十、夜の訪問
香が壬氏の鼻についた。
「匂いが強すぎやしないか?」
壬氏は夕餉を取りながら、水蓮に言った。
「気のせいではないでしょうか? 西都暮らしが長くて、香を節約しておりましたもの」
「そうか?」
壬氏は箸で肉をつまむ。たっぷりと柔らかい豚肉を使った料理で、脂っこいものの薬味でさっぱりと味付けしてある。他に、鰻の炒め物や、鼈汁などなど、いつもより品数が多く滋養強壮料理が多い気がした。
「今日の夕餉は全体的に重いな」
「気のせいではないでしょうか? 西都暮らしが長かったからですよ。しっかりお食べください」
ほほほほ、と水蓮は笑う。
どうにもおかしいと、壬氏は思う。
部屋にいる護衛を見る。
「今日は馬閃の番ではなかったか?」
「馬閃は馬の一族の集まりがあるそうで、帰しましたよ」
さらにおかしかったのは、風呂だ。
「風呂に花びらが浮いていたのはなんだ?」
「いい御加減でしたでしょう。血行と代謝が良くなる薬湯も入れておきました」
壬氏とてここまでされると察することができる。
なにせかつて自分が後宮にて、皇帝になにかしらしてきたことだった。壬氏の宮にてこうやって水蓮が画策するということは、今日は誰かが来るということになる。
「水蓮もしかして」
「今日は、久しぶりに猫猫が来ます。何度か文を出しておりましたでしょう?」
確かに壬氏は何度も文を送っていた。あくまで近況報告など。命令として宮に来いとは言っていない。ただ、会って話したいと伝えてきた。あくまでやんわりと、仕事にかたがついたらでいいと書いていた。
「いや、ちょっと待て。ただ、猫猫が来るだけだろう」
「最後に会ったのは船から降りたときでしたね。西都からの船旅より帰ってから皆、忙しかったですから。ようやく一息吐けたと連絡がありました」
「いや、猫猫が来るとして、この雰囲気は……」
壬氏は寝室を見る。普段より強めに焚かれた香、真新しい布団の上には、季節外れの薔薇の花びらが散らされ、天蓋の帳は花模様の透かし編みになっている。部屋のあちこちに花瓶と蜜蝋を使った蝋燭が配置され、甘い匂いとともに揺らめく幻想的な雰囲気を作っていた。
壬氏は慌てて香と蝋燭を消すと、窓を開けて換気をする。寝台に散った花びらを屑籠に捨て、花瓶を片づける。
「はあはあ」
「あらあら」
「あらあらじゃないぞ! なんだ、この部屋は!」
前に猫猫が緑青館にて壬氏をもてなそうとしたことがあった。その時の流れに似ている。
「何事も雰囲気って必要でしょう。坊ちゃまは、猫猫と両想いになったのですから」
「りょ、りょうおも……」
壬氏は焦る、焦って目を泳がせ、冷静を装おうとするが、口の端が浮いてしまう。
「ずいぶん長かったです。ほんと、ばあやは幾度となく心配しましたよ。我が国の至宝、人の世に現れた神仙の遺物などと言われ、老若男女問わず魅了してきた坊ちゃまがあんなに年相応の子どもになるなんて」
「ええっと、いや、そういうわけでは」
別に水蓮に猫猫とのことを隠していたわけではないが、報告もしていない。船旅の最中では他にたくさん人がいたことから、二人きりになる時間などほとんどなかった。
なので、誰にも気づかれていないと思っていた。
「ばあやの女の勘は外れませんよ」
うふふふと笑いながら、目を細める老女を壬氏は本気で怖いと思った。
壬氏は居心地が悪い顔で頭を掻きむしる。
「いや、でも、相手は猫猫だぞ」
「猫猫だってもう二十を過ぎてますよ。生娘でも知識はあるでしょう。仕事以外で文を貰って殿方の部屋に来ることの意味ぐらいわからないはずありません」
水蓮はにこやかに笑いつつ断言する。
「いや、でもだからってこの部屋は」
「少しくらいあけすけの方がいいかなと思ったのですけど」
「あけすけ過ぎる! もうちょっとこういうのは」
