九、恋心
燕燕の知る限りでは、羅漢邸には普通の使用人とそうでない使用人がいる。
普通の使用人は主に家主の養子である羅半が連れてきた人間。
そうでない使用人は、羅漢本人がどこからともなく拾ってきた人間だ。
軍師羅漢と呼ばれる男は、見る限りこれといって言うこともない平凡な男だ。中肉中背、狐目にいやらしい口。特徴と言えば、異国の片眼鏡をかけているくらいだろうか。一応、武官だというが、腕っぷしはからっきし。体力もなく、乗り物にも弱い。馬術だけは昔、戌西州にいたとかで人並に乗れるという。
正直、血筋だけで要職についていたただのでくの坊。それが十数年前までの羅漢の評価だった。
西都で内乱が起き、その後帰ってから評価は一変する。
本人単体ではどうしようもなく愚図であるが、誰か他人を使うことだけは誰よりも秀でている男。
そんな男が連れてきた使用人が普通であるわけなかった。
男ものの衣をまとい、茶の準備をするのは三番。羅漢が連れてきた使用人の一人だ。
身長は男にしては低く、女にしては高い。姚とほぼ同じくらいの背丈。性別は女であると燕燕は確認している。五年ほど前に羅漢の元にやってきた使用人だ。
「猫猫さま、燕燕さん。お呼びして申し訳ありません」
三番は、端正な顔立ちにうっすら笑みを浮かべる。
「何の御用でしょうか?」
燕燕にかわり、聞き返したのは猫猫だった。とても面倒くさそうな顔をしている。
「お客様をおもてなししようと――」
「そういう建前は良いので、本題に移っていただけませんか?」
燕燕は単刀直入に言った。猫猫も同じことを言おうとしたのかうんうん頷いている。ちゃっかり茶と茶菓子の煎餅をいただいている。
「そうですね。はっきり申し上げます。そちらの姚さんのことについてです」
「姚さん? ずいぶんなれなれしい言い方ですね」
燕燕としては、三番に姚に対してそのような呼び方をされる筋合いはない。
「それは魯侍郎の姪御さんだからでしょうか? 私の調べによりますと、叔父の威光を嫌っている人かと存じます。個人で見ればただの宮廷官女でしょう? 敬称を付けるほど高貴なのでしょうか?」
三番の表情は変わらない。うっすら笑みを浮かべているだけ、ただし目は笑っていない。
燕燕が三番のことを調べているように、三番もまた燕燕や姚のことを調べている。猫猫の調べもついているようで、茶菓子は彼女好みのさっくりとした歯ごたえの塩煎餅が置いてある。また猫猫はぱりぱり食べている。
「とはいえ、私は喧嘩を売りに来たわけではありません。お互いに利益になるように、お話をしたいと思って、お二人をお呼びいたしました」
「お互いの利益ですか?」
猫猫がうさん臭そうな目を向ける。
「どんな利益でしょうか?」
「はい。この屋敷に姚さんがこれ以上滞在しても、誰も得はしないかと思います。是非、新しい住居をお勧めしたいとちょうどいい物件を探し出してきました」
さっと間取りが描かれた紙を差し出してくる。今、燕燕たちが使っている部屋よりも広め、厨房も竈の数が多くて井戸が近い。
「付近は、市場も近く治安も良い所です。仕事場も近くお家賃はなんとこれだけ!」
差し出された指の数は確かに破格だった。燕燕に代わり、猫猫が目を輝かせ、手をわきわきさせている。
「この広さがあれば、薬草、加工……」
確かに仕事場の宿舎では薬草を加工するのには向いていない。
「確かに良い物件ですね」
「そうでしょう? では、早速お引越しをいたしませんか?」
「はい、と二つ返事をしたいところですが、一応確認を。私たちがこの屋敷にいて何がいけないのでしょうか?」
「疑り深い性格ですねえ。私は、殿方の家にずっと良家のお嬢さまが居候するのは、体裁が悪いと言いたいだけです」
「それはそうですね。普通に考えると、姚さまのことを考えた提案に思えますけど」
燕燕は三番をじっと見る。
「燕燕」
猫猫が小声で眉を歪めて小突いてきた。
「どうしたんです? 猫猫」
燕燕は同じように小声で返す。
「さっさと提案に乗ったらどうです? いい物件ですよ。一応、詐欺じゃないと思いますし、どこが気に食わないんですか?」
「どこがというと、なんか三番さんはお嬢さまを下に見ている感じがしません?」
「気のせいでしょう?」
「いえ、気のせいではありません」
燕燕はきりっとした顔で三番を見る。
「三番さんの話はもっともですが、それは姚さまのことを考えてのことでしょうか?」
「いえ、羅半さまを考えてのことです」
三番は満面の笑みで答えた。
燕燕は思った。
確かに三番の提案は燕燕にとって悪くない話だ。しかし、そこに姚への敬意が含まれていない。それはどういうことだろうか。
「正直、年頃の娘がいかに叔父の結婚話がうるさいからといって、殿方の家に転がりこむのはどういうことでしょうか。何よりうるさいと言っていた叔父君は現在、遠い西の地にいていつ帰ってくるかわからない。なのに居座り続ける神経が私にはわかりませんけどね」
