑いのにしっかり着込んで皮鎧を着けているのは、怪我をしないためだろう。
(どう見ても馬閃のほうが不利なんだよな)
武術には全く見識がない猫猫でも知っている。体格差が物を言う。
李白の身長が六尺四寸はあるのに対し、馬閃は五尺七寸ほどだろうか。
しかし――。
(いい勝負してんのか?)
李白の剣を馬閃は見事に受け流していた。小盾で上手く受けて刃を滑らせて避け、その振りかぶったところを狙って剣を振る。
李白も負けておらず、小盾で受け流す。
(李白も強いと思っていたけど)
人間の皮を被った熊に熊っぽい男は善戦している。かなり強いのだろう。細かい動作は追えないが、手だけでなく足を使って牽制したり、体幹を駆使して翻弄したりしている。李白の見た目は脳筋だが、地頭は悪くない。体格だけを武器とせず、技能も培っているのだろう。
だが、本来圧倒的に不利な体格差をなかったことにする馬閃は恐ろしい。
(普通、小柄なほうが技巧派だってのが基本だろうに)
李白が技巧派で、馬閃は力押しだ。勿論、馬閃の技術が全くないというわけではない。ただ、体格差を筋力で補っているような化け物だ。生まれながらにして、特殊な筋肉の付き方でもしないと、こうはなるまい。
(わー、けっこう長そう)
猫猫は近くの日陰に入って、座り込む。近くにいた武官たちが遠巻きに猫猫を見る。
「何か御用でしょうか?」
おそらく何度か顔を合わせたことがある武官が聞いてきた。無論、名前は憶えていない。
「お構いなく」
猫猫は持参した茶を飲む。長丁場になってもいいように、持ってきていた。煎餅も用意している。
(あの様子だと熱中症になるかもなあ)
飲み物と塩っ気がある食べ物を用意したほうがいい。飲み物はあるとして、煎餅を少しわけてあげられるように取っておく。
ゆっくり観戦しようと思っていたら、誰かが近づいてきた。
「官女が何の用だ?」
まだ若い武官が近づいてきた。周りの官たちが慌てている。
(余程の物知らずがいたようだ)
猫猫はそっと顔を上げる。三人組の武官だ。怪訝な目で猫猫を見ている。
「女が軽々しく来ていい場所じゃない。それとも、その見た目で男漁りに来たわけではあるまいな?」
真ん中の男の話を聞いて、残り二人が笑う。
周りの武官たちがおろおろしているところを見るに、この若い武官は位が高いらしい。
猫猫は、立ち上がり尻の埃を叩く。
「申し訳ありません。医官さまからのおつかいで参りました。お邪魔なようでしたら、場所を移動します」
猫猫が去ろうとすると、若い武官に肩を掴まれた。
「待て」
「なんでしょうか?」
何かやっかまれるな、と猫猫は身構える。
その時だった。
木剣が大きく宙に舞い、くるくると放物線を描きながら地面に叩きつけられた。
「あー、まいったまいった」
両手を挙げたのは李白のほうだ。汗だくの顔を拭い、大きく息を吐く。
「これで終わりにしようや。馬閃の旦那」
「……」
馬閃はどこか物足りない顔をする。
李白は、猫猫に気付いたのか手を振っていた。
(本当に負けたのか、それとも私に気付いたからなのか、それとも馬閃の顔を立てたのか)
どちらだろうと関係ない。
李白と馬閃は汗だくのまま、猫猫のほうに近づいて来る。
「よう、嬢ちゃん。どうしたんだい? こんなところに来ても、親父さんの漢太尉はいないぞ」
「か、漢太尉⁉」
若い武官がひるんだ。
猫猫は嫌な気分になりながらも、作り笑いをする。普段なら李白は『あのおっさん』という変人軍師だ。あえて、この若い武官にわからせるために正式名称を言ったのだろう。
「おい。そこの官女と話をしていたが、用事はすんだのか?」
