十一、阿多の真実
猫猫が壬氏のもとを訪問する数日前にさかのぼる。
阿多の宮では、子どもたちのはしゃぎ声が響き渡っていた。広い邸内を走りまわる子どもたちを侍女たちが追いかけている。
「危ないですよ、お待ちなさい」
「やーだーよー」
よそ見をしつつ、べえと舌を出す男児。前を向いていなかったためか、前を歩いていた阿多にぶつかる。
「あ、阿多さま」
申し訳ございません、と侍女が頭を下げる。
「ははは、元気だな。しかし、ちゃんと前を見ておくんだ」
阿多は男児を起こした。
「ごめんなさい。ねえ、阿多さま。鬼ごっこしませんか?」
男児は阿多を見る。
「今日は、客人が来るから無理だなあ」
阿多はわしわしと男児の頭を撫でる。他の子どもたちもわらわらやってきたので、全員の頭を撫でた。
阿多の宮にいる子どもたちは、元は子の一族の生き残りだ。月、月の君に頼まれて阿多が匿っている。
彼等は自分の親たちがどうなったのか、まだよく知らない。知らせずにいる。勘の良い子は自然と口をつぐみ、幼い子は親を忘れている。
「阿多さまを困らせるんじゃない。こっちへおいで」
すらりとした背丈の若者が近づいて来る。若者に違いないが男ではない。
「翠、任せたぞ」
「かしこまりました」
翠苓、この女もまた子の一族の生き残りだ。同時に先帝の孫でもある。彼女もまた、公式にできない存在であるため、阿多の宮にいる。
翠苓は賢く冷静だ。医術の心得もある。勿体ないと阿多は思うが、仕方ないことだ。彼女が生きていくには、そうするほかないのだ。
「そうだ、猫猫が来るのだが、翠は会わなくて良いか?」
「猫猫……。やめておきます」
「前の旅路では仲が良さそうに思えたのだがなあ」
「気のせいでしょう」
翠苓は子どもたちの手を引いていく。
「せっかく数少ない話ができる人間が来るというのに」
翠苓の存在を知る者は少ない。公式に彼女の存在は認められていない。
会えるときに、話せるときに誰かと話さねば忘れ去られてしまうだろう。
「私がいつまでもいるとは限らんのにな」
阿多は首の裏をかきながら、宮の中へと入る。
猫猫は時間通りにやってきた。
「阿多さま。お久しぶりです」
「おひさしぶりですねぇ」
猫猫の横にいるのは雀だ。西都で大怪我をしたというが、以前と変わらぬ笑みを見せている。
「ははは。西では大変だったらしいな」
阿多は長椅子に横たわり、果実水を飲む。猫猫相手なら酒を用意しても良かったが、今回は話の内容が少し違う。
「色々ありました」
「ありましたねぇ。雀さんのお話聞きますか、阿多さま?」
雀が妙に出張っている。猫猫は気になるのか、阿多と雀を交互に見ている。
「阿多さま、雀さんとは?」
「私が雀に猫猫を連れてくるように言った。それでなんとなく察しがつくのではないか?」
阿多は卓の上の焼き菓子を食べる。乳酪をたっぷり使ってあるので香りがいい。
「雀さんの行動が月の君とずれているわけですね」
猫猫は納得したように息を吐く。
「雀さんの本当の主人は、阿多さまということでよろしいでしょうか?」
「説明しなくていいから助かるな」
阿多は、雀と猫猫の前に焼き菓子を向ける。雀は遠慮なく食べ始めた。
「そうだ。雀は私に仕えている」
「はい」
口の端に焼き菓子のかすをつけて雀が肯定する。
「主上の命により、阿多さまの命を何より一番とせよと言われました」
「ですが、雀さんはずっと、じ、月の君の元に仕えていたように見えましたが」
「壬氏と言ってもかまわないぞ。私も月と呼ぶ」
猫猫はじっと阿多を見る。阿多がこれから何を言い出すのか予想しているのかもしれない。
「阿多さまは私に『月の君を幸せにすること』が仕事と言いました」
雀が言った。
「そうだ」
「……」
猫猫は確信を持っていても口にするか躊躇っているのだと阿多は思った。なのではっきり口にする。
雀はこれ以上言うことはないと、半歩後ろに下がる。普段騒がしい性格だが、立場をわきまえていないわけではない。これから、猫猫と話すことは誰にも口外しないだろう。