燕燕が三番の発言に悶々としていると、猫猫がまた肘で小突いてきた。
「燕燕、もしかして提案自体は賛成だけどこの三番さんが気に食わないから、素直に承諾したくないって思ってません?」
「……いえそんなことはありませんよ」
「今、顔がものすごく歪んでひくついてますけど」
「じゃあさっさと了承してくださいよ」
「んー、そこのところはお嬢さまと相談しないとー」
「なんだかんだで燕燕は姚さんに勝てませんよね」
猫猫が呆れた目を向けた。
「こそこそ相談はもういいですか?」
三番が聞いてきた。
「お嬢さまと相談してからでないと引っ越しについては何も言えません」
「そうですか? 今まで、他の使用人に言っていた理想物件をあげても駄目ですか?」
三番が首を傾げて見せる。
燕燕はなんだか向こうの調子に合わせてばかりで腹立たしくなってきた。
「では、逆に聞きますが、なぜ三番さんは私たち、とくに姚お嬢さまを追い出そうと躍起になるんでしょうか? 詳しくお聞かせ願いたいところです」
燕燕としては少しくらい三番が挙動不審になってもらいたいという些細な気持ちだった。しかし、三番は表情を変えぬままはっきり言う。
「私は羅半さまを愛しております。彼のためにはなんでもするつもりです。そこに、まだ青臭い小娘が何を勘違いしたか押しかけ女房のごとくやってきたら、邪魔と思わずして何と言いましょうか?」
「誰が青臭い小娘と――」
燕燕が身を乗り出そうとしたときだった。
「ぶはっ!」
きらきらと雫をまき散らして噴き出したのは猫猫だ。大変汚く、思わず半歩下がってしまった。
「失礼しました」
「いえ……」
三番の顔には噴き出した茶と煎餅の欠片がくっついていた。
「しかし正気ですか?」
「正気とは一体?」
猫猫の問いに疑問で返す三番。手ぬぐいで顔を拭いている。
「あのもじゃ眼鏡についてですよ。いつも金儲けの話ばかり考え、女性関係はあと腐れがないこと第一、綺麗な数字とか言うものであれば男相手でも子作りできないかと考える普通面小男ですよ?」
「知っております。さらには、切り捨ては徹底的に、合わない相手を自分の手を汚さずに窮地に追いやり証拠は残さない人ですね。運動神経は壊滅的で馬も乗れないし、弓の弦も引けない、頭でっかちという言葉がふさわしい人かと」
「どう見てもろくでもない男じゃないですか?」
猫猫は信じられない顔をしている。猫猫の反応が大きいので、燕燕は姚を小娘呼ばわりされたことへの怒りがほんの少し薄れていた。
だが、たいして三番はかすかに頬を赤らめていた。
「まあ見た目はさほど優れているわけではありませんが、それでも私にとっては自分らしく生きる機会をくれた人なんです。美しいもののためなら、考えを曲げたりしませんし」
恋する乙女の顔をしているところ悪いが燕燕はやはり羅半についてよく思えない。
「どんなに三番さんが想おうと、あのような殿方はある程度遊びに飽きたら、ほいっと若い良家の娘を嫁にして、今までの火遊びをなかったことにして、いい家族を作る真似をすると思います。それでもいいんでしょうか? 貴方の今の立場では、この家の奥方になるには分不相応かと思いますけど」
燕燕は羅半に対する評価は厳しいが、あながち間違っていないと思う。元の家柄はわからないが、今は只の使用人のはずだ。
「それは重々承知しております。だから、私は三番でありますが二番でも問題ないと思っています。ですから、この屋敷の将来の奥方には、私が支えたいと思う人物になってもらいたいのです」
『……』
燕燕は思わず猫猫と顔を見合わせた。
三番は思った以上の狂信者だった。
「いや、やめときましょ! 羅半よりずっといい殿方は世の中ごまんといます!」
「猫猫さま。羅半さまのような思考ができる殿方はそうは見つかりませんよ?」
「三番さん、貴方はお嬢さまには敵わなくとも器量はかなりいいほうです。今は視野が狭まっているだけですよ」
「女性を器量で選ぶような心の狭い殿方など最初から眼中にありませんよ」
「いや、あいつ絶対見た目で、数字がどうとかで美人大好きだから! ちゃんと現実を見ましょう!」
猫猫が三番の肩を揺さぶる。
燕燕としても猫猫の気持ちの半分くらいはわかる。なぜ、あのような眼鏡男がもてるのか、理解できなかった。羅半は、何かしらそういう星の下に生まれてきたのだろうか。
だが、同時に姚を説得して、三番おすすめの物件に早く引っ越すべきか考えた。上手く説明できる自信がなかった。
なにより、とある不安があった。
もし、万が一、億に一つであろうと、あり得ぬことだが――。
姚が三番と同じく羅半に恋をしていたとすれば、どうなるだろう。
若気の至りであろうとあり得ぬことだと思いつつ、それを確かめるように引っ越しを勧めるのは燕燕には何より難しかった。