壬氏は寝台の端に座り、前髪をかき上げる。段々照れから違う感情が湧きあがってきた。いや、いかんいかんと壬氏は寝台の傍に設置された水を飲む。
「あっ、それは」
「っぶ!」
水のはずが変な味がした。
「おい、水蓮。何入れてる?」
毒性ではないが、さっきの夕餉に繋がるものがある。
「あら、ほんの少しでしたけどわかりましたか? 毒ではありません」
「わかるに決まっているし、猫猫なら匂いで嗅ぎ当てるぞ」
水蓮はしぶしぶ水差しを回収する。
「ふう」
壬氏はどきどきばくばくする心臓を深呼吸でおさえようとする。
とうに元服した二十歳すぎの男が何を動揺しているのだろうか。他に色んな女が寝所に忍び込んできたことがあっただろう。
豊満な体を押し付けられ、ねっとりした真っ赤な唇が近づいて来る。むせかえる香の匂いに吐き気さえした。金切声を上げ、護衛達に髪を引っ張られ回収される姿を横目に、壬氏は女の全てを知った気でいた。
井の中の蛙とはこのことだ。
「蛙……」
壬氏はふと嫌な単語を思い出した。思わず自分の股間を見ようとして毒されていることがわかった。
「落ち着け落ち着け」
経でも唱えようか、鍛錬でもしようか。
そんなことばかり頭を巡らせていると、来客が来た。
「はいはい。猫猫、久しぶりね。上がって頂戴」
「はい、水蓮さま」
気だるげなやる気のない声が聞こえる。
壬氏は襟元を整え、何事もなかったかのように居間へと向かった。
猫猫はいつもどおり、半分眠たそうな顔をしている。手には大きな布包みを抱えていた。
「久しぶりだな」
「はい。壬氏さま」
「何か飲むか?」
普段の水蓮なら茶を出すところだ。しかし、今日は違う。綺麗な玻璃の器に注がれるのは、芳醇な蒸留酒だった。酒精も高く、壬氏が飲みたがっても翌日の仕事に支障があるからとなかなか飲ませてもらえない。そんな酒がなみなみと注がれる。
「おおう、おうおう」
猫猫は目を輝かせ、薫り高い琥珀色の液体に目を奪われている。涎があふれていて、どれだけ酒が飲みたいのかわかる。
しかし壬氏のことを完全に忘れられても困るので、これ見よがしに猫猫の前につまみを置く。
「酒だけだと体に悪いぞ」
胡桃や落花生、松の実などを炒って軽く塩を振りかけている。無花果や竜眼の乾燥果実も添えられているが、猫猫は酒ばかり楽しんでいる。
「仕事はどうだ?」
「初日に変人軍師の部屋から、死体が出てきて検死に行きました」
早速、突拍子もないことから始まったようだ。
「軍師殿がやったのか?」
壬氏は、確認のため聞いておく。
「あのおっさんは自分の手を染めることはないですよ。物理的に。あと普通に別の怨恨でした」
物理的に、というのは、羅漢の腕力がないことを言っているのだろう。確かに、と羅漢の体力の無さを思い出す。行動力の割に全然体力がない。と思い、猫猫を見る。胆力がすさまじい割に、体力がない。普段やる気がないくせに、行動力が半端ない。
よく似ている父子だなあと壬氏は改めて思う。同時に、今猫猫が壬氏の宮にいることを羅漢に知られているのかどうか、とても怖い。
猫猫は気持ちよく酒を飲んでいる。水蓮は壬氏にも酒を用意してくれるが、猫猫と違って水で割っていた。壬氏とて酒には強いほうだが、猫猫には負ける。蒸留酒をそのままがぶ飲みすれば意識が飛んでしまう。
「壬氏さまこそどうですか?」
「俺は変わらん。主上には報告を終えたが特に以前と立場は変わらない。いつも通り俺の元にはくだらん案件ばかり入ってくる。とはいえ、西都にいる時ほど忙しくはない」
「壬氏さまはまだお若いし、無駄に体力有り余っているから生きているだけですよ。普通は過労死しますね」
猫猫は「くぅぅ」と酒に舌鼓を打つ。
「夕餉は食べてきたか?」
「いえ、一人で作るのが面倒なので食べておりません」
