一、後輩たち
初夏、じめじめとした空気がまとわりつく中で、猫猫は仕事をしていた。
「ほいほいっと」
水を張った大きな桶に洗い物を入れ、裸足で踏みしだく。
「猫猫、水が飛ぶんだけど」
隣でしぶきを浴びた姚が恨みがましく目を細める。
「すみません、こっちのほうが早いですから」
猫猫が踏みつけているのは、医官たちの手術着だ。上司の服だからと丁寧に手洗いをしていては終わらない。血にまみれた手術着はさっさと洗わないと血が落ちないのだ。
「猫猫、姚さまに汚い水をかけないでください」
燕燕が猫猫を睨みつけていた。
「はい」
猫猫は姚から距離を置くと、また手術着を踏みつける。
「血落とし用に大根があれば便利なのに。前は使ってましたよね?」
大根おろしにして血のしみを抜くのだ。
「それは……」
姚が気まずそうに目をそらす。
「昨年の夏、血落としに大根を使ったのですが、なかなか血が落ちず、ついつい使いすぎてしまいまして」
燕燕が姚に代わって説明する。
「使用禁止になったわけですね」
「はい」
大根は本来、冬の野菜だ。ものによっては夏でも作られるが、貴重なので使い過ぎたら怒られるに決まっている。
「地道に手作業でしみを落としますか」
「そうしましょ」
「はい」
猫猫たちは息を吐きながら洗濯を続ける。
以前と変わらぬ仕事にも見えるが多少の変化はあったりする。
「あのー、さらしの煮沸が終わりました」
やって来たのは、年のころ十五、六の娘が二人だ。まだ、すれていない目をしている。医官付きの官女採用は、猫猫たちの年では終わらなかった。こうしてここに新入り二人がいる。
(名前、なんだっけなあ?)
生憎、猫猫は他人の名前と顔を覚えるのを得意としない。ぼんやりこの子らは後輩だなあ、くらいで話を合わせている。
「じゃあ、こっちの煮沸もお願い」
姚は洗い終わったさらしを後輩たちに渡す。年齢的にも立場的にも目下になるので、妙にお姉さんぶっているように見えなくもない。
「わかりました」
後輩二人は何も言わず、さらしが入った籠を持っていく。
「ほへえ」
「どうしたんですか?」
燕燕が猫猫の顔をのぞき込む。
「いえ、ずいぶん従順な子たちが入ってきたなと思いまして」
宮廷の官女は、花嫁修業の一環、もしくは結婚相手を探す場所と割り切った者が多い。そして、なまじ裕福なお嬢さまが多いので、どうしても雑用を大人しくやる性格ではない。
「他に何人かいたわよ。初日で私が追い出したけどね」
姚がふんっと鼻息を荒くして言った。
「追い出したって」
前にもあったなあ、と猫猫は思い出す。
「仕事を辞めさせたわけじゃないわよ。他の部署に押し付けただけよ」
「それで残ったのがあの二人ですか?」
ふむふむ、と猫猫は頷く。素朴そうな娘たちだ。顔が地味というより、まだまだあか抜けない雰囲気である。地方出身なのかもしれない。
一人は、小柄で腕まくりをし、もう一人は長身できっちり仕事着を着ていた。
「ええ。ってか、一人は元後宮女官よ」
「後宮女官ですか?」
猫猫は驚いて瞬きをする。
「そう。背が高いほうが妤。小さい子は長紗。どうせ猫猫のことだからまだ名前を憶えてないでしょ?」
「ははは」
(大きい方が短い名前、小さいほうが長い名前)
「後宮では女官に学問を教えてくれるのよね。優秀だったから、官女にならないかって誘われたみたい」
「そうなんですか。普通、そういう人は後宮に引き留められるものとばかり思っていましたけど」
後宮の年季は二年。貧しい家柄の娘たちはそのまま外に出されてしまう。その間に、少しでも職につなげられるよう、識字率を上げようとした壬氏の試みは多少なりとも実を結んでいるようだ。
「妤は後宮に残ることを断ったそうよ。家族思いで、後宮で稼いだ賃金を使って都に引っ越してきたらしいわ」
「親孝行ですねえ」
