33 阿多妃
猫猫が夜中眠れず、翡翠宮を抜け出したのは本当に偶然のことだった。
明日、淑妃は後宮を去る。
なんとなく、外にでてぶらぶらと歩いていた。凍えるほどではないものの、寒さはとうに冬のもので綿入れを二枚重ねてでかけた。
あいもかわらず後宮内は、なかなか不健康な愛があふれているようで、間違って茂みや物陰をのぞかぬよう気をつけねばならなかった。
ふと、空の半月を見ると、芙蓉姫のことを思いだし、ついでだからと外壁に上ることにした。どうせなら、月見酒と決め込みたかったが、翡翠宮にはなかったのであきらめた。蝮酒が久しぶりに飲みたくなった。
外壁の隅の煉瓦の飛び出た部分に足をかけ、うまくよじ登っていく。裳に気を付けないと、引っかけてしまうかもしれない。
なんとかと煙はというが、やはり高いところは気持ちの良いもので月と小さな星明りが都を照らしていた。向こうに見える輝く明かりは花街のものだろう。夜の街というにふさわしく、花と蜜蜂たちの語らいが始まっているに違いない。
なにをするわけでなく、塀のふちに座り、足をぶらぶらさせて空を見ることにした。
「おや、先客かい?」
高くもなく、低くもない声が聞こえる。
振り返ると袴服をはいた凛々しい青年が立っていた。
いや、青年のように思えるが、それは阿多妃だった。髪をひと結びに背中に流し、肩から大きな瓢箪を下げていた。
「いえ、空きますので」
「いいや、一杯付き合わないか」
さかずきを見せつけられ、猫猫は断る理由がみつからなかった。
普段なら玉葉妃に遠慮するところだが、後宮最後の晩酌に付き合わないほど野暮ではない。
さかずきを両手に掲げ、濁り酒をいただく。
甘味が強く酒精の少ない味がした。
なにを喋るわけでもなく、ちびちびと酒を舐めた。阿多妃も豪快に瓢箪にそのまま口をつけている。
「男のようであろう?」
「そのように振舞っているように見えます」
「はは、正直者だな」
阿多妃は片膝をたて、顎を乗せる。その整った鼻梁と長いまつげを縁取った眼にどこかしら見覚えがあった。誰かに似ていると思ったが、頭が曇っていた。
「息子がこの手からいなくなってから、ずっと私は皇帝の友人だったんだよ。いや、友人に戻ったのかな」
妃として振舞わず、友人としてそばにいた。
乳飲み子のときから一緒にいた幼友達として。
妃として選ばれるとは思われなかった。
ただ、最初の相手として指南役に選ばれただけのはずだった。
お情けで十数年も飾りの妃をやっていたと。
早く受け渡したかったのに。
なぜすがりついていたのだろうと。
阿多妃の独白は続く。
そこにいるのが、猫猫であろうとなかろうと誰もいなかろうと続いていただろう。
明日にはいなくなる妃。
どんな噂が後宮内でたとうとも最早関係ない話だ。
猫猫はただ黙ってそれを聞いていた。
阿多妃の言葉が止まると、妃は立ち上がり瓢箪を逆さにすると中身を塀の外、堀へとこぼしていった。
餞別のように流す酒を見て、先日の自殺した下女のことを思い出した。
「水の中は寒かっただろうな」
「そうですね」
「苦しかっただろうな」
「そうですね」
「莫迦だよな」
「……そうかもしれません」
「みんな、莫迦だ」
「そうかもしれません」
なんとなくわかった。
やはりあの下女は自殺だったのだと。
そして、阿多妃はそれを知っていたのだろう。
みんなというのは、それに風明も含まれているのだろう。
阿多妃の意思にかかわらず、彼女のために命をかけるものたちがいる。
(本当にもったいない)
ひとの上に立つ素質と資格を持ち合わせているのに。
妃としてではなく、違う形で皇帝のそばにいれば、政はよりうまくいったのではないだろうか。
そんなくだらないことを考えながら、猫猫は白い月を眺めた。
正門には多くの見物人が集まっていた。
後宮にもっとも長くいた元妃は、昨夜とは違い、やはりあまり似合わない大袖と裳をはいていた。
周りの女官たちのなかには手布を噛むものもいる。
凛々しき青年のような妃は、若い女官にとって一種の崇拝対象だったに違いない。
壬氏が阿多妃の前に立ち、なにかを受け取っている。淑妃たる証を示す冠だった。これは、しばらくもたたず、違う女のもとへ向かうことが決まっていた。
(服装を入れ替えたらよいのに)
天女のような相貌と凛々しき青年のような相貌。まったく違うはずのそのふたつが妙に似通っている気がした。
昨晩、阿多妃が誰かに似ていると思ったらそれは壬氏のことだったようだ。
もし阿多妃が壬氏の立場であれば、どうなっただろう。
まったくくだらない考えである。
阿多妃の立ち振る舞いは、けして後宮を追い出される哀れな女というものではなかった。
胸を張り、仕事を成し遂げたと、そのような達成感さえ見える威風堂々たる姿だった。
ふと、どうしようもない憶測が頭に浮かんでしまった。
なぜ、あんなに堂々としていられるのかと。
妃としてのつとめを果たさずして。
『息子がこの手からいなくなってから』
昨日の阿多妃の言葉がよみがえる。
(いなくなってから?死んでから、ではなく?)
とらえかたによっては、まだ生きているととることができる。
阿多妃が子を産めなくなった理由は、皇太后の出産と重なったことだった。皇弟と妃の子は叔父甥の関係になる、しかもほぼ同時に生まれたとしたら双子のように似ていたのではなかろうか。
(もし取り換えられたとしたら?)
出産の際に、阿多妃は身に染みてわかったことだろう。ふたりの赤子、どちらが今後大切に育てられていくのかを。
庇護がより大きいとしたら、それは乳母の娘の阿多妃のもとでなく、皇太后のもとであろうと。
産後の肥立ちが悪い阿多妃に、なにが正しいのか判断などできなかったのかもしれない。
しかし、入れ替わったことにより、己の息子が助かったのであれば、それは阿多妃の望みであろう。
後日、それがばれたのであれば。
本物の皇弟が死んだあとであれば。
おやじどのが追放だけでなく、肉刑まで受けたことにも納得がいく。入れ替わりに気付かなかったのだから。
皇弟が狭い立場にあることも。
潔い阿多妃が後宮にとどまり続けた理由も。
(実にくだらない)
猫猫は頭を振った。
ばかばかしいくらいの妄想である。翡翠宮の三人娘さえここまで飛躍して考えないだろう。
(これ以上見ても仕方ないな)
猫猫は翡翠宮に戻ろうとすると、前方から慌ただしく近づいてくるものがいた。
幼い愛らしい顔立ちをした娘、里樹妃である。
猫猫に気付いた様子もなく、正門へと走っていく。
後ろには、あの毒見の女が息を切らしながらついていた。
その後ろには走る様子もなく、面倒くさそうにしている残りの侍女たちがいた。
(あいかわらずですな。一名をのぞき)
猫猫が何かしてやれるわけでもない。身内のことなど、自分で始末できなければこの女の園で生きていけるわけないのだ。
ただ、少なくとも今はひとりでない。
それだけでもましなはずだ。
里樹妃は、阿多妃の前に出ると、からくりのような動きで右手と右足を同時に出した。裾を踏んだらしく、顔面から地面に転んだ。
周りから笑いをこらえる声に泣きだしそうになる里樹妃に、阿多妃は手ぬぐいで顔を拭いてあげていた。
青年のような凛々しい妃の顔が、母親の顔に見えた。