「月は私の実の息子だからな」
阿多が見る限り、猫猫に驚く様子はない。猫猫は、阿多から視線をそらし、俯きつつ軽くため息をついた。
「その様子だと私と月のことについては、とうに勘づいてたように思えるな」
「可能性としてはあると思っていました」
「本物の皇弟と私の息子を入れ替えた。そのことに?」
「……はい」
気づいていても直接知りたくなかったと猫猫の顔に書いてある。方々からたまに月と猫猫の話を聞いていたが、仲が発展しない理由がわかった。猫猫が、誤魔化してしまうのだろう。
「なぜ、そんなことを私におっしゃるのでしょうか?」
「いや、なに。西都でなにやら月と猫猫が進展した空気を察したと色々聞いてな」
猫猫は即座に雀を睨む。雀はわざとらしく口笛を吹いて天井を向いていた。
知っている。こういう情報共有のされかたは大嫌いな性格だろう。阿多とて何度も周りの女官たちの首を絞めそうになった。だが、他人事になると面白くなるから困る。
阿多は、いかんいかんと首を振った。自分がされて嫌なことは、他の人にはしてはいけない。
「月は私が言うのもなんだが、大変面倒くさい男だ」
「わかります」
猫猫は遠い目をする。
「同時にお年頃だから、まあそのうち宮に来いと言われるだろう」
「その可能性はないとは言えませんね」
「宮に行く意味はわかっているか?」
「一応、花街の出身です」
猫猫は大きく息を吐く。
「ただの男女の夜這いとは違うぞ。あいつは国で最も高貴な血筋を引いている」
「……避妊方法は、他人よりはよく知っております。後腐れのないようにするつもりです」
どこまでも現実的な考え方をする女だ。月が阿多の子である以上、先帝ではなく現帝の子ということになる。皇弟と現帝の長子では、立ち位置は大きく変わってくる。まだ七つにもなっていない皇后の子と、すでに元服した側室の子。皇后側とすれば、せめて元服するまで皇帝に何もないことを祈るしかなかろう。
「もしもの時は、隠して子を育てるつもりはないか?」
薬を使ってもできるものはできよう。
「そのために数十、数百の命が容易く奪われるのではないですか? ならば、一人の腹を長針で刺したほうがよほど楽でしょう」
「針を刺すか? それが花街では一般的な堕胎方法なのか?」
「水銀を飲む、腹を殴る、それとも冷水に浸かるほうがよろしいでしょうか」
猫猫はわかっている。ただ月の顔を見て、恋に溺れる女ではない。月の気持ちを受け入れる以上、その覚悟が必要だとわかっている。
だからこそ、阿多は可哀そうに思う。
「それだけではない。猫猫が月の好意を受け入れたなら、もうこの国から出ることはできない」
「ほとんどの民が国を、それどころか住んでいる土地を離れることはないでしょう」
「そうだな」
茘の女の一生は家で決まる。良家の子女ほど遠出をすることがなく、中には屋敷の中で一生を終える者もいよう。
だが、阿多は遠くを見ていた。
「私はいつしか国を出て見聞を広めたいと思っていたと言えば、青臭いと思うか?」
「いいえ」
猫猫は首を振る。
「遠い地にはここにはない物がたくさんあります。物だけでなく、言葉、文化、そして薬草や薬剤や治療法など。風土が違えば病も違うので当たり前ですからね」
猫猫は、後半は妙に熱がこもった言い方をしていた。この女には、阿多と同じく異邦への憧れがあるのだろう。
「ふふ。私の夢は十四で終わったのだよ」
阿多はかつて自由だった身の上を思い出す。東宮の乳母の子として、乳兄弟として育った。
「陽と呼んでくれ」
弟分はそう言った。月が月であるのは、陽と対峙し、だが決して超えられぬ存在であるためだ。
男児のような恰好をし、つまみ食いをし、木登りをし、時に老師の授業をすっぽかし、兄貴分である高順をからかっては互いに笑っていた。
もし、阿多が男子であれば、まだその延長にいたのかもしれない。
