32 蜂蜜その四
「玉葉妃からの文?」
「ええ、直接お届けするようにと」
「阿多さまは茶会にでているのだけど」
ふくよかな侍女頭、風明は困ったように、猫猫を見た。
猫猫はさしだした文箱を開く。中には、書のかわりに小瓶と喇叭型の赤い花がひとつ入っていた。瓶から嗅ぎなれた甘い匂いがする。
それが何か、風明もわかったらしく、ぴくりと肩が動いた。
「風明さまにお話ししたいことがあります」
「わかったわ」
風明は固い面持ちのまま、柘榴宮に猫猫を招き入れた。
風明の自室は、紅娘の部屋とほぼ同じ造りをしていたが、なぜか荷物が部屋の隅で固められている。荷造りを終えた後のようだ。
(やっぱり)
招かれた部屋で、円卓を挟んで向かいあう。身体の暖まる雑茶に、茶請けには固めの麺麭が添えられた。上に果実のはちみつ煮がかかっている。
「一体、どうしたの?大掃除はもう十分よ」
優しい声音だが、探るような声である。
「ええ、いつ引っ越されるのですか?」
猫猫は部屋の隅に置かれた荷を見た。
「察しがいいのね」
大掃除など、表向きの理由だった。
新年のあいさつとともに、新しい四夫人を迎えるために、阿多妃はこの宮を去らねばならない。
後宮で子を産めぬ妃はいらない。
それは長年連れ添ってきた妃でも同様で、阿多妃には強い後ろ盾はなかった。
皇帝と乳姉弟、実の肉親よりも深い関係が今まで彼女の地位を保ってきたのだろう。
せめて、生まれた男児が生きていれば、阿多妃は大きく胸を張れただろうに。
(たぶん、阿多妃には)
青年のような凛々しい姿、それに女らしい匂いはなかった。
まるで、女が宦官にでもなったかのように。
憶測でものをいうのは嫌いである。
しかし、それが確信であれば、口にするしかなかった。
「阿多妃はもう子は産めないのですね」
「……」
沈黙は肯定を意味する。
風明の表情がどんどんこわばっていく。
「出産時になにかあったのですね」
「関係ない話じゃなくて」
中年の侍女頭は、目を細める。
そこに優しげな面倒見の良い女はおらず、敵愾心が目の奥に燃えている。
「関係ない話ではないです。出産の場にいたのは、私の養父なので」
風明は立ち上がり、感慨もなく真実を告げる猫猫を見る。
後宮の医官は常に人手不足である。やぶ医者が今の地位に居座り続けることができる程度に。
医官という特殊な職を持ちながら、わざわざ宦官になる必要はないからだ。不器用なおやじどののことだ、体よくおしつけられたのだろう。
「不幸なのは、皇弟の出産と重なったことでしょうか。どちらかに天秤をかけた結果、阿多妃の出産は、後回しにされた」
難産の末、子は無事生まれたが、阿多妃は子宮を失った。
そして、子もまた、幼くしてなくなる。
先の毒おしろい事件と同様に、阿多妃の子もそれによって亡くなられたのではないかといわれていたが。
「風明さまは責任を感じているのではないのですか?当時、出産後芳しくない阿多妃にかわってお世話していたのは貴方のはずです」
「なにもかも知っているのね。阿多さまを助けることもできなかった、やぶの娘なのに」
「そうですね」
仕方ないという言葉で、医療は片付けるものではない。おやじどのの言葉だ。
やぶとののしられても甘んじて受ける、そんなひとなのだ。
「そのやぶは、鉛白いりのおしろいを使うのを禁じていたはずですよね。聡明な貴方がそれによって、赤子を死なせることはない」
猫猫は文箱の小瓶をあける。とろりとしたはちみつがきらりと輝く。一緒にある赤い花を猫猫は口にくわえた。
甘い蜜の味がする。花をつまみ、指でくるくると回す。
「花の中には、毒があるものも多い。附子や蓮華躑躅のように。その蜜にも毒性がある」
「知っているわ」
「でしょうね」
実家が養蜂を営むのなら、その知識があってもおかしくない。
大人が中毒症状をおこす毒を赤子に与えるわけがない。
「でも、赤子にのみ効く毒が、ただのはちみつに混ざっていることは知らなかった」
憶測ではなく、確信。
まれではあるが、そのような毒がある。抵抗力の低い赤子にのみきく毒が。
「自分が毒見をしても大丈夫だと、滋養にいいと与えていた薬がまったく逆効果だったとは思わなかった」
そして、阿多妃の子は息絶える。
死因は謎として。
当時、医官だったおやじどのこと羅門は、出産時の処置も合わせ、度重なる失態により後宮を追放される。肉刑として、片膝の骨を抜かれて。
「知られたくなかったんですね。阿多妃には」
自分が主の唯一の子を殺した原因だと。
「だから、里樹妃を消そうと考えた」
里樹妃は先帝時代、年上の嫁である阿多妃になついてた。
阿多妃も、里樹妃のことをかわいがっていたという。
親元から離れた幼い娘と、子を持つことのできない女性。一種の共依存が生まれていた。
しかし、ある日突然、里樹妃は阿多妃に拒絶される。何度会いに来ても、風明に追い出されるからだ。
そのまま、先帝は崩御し、里樹妃は出家する。
「里樹妃は貴方に、はちみつには毒があることを教えたのでしょうね」
もし里樹妃が通い続ければ、そのことを話すかもしれない。
聡い阿多妃はその言葉で、なにかに気付くかもしれない。
それだけは避けたかった。
出家し、二度とあうことのないと思われた娘は、再び後宮にあらわれる。
同じ上級妃として。
阿多妃を追いやる立場として。
なのに図々しくもあの小娘は、母親を求めるように阿多妃に会いに来ようとする。
空気の読めない、世間知らずの小娘は。
だから、消そうと思った。
おだやかで面倒見のよい侍女頭は、そこにはなく、冷