十、卯純
里樹元妃の兄は、卯純といった。
猫猫は一度見かけていた。里樹の実父である卯柳と共に、馬閃にぶん殴られた男だ。
(前、なんか歯が折られてた気がする)
勿論、猫猫の頭は薬以外のことはあまり覚える気がなく、顔などとうに忘れていた。
(たぶん、里樹兄になると思う)
でもこれはこれで、羅半兄と混同しないだろうか。しかし、猫猫が他人の名前を覚えるのには時間がかかる。というより、あまり覚える気はない。
(しかし、羅半兄とかぶるのはどうだろうか)
考えた末に、羅半兄を尊重する意味で、卯純の名前を頭にかきこむ。なお、無礼な患者の名前はすでに忘れた。
卯純は、患者の処置が終わると、帰って行った。
「面倒くさいことになった」
「どう面倒臭いんですか?」
李医官が頭をかいている。
「最近、小競り合いが激しいって言っていただろ? なんで、怪我人と怪我をさせたほうの話を双方聞けと言われている。たとえ、練習の打ち合いであってもな」
「今、片方聞きましたね。別に問題ないのでは?」
里樹元妃が口論の原因なら、馬閃が手を出した理由もわからなくもない。猫猫の勘が正しければ、馬閃はなにかしら里樹に対して思うところがあるようだ。
「馬閃さまのことは、それなりにわかっているつもりです。婦女子、しかも元上級妃のかたを愚弄するのを見て見ぬふりはできなかったのでは?」
猫猫はもっともらしいことを言った。
里樹は、すでに元上級妃だ。後宮の外に出た時点で、後宮の花ではなくなる。里樹としては、父親のような主上と夜伽をするよりも、かなり気が楽ではないだろうか。そこに、周りの視線が無ければの話だが――。
「それでも文書にまとめねばならないが、馬閃さまか。直接、来ていただくわけにはいかないな」
「……」
猫猫はふと思った。猫猫の中では、馬閃の印象はさほど怖くない。可愛いもの好きなまめな従者である高順の息子で、父には頭が上がらない。あと、母にも上がらず、姉にも上がらず、義姉にはからかわれ続けている。猪突猛進、人の皮を被った熊だが、害を与えなければ襲い掛かってくることはない。
(なぜこんなに身構える?)
猫猫は思ったが、ごく一般的に考えると、馬閃は皇弟に直属で仕える精鋭なのだ。
「私なんかが直接、話を聞きにいってよいものだろうか?」
(そういえば、李医官は馬閃さまとあまり接触がなかったな)
西都では、李医官は街の診療所にいた。馬閃が診療所に行ったことはあったが、確か慰問という形で壬氏の代理をやっていた。代理とはいえ皇族の役目をやったのだから、距離を取りたいのかもしれない。
(あの時は、普段よりとっつきにくい感じだったかもしれないな)
「そこまで気にする人ではないと思いますよ。仕事ですと言い切ってしまえば、腕をねじ切られることはありませんよ」
「ねじ切るような相手なら、天祐をやろう」
「ははは、本当に首がねじ切られるかもしれませんね」
李医官もたまに面白い冗談を言うと猫猫は思った。なお、李医官の目は笑っていない。
「しかし、さっきの患者は馬閃さまにずいぶん無礼な態度を取っておられましたね」
「ああ、あのかたも一応名持ちの一族出身だ。名は貰っていないが」
「なるほど」
だから、同じ名持ちである卯純や馬閃に対して横柄だったわけだ。傍系のようだし、何の一族か聞く必要もなさそうだ。
「でも、李医官はお二方に対して、堂々と対応していましたね」
「家柄はともかく位としてはあの二人よりも私の方が上だ。医務室の中では患者に舐められないようにしろというのが劉医官の教えだろう」
その通りだな、と猫猫も納得する。下手な口出しをする素人のせいで適切な医療処置ができないと困る。
「しかし、あの態度は本当にいただけない。卯の一族は、里樹さまが後宮を出られてから、どんどん落ちている。だが、馬閃さまに対してまで……」
李医官は器具を片づけながら息を吐く。
「馬の一族は、皇族直属の護衛だ。ゆえに、位を持たず常に主人に付き従っている。なのに勘違いした莫迦は位が無いことを無能と思って喧嘩を売るのだ」
「はははは。内臓潰れなくて良かったですね」
猫猫はさらしの残りを棚に片付ける。
しかし、今日の李医官はずいぶん饒舌だ。
「あの、李医官」
猫猫は李医官がそっと報告書を置くのを見ていた。猫猫に近づけようとしている。
「もしかして、馬閃さまの元に聞き取りに行くのがお嫌でしょうか?」
「そ、そんなことはないが……」
李医官の視線が泳いでいる。
「もしかして、馬閃さまのところに行くのが億劫ですか?」
「仕事と言われたら、行くが……」
乗り気ではなさそうだ。
猫猫はぽんと手を打つ。
「李医官のご命令でしたら、私が代わりに行きましょうか?」
「おっ、行ってくれるのか?」
李医官の声は、待っていましたという風に聞こえた。
ここで他人ならもっと恩着せがましくするところだが、李医官である。普段お世話になっているので仕方ない。
「かしこまりました」
たまには猫猫も素直に言うことを聞くことがある。