しかし、後宮女官の賃金など高が知れている。家族が何人いるのか知らないが、都に住むには心もとない。
(家族にも収入源があるのだろうか)
とはいえ、猫猫には関係ない話で、首を突っ込むつもりはない。
ただ、少し気になることがあった。
「あの格好だと洗濯しにくくないですかね?」
名前が短いほうは、きっちり袖で手首まで隠している。この季節だと、鍋でさらしを煮るのは暑いだろう。
「私も言ったわよ。でも、肌の露出は禁じられているとか言われたら、何も言えないじゃない?」
「そうですね」
茘という国は広い。都にはいろんな地方の人間が集まり、風習はそれぞれ違う。郷に入れば郷に従え、という言葉があるが、強制させることもない。
(仕事をちゃんとやっているなら問題なかろう)
猫猫は気にせず、仕事を続けることにした。
中央に帰って来てから、猫猫は薬棚の管理を任されることが増えた。仕事として嬉しいが、種類も数も膨大なので、忙しなく動くことになる。在庫と生薬の使用期限を確認、古くなった薬は廃棄、足りない薬は注文。常備薬も切らしてはならず、足りなかったら調合して作っておかないといけない。
猫猫一人でやっているわけではないが、猫猫が当番のときに仕事が滞ると、別の医官にとってかわられるかもしれない。そう考えると、猫猫は他の医官よりも確実に仕事をやっていかないといけなかった。
(丸薬が足りないなあ。作っておかないと)
猫猫が卓の上に必要な材料を揃えていると、部屋の外に小さな影が見えた。
「あ、あの、これはどうすれば」
背が小さくて名前が長いほうの後輩が猫猫に話しかけてくる。もっさりと枯れ草が入った籠を抱えている。
猫猫は枯れ草が入った籠を受け取った。すうっとした匂いが鼻孔をくすぐる。注文していた薬草を届けてくれたのだろう。
「保存しろと言われたんでしょう。このままだと嵩張りますし、腐るので保管しやすい形に処理します。よく見ておいてください」
猫猫は枯れ草を取ると、葉っぱをつまむ。よく乾燥していた。
「葉っぱと茎に分けてください」
「はい」
「終わった葉っぱはこの中に入れてください」
猫猫は薬棚の引き出しを取り出して、新人官女の前に置く。新人官女は真面目なのか、それとも緊張しているのか何もしゃべらない。猫猫も黙って作業をするほうが好きなのだが、仕事の後輩ともなると少しは仕事を覚えてもらわないといけない。
「この葉っぱが何かわかりますか?」
「……薄荷ですか?」
「正解」
問題が簡単すぎたのか、新人はすぐに答えた。
「効用は?」
「実家では咳止めや頭痛薬に使っていました」
「実家では?」
猫猫は手を止めて、新人官女を見る。
「実家は薬屋でもやってたんですか?」
「薬屋ではないんですが、祖母が呪い師をやっていたもので」
(あー、そっちかー)
猫猫は同業者じゃなかったので、少しがっかりする。
人口が少ない集落では、医者や薬師がいないことも多い。なので、集落の長老や呪い師が医者の代わりをすることもある。
猫猫は呪いの類を信じない。その多くは、根拠がないものであり、詐欺に使われることも多い。
だが、完全に否定もできない。少なくとも新人官女の祖母とやらは、善良な呪い師であることが、彼女の知識からわかる。筆記試験に受かったのも、そのおかげだろう。
(多少、教え甲斐はあるな)
前に花街の薬屋を任せるために左膳に、知識を叩きこんだことがあるが、この娘ならもう少し素直に勉強してくれそうだ。
「じゃあ、ついでに常備薬を作るから手伝ってください」
「わかりました」
猫猫にくっついてしっかり真似をする新人官女。猫猫は卓の上に置いていた薬草を手にする。
そこに、ふらふらとした海月のような人物が近づいてきた。
「ねえねえ、何やっているのー?」
言わずもがな天祐だ。
「娘娘が新人さんに教えているの? 長紗だっけ?」