馬閃が言った。汗だくの中、からまった紐を解いて鎧を脱ぐ。皮鎧なので、距離があっても臭いが強烈だった。
「いえ、特に何もありません」
三人組が去っていく。
「おい、嬢ちゃん。こんなむさくるしいところに何の用だ?」
李白が困った顔をしている。
「馬閃さまに、今朝のことについて聞き取りしにきました」
「聞き取り? 旦那、なんかやったのか?」
「知らないんですか?」
「午前中は、ずっと机仕事だよ。昇格するとどうしてもやんなくちゃいけなくなるからな」
なるほどと猫猫は頷く。
「大したことではない」
「馬閃さまと打ち合いをした武官が医務室に運ばれました。ひどい打撲で肋骨にひびが入っていました。最近、武官の間で派閥争いの延長として、決闘めいたことが多数行われております。医務室の面々にとっては甚だ迷惑な話であるため、患者および怪我をさせた人にはどういう状況で怪我をさせたのか確認するようになりました。はい。ご協力お願いします」
「うわー、めんどくせー」
李白は汗をぬぐいつつ呆れた顔をする。猫猫が煎餅を差し出すと、美味しそうに食べ出した。
「別になんということはない。家柄を笠に着て位だけは貰った官に対して、稽古をつけただけだ」
「旦那の稽古は、そりゃきついでしょうが。俺だって、息切らしてるのに。まだ世間の荒波も知らないぼんぼんにいきなり稽古つけるのはあんまりでしょうよ」
「手加減はしたぞ」
「熊の手加減は、人間の即死ですって」
「そうか?」
(この二人、なんか仲が良いなあ)
同じ体育会系だからか、それとも李白の人心掌握術が長けているのかどっちかわからない。
なごんでいるところ悪いが、猫猫は仕事を続ける。
「里樹さまのことを侮辱されて、打ち合いが始まったと聞いておりますが」
「⁉」
馬閃はあからさまに動揺して視線を逸らす。
「あらー」
李白はにやにやしつつ、馬閃をのぞき込む。
「それは本当ですかね、旦那?」
「ほ、本当だが。何か問題があるのか? 里樹さまは卯の一族の直系のご息女だ。それに、元とはいえ正一品の妃でもあられた。なのに、なぜ『不貞のため後宮から追い出されたあばずれ』などと言われないといけないのだ?」
「そんなこと言われたんですね」
患者と卯純が話していた内容は、ずいぶん優しめに脚色されていたようだ。
「里樹さまの罪は彼女自身の罪ではない。ただ、周りに翻弄されただけのことで、なぜあらぬことを言われなければならない!?」
馬閃は大きく地団太を踏む。
「その末に口論となり、打ち合いになったというわけですね」
「ああ。私に非があるとすれば、相手に皮鎧ではなく鉄鎧を着せなかったことくらいだ」
「皮鎧を着て、肋骨折るんですね」
やっぱ化け物だなあ、と猫猫はしみじみ思う。
話を聞きながら、三人は四阿に移動する。筆記するにしても何か卓が必要だ。
「何より腹立たしいのは、卯純とかいう男だ。あやつは里樹さまの身内でありながら、笑いながら流していたのだぞ」
石の椅子に座っても、馬閃のいらだちは落ち着かない。
「まあまあ。これでも食べて」
李白は馬閃の口の中に煎餅を投げ入れる。馬閃は一瞬、何とも言えない顔をしたが吐き出すことなくかみ砕き始めた。
(やっぱ仲が良い)
李白には別に用はないのだが、一緒についてきてくれた。馬閃だけだと扱いづらいので正直助かる。
「あの場では、卯純は何も言えないはずですよ」
「あの腰抜けのことを庇うのか?」
馬閃が李白を睨む。睨むといってもすねるに近い表情で、本気で怒っているわけではなさそうだ。
「李白さまは卯純さまのことはご存知で?」