「夕餉の残りがあるから食べるか?」
水蓮が張り切ってたくさん作っていた。猫猫のぶんも含めて用意していたのだろう。
「食べたい気もしますが」
猫猫は何やら迷っているようだ。この娘に限って遠慮というものがないので珍しい。
「何か理由があるのか?」
「理由といいましょうか」
猫猫はまつ毛を伏せる。
「私とて色々準備がありましたので」
壬氏は酒を置く。
普段と変わらないように見える猫猫だが、肌のはりが良い気がした。西都に行ってから少し焼けた肌が落ち着いている。そばかすを描いておらず、代わりにごく自然な白粉が叩かれていた。
部屋の香で薄れているが、猫猫からかすかに香油の匂いがする。髪もほんのり湿っているので、湯あみを終えてからこちらに来たのだろう。
猫猫は酒杯を空にする。
「口をゆすいできてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
普段ならまだ酒瓶を空にしつつ、おかわりを要求しかねないのが猫猫だ。
「そろそろ壬氏さま、奥へ参りましょう」
「あ、ああ」
なんだろう、夢でも見ているのだろうか、と壬氏は思う。
「壬氏さま、なんかぎくしゃくしてません?」
「そんなことはないぞ」
猫猫は普段通り冷静に思えるが、かすかに面はゆい表情をしていた。
「猫猫、一応確認していいか?」
壬氏は唾を飲み込んだ。ここではっきりさせておかねば、いけないと思った。
「ここで、俺の寝室に入る意味は分かっているな」
「はい」
「病の看病でも、傷の治療でもないぞ」
「私としても覚悟をして色々準備をしてきましたので」
猫猫は持ってきた荷物を見せる。
壬氏の顔が今までになく熱くなる。できるだけ平静を装いたい、あくまで冷静に見せたいがために猫猫に背を向けてしまう。
いつのまにか水蓮は見えなくなっていた。空気を読まない、読めない護衛はいない。
「湯あみはいいか?」
「入ってきました。ご所望とあればもう一度入りますが」
「いや、いい」
すでに風呂に入っていることは知っていた。
壬氏は心の臓の上に手を当て、聞こえそうなほど大きな脈をおさえようとする。
むしろ、猫猫より壬氏のほうが湯あみをしたかった。風呂には入っているが、酒を飲んだせいもあってか汗ばんでいる。
しかし、今更体を洗いたいというわけにはいかず、奥の寝室へと向かう。
むせかえるような香の匂いは換気した。あからさまな寝台の花びら、変な薬が入った水もない。
さて、次はどうするかといえば。
もう心臓の音がおさまるまで待てなかった。顔がほてったままだが、今更気にする必要もなかろう。
壬氏は猫猫をゆっくり抱き上げた。前より体重は増えているがそれでも軽い。髪から椿油の匂いがする。
「いいのか?」
「そのつもりで準備をしてきたと言いましたよね」
何度も言わせないでくれ、と猫猫は目をそらす。
壬氏だけでなく猫猫もまた緊張しているのだ。自分だけではないと思えば、壬氏にも余裕が生まれる。
「どんな準備をしてきたんだ?」
壬氏は猫猫に質問する。
「朝餉と夕餉を抜いてきました」
意外な答えが返ってきた。
「なぜだ? 実験していて食べ忘れたのか?」
「水は半日前から抜いてきました。酒も抜くべきかと思いましたが、あれは美味しすぎて一杯だけいただきました」
「水も?」
なぜ抜く必要があるのか壬氏には思いつかない。
「本来なら食事は三日前から、水は一日抜かないといけませんでしたが、申し訳ありません」
「いや、何を言っている?」
「緑青館で大店に初物を買っていただく際の礼儀です。粗相があってはいけませんので」
「……いや、買ったとかそういうわけでは」
壬氏は顔を引きつらせる。
「色々上手くできるかわかりませんので」
猫猫の目は本気だった。何事もやるからには最善を尽くす、そういう職人魂があることを忘れていた。