(こいつ、私の名前は憶えていないのに)
新人の名前は憶えていた。そうだ、長紗という名前だった。
とはいえ、猫猫が反応すると面白がってもっとやらかすので無視する。
「は、はい。猫猫先輩に教えてもらっています」
「はははは、娘娘はねえ、珍しい生薬を見ると踊り出す習性があるから気を付けてね!」
「はははは、天祐はねえ、新鮮な死体を見ると踊り出す習性があるから気を付けてね!」
猫猫も言い返す。
「へっ、生薬? 死体?」
長紗は猫猫と天祐を交互に見ている。
「新人が混乱するから、邪魔するのはやめてください。早く仕事にでも行きやがったらどうでしょうか?」
猫猫はぷちぷちと乾燥した葉っぱを薬研の中に入れて、薬研車ですり潰す。
「いきなり混ぜずに一度全部すり潰してから混ぜます。できるだけ細かい粉末にするためです」
「はい」
「ねえねえ」
天祐のことはいつもどおり無視する。
「ちゃんと粉になったら、比率通りに混ぜていく。練り合わせるのに使うのは煉蜜を使います」
猫猫は鍋に入ったどろっとした液体を見せる。
「れんみつって何ですか? 蜂蜜の種類ですか?」
「蜂蜜を煮詰めたものです。蜂蜜のままだと水分量が多いので、あらかじめ水を飛ばしておきます」
「はあ、そうなんですね」
「ねえねえ」
猫猫は数種の薬草の粉を混ぜたものに煉蜜を混ぜる。麺を打つように最初はぽろぽろに、だんだん塊となるように練っていく。独特の匂いがする粘土のような塊ができてくる。
「耳たぶくらいの硬さを目安にしてください。あとは木型が棚の上にあるので、あー、そこの医官さまー。木型取ってください」
「こーいう時だけ僕を使うんだから」
ぶつくさ言いながらもようやく相手にされて嬉しいのか、木型を取ってくれる天祐。
「ありがとうございます。もうどっか行っていいですよ」
「僕だけ扱い、ひどくなーい?」
猫猫としてはいつも通りの天祐の扱い方だが、長紗にとってはいたたまれなかったらしい。
「て、天祐医官。ありがとうございます。たいへん、助かりました」
「ふふふ、どういたしまして」
「医官はまだ若手なのに、もうすでに中級医官と同じ仕事をしているとか。特に外科処置は飛びぬけていると聞いています」
「へへ、まーねー」
「どうしたら、的確な処置ができるようになりますか?」
「あー、それは遺体をかいた……」
猫猫はすかさず天祐の脛を蹴った。
「った!」
天祐は片足を抱えてぴょんぴょん跳ぶ。
「な、何すんの! 娘娘⁉」
猫猫は天祐に歯茎を見せて威嚇する。
(何べらべら解体のこと喋ってんだよ!)
医官たちが腑分けをしていることは、秘密にしている。新人の長紗に話していいわけがない。
「ん? ああ」
ようやく気付いたのか天祐は、片目をぱちっと瞬きして見せた。
「僕はね。実家が猟師なんだよ。だから、獣の解体に慣れているんだ」
「解体が上手いと、外科処置も上手くなるのですか?」
「血に慣れているのと慣れていないのではだいぶ違うからね」
猫猫はほっとしつつ、粘土のような薬草の塊を木型に詰める。ぎゅっと押して丸薬を生産していく。
「はいはい。そろそろ出て行ってください。お忙しい医官さまは他に仕事があるでしょうに」
「えー、手伝うからー」
「いえいえ、ほら見てください。中央に戻ってからも筋肉をさらに鍛え上げている李医官に言いつけますよ。最近では、自宅の庭の木に大きな砂袋をぶら下げて、ひたすら拳打と蹴りを入れているそうです。あと、休み時間には武官と手合わせをすべく演武場に顔を出しているとか」
李医官は、一体どこへ向かっているのかはともかく充実した毎日を送っている。
さすがに天祐も李医官には敵わないのか、そそくさと帰って行った。
「天祐医官は変わった人ですね」
「うん、関わらないほうがいいよ」
猫猫が丸薬を作りながら言った。