阿多は陽のことは友人だと思っていた。だが、忘れてはいけない。陽は国の頂に立つ者であり、阿多は配下でしかなかった。
指南役に、と言われたら拒めるものではなかった。
何度も逃げ出そうと思ったができるわけもなく、結局は諦観の境地に至った。
道連れだと阿多は知っていた。
皇帝とは生まれたときから自由がない存在だ。それこそ役目を忘れた愚帝ならともかく、陽は聡明なほうだった。自由気ままにできるのは、後宮の中だけ。帝の冠を被る以上、がんじがらめの一生を送ることはわかっていた。
阿多にとって陽は友人であったが、陽にとって阿多は友人ではなかった。
男女間で対等などありえないことがわかっていたが、阿多にとって羽根をもがれたようなものだ。
そうだ。
生まれたときから皇族には自由がない。だが、同時にどんな者の自由も奪うことができる。
陽は気付いていない。自分が奪う立場であることを忘れ、阿多を指南役にした。
阿多はかつての自分と同じ道を歩むであろう猫猫を案じていた。母親ならば、実の息子の恋路を応援するのが正しいだろう。だが、阿多の中の良心が、いやかつての自分を憐れむ記憶がこう口にさせていた。
「今なら逃げ出すことは可能だ。手伝ってやるぞ」
阿多の言葉に、猫猫は怪訝な顔をする。
「なに、私にも多少は権力というものが残っている」
「ちょっと待ってくださいなー」
猫猫の代わりに声を上げたのは雀だった。
「なんだ?」
「阿多さま、矛盾してますよぅ。そうなると、私の受けた命が実行できなくなりますぅ」
『月の君を幸せにすること』が雀の使命だ。
「なあに。女一人いないくらいで不幸になる男は、そこまでの男だ。他で埋め合わせをする努力をしないか」
「無茶言いますねぇ」
雀は腕組みをして首を傾げる。
猫猫は阿多を見据える。
「阿多さま。雀さんの使命はどうでもいいですが、それを飲み込んだ上で私は今の立場にいます」
「本当か、後悔はしないか?」
「後悔しないよう、できるだけ譲歩してもらうつもりです」
「ふふ、宮廷に大きな温室でも建ててもらいますかぁ?」
「それはいいですね」
猫猫と雀は気が合うのか、こんな場面でも軽口をたたき合う。
阿多の言葉はむしろ猫猫の決意を固めたように見えた。
「ついでに果樹園とかいかがでしょう? 雀さん、生の茘枝をたらふく食べたいですねぇ。それこそ伝説の美女がごとく」
「温室で育てれば可能かもしれませんね。でも茘枝の食べ過ぎはのぼせるのでよくないですよ」
「おやまあ。百個くらいなら大丈夫でしょうかぁ?」
「十個までにしておいてください」
他愛もない会話だが、阿多は聞いていて妙にすうっと心が落ち着いた。
同時にかつて阿多が陽に言ったお願いを思い出す。
『私を国母にしてくれ』
こう言えば、阿多を手元に置くことを諦めてくれると思ったのに。軽口を叩いた、冗談であったと言ってもいい。
だが、約束から二十年以上経った現在も阿多は陽から離れられないでいる。後宮を出ても、離宮に匿うという異例の措置を取られている。本来ならば、上級妃の位を落とされても後宮に留まり続けねばならないというのに。
後宮を追い出されても特別に宮を与えられたことで、阿多を蔑ろにする者はいなかった。
いっそ放逐されたほうがまだ楽だったろう。
阿多はこうして離宮に留まり続けていた。その上、子の一族の生き残りの子どもたち、翠苓を預けられる。
指南役として、妃としての役割を終えても、まだやることがあると言わんばかりに。
「私は重石になっていないだろうか?」
阿多はふうっと息を吐く。
陽は阿多だけでなくその息子もまた、縛り付けようとしているのではないか。
そして、息子もまた、猫猫を縛り付けるのか。
そう思うと、何もできない己が歯がゆくなった。
後日、猫猫が月の宮を訪問したと連絡があった。
阿多は何もなく猫猫が帰されたと聞いて、ひどく安堵してしまった。
「陽と同じ罪を犯さなかったか」
阿多は寝台の上で大の字になって寝そべって笑った。