壬氏は面食らいながら、息を吐く。以前のように、誤魔化して逃げ出すのではない。前向きであるからとても嬉しい。
「あと白湯をいただいてもよろしいですか?」
「さすがに喉が渇いたか?」
「いえ」
猫猫は大きな布包みを開く。中から、薬を包んだ紙が出てきた。他にもごちゃごちゃ見慣れない物がある。
「なんだ、これは?」
「鬼灯の根や白粉花、鳳仙花の実などを混ぜたものです」
聞き覚えがある植物ばかりだが、その組み合わせにも記憶があった。
「後宮でおまえが気を付けろといった植物ばかりじゃないか」
「そうです」
後宮は帝の子を産み育てる場所だ。阻害する因子は、排除せねばならない。
「なんでそんなものを持ってきた?」
「ちゃんと中身は確認してもらいました。壬氏さまに盛るわけではないのでご安心を。私が飲みます」
猫猫の目は本気だった。
「物理的に阻害する道具もありますが、効果は低いですし、壬氏さまが好まないなら付けないほうがよいでしょうし」
猫猫は紙に丁寧に包まれた筒状の物を取り出す。
「材料は牛の腸を利用していますが、壬氏さまにあうかどうかという問題もありますし……」
そっと、牛の腸で作られたなにかは片付けられる。
「つまり避妊薬ということか?」
「はい」
「いろいろ準備に手間取ったというのは」
「花街で手に入るものはできる限り集めました」
壬氏はさあっと顔に上がっていた血が引いた。全身が冷たくなっていく。
「壬氏さまの気持ちを受け取った以上、関係を持ったとしてそれは私の合意です。でも、その合意にはけじめをつける必要があります。私は、玉葉后の敵になるつもりはありません」
壬氏はぎゅっと唇を噛む。
浮かれていた。自分が何者か忘れていたのではないだろうか。
壬氏は猫猫にとっては壬氏だが、周りには何と呼ばれているのか。
皇帝の同母弟である華瑞月、月の君だ。
まだ玉葉后の産んだ東宮は幼い。宮廷の中には、まだ壬氏を東宮に推す者も皆無ではない。
そこで、まだ婚姻関係も結んでいない娘と子でも出来たらどうなるだろうか。
また、相手が猫猫、漢羅漢の娘だとわかったらどうなるだろうか。
このまま隠れるような曖昧な関係のまま、ことを進めるべきではなかった。
「月の道も計算して、今宵は比較的できにくい日です。また、失敗してもご安心ください。処置の仕方はわかっております」
猫猫の言葉に嘘はなかろう。子ができたら確実に処置する。隠して育てるなどやるわけがない。
非情であるが、火だねになることを考えたら真っ当な考えだ。
壬氏はぎゅっと猫猫を抱く。
さっきまで沸き起こっていた劣情ではない。申し訳なさがいっぱいで、歯を噛み砕きそうになった。
「すまん、お前に気を使わせて」
猫猫の肩に壬氏の額を乗せる。猫猫は壬氏の背中をぽんぽん叩く。
「いえ」
壬氏は名残惜しいが猫猫を離す。
ぎゅっと惜しい気持ちを抑え、寝台の上に転がる。
「壬氏さま」
「今日は帰っていい。よければ、夕餉を持ち帰ってくれ。冷えているがそれでも腹が減っているだろう」
「でも」
「いいから帰れ。ちゃんと水もしっかり飲め。倒れられてはかなわん」
壬氏は両手で顔を覆う。
「わかりました」
猫猫は荷物をまとめて部屋を出る。
「では失礼します……」
猫猫はなにやらぶつくさ言いながら寝室を出る。
「これでいい、今はこれで」
壬氏の立場をはっきりさせねばならない。いつまでも皇弟としての地位にいるのではない。玉葉后にも梨花妃にも壬氏が敵でないことを示さねばなるまい。
皇帝の弟という地位を捨て、皇族をやめるほかなかった。
「どうしようか」
壬氏は悩む。
故に猫猫が立ち去る際、ぼそりと口にした言葉を聞き逃した。
「本番無しの方向も想定していたのに」
壬氏はそれだけ頭がいっぱいになっていた。