「一応、部下になるからな。あいつも本来は文官だったのに飛ばされてきたんだ。家のごたごたでね」
「道理でひ弱そうに見えました」
「だろ。武官の間じゃあんな奴が放り込まれると碌な目に遭わねえ。下手すれば自殺するほど追い詰められる。だから、俺の下につけたんだとさ。こっちは迷惑だけどな」
李白は面倒見がいい。部下を最低限は庇護するだろう。
「一応、卯純は『卯』の字はついているが、卯の一族の本家としては認めちゃいない。父親の卯柳は色々やらかしすぎた。本家の娘を世捨て人にするような真似をし、一族の名を落とした。その男の妾の息子を跡取りにするわけがないだろうな」
「お詳しいですねえ」
「部下のことはしっかり頭にいれておかないと。卯柳さんとやらは、義父が高齢で隠居したことをいいことに好き勝手していたみたいだな」
李白は猫猫と違って、大変しっかりしている。腕もたつし、頭も悪くない。これで妓女に入れあげているといわれなければ完璧だろうが、白鈴小姐のために妓楼通いはやめないで欲しい。
「卯の一族、里樹さまの祖父は親戚から男児を引き取って育てているそうだ。老体に鞭を打っているが、それでも娘婿にこれ以上一族を任せられないと思ったのだろう」
「男児ですか」
「男児だ。女児ではない」
何を当たり前のことを言っているのだ、と馬閃が水を飲む。
「いえ。妙齢の男子であれば、なんとかして里樹さまを呼び戻して結婚させるのかと思いまして」
「ぶふぉっ⁉」
馬閃はむせた。むせて気管に入ったのか、咳をする。猫猫のように口から吐き出すことはしないが、かわりにとてもくるしそうだ。李白が背中をさすっている。
「な、なにを言うんだ⁉」
「だって現役の妃であろうと主上の御許しをいただければ、下賜されるのですよ。主上と里樹さまは未通ですし、主上は娘のように里樹さまのことを思っていると聞きました」
「み、未通」
馬閃が顔を真っ赤にする。
「家のごたごたのほとぼりが冷めた頃に、こっそり里樹さまを実家に戻して婿を取らせることくらいできなくはなさそうですけどねえ」
「そ、それは⁉」
馬閃は大きく石卓を叩く。顔が青くなっている。
「引き取った男児ってのはまだ十歳になるかならないからしいぞ」
「では、年の差から婿にして里樹さまが実家に戻される可能性は低いでしょうか?」
馬閃の顔色が赤から青に変わって今度は元の色に戻る。
「いや、卯の一族としては、今まで孫娘が可哀そうだったとどうにかして幸せにしたいようだぞ。いい家柄に何とか輿入れできるよう話しているとか」
「そんなの初耳だぞ!」
「ええ。俺も最近聞いたもんで」
李白は煎餅の塩がついた指を舐めている。猫猫はもっと煎餅を持ってくればよかったなと思った。
「名持ちの一族とかでそういう話は聞かないんですかね?」
「名持ちの一族……。そういえば、そろそろ名持ちが集まって話し合いをするとかあったな」
馬閃が思い出したかのように言った。
「へえ。そん時、里樹さまの話が出るんじゃないですかね」
「その可能性はありますね」
「うーー」
馬閃は頭を抱える。
「気になるんなら、旦那も参加したらどうですかね? 噂の真相が聞けるかもしれませんよ」
李白は簡単に言っている。
「しかし、いや。でも……」
馬閃は悩み、唸り、転がり始めた。猫猫は見ていて面白いので、報告書を書きながら観察する。おかげで字を間違えた。
「……わかった」
「おっ!」
「何がわかったんです?」
猫猫は筆を回しそうになりぱたっと止める。
「おまえも名持ちだ。私を焚きつけた以上、一緒に来てくれ」
「はっ?」
猫猫は、墨を報告書の上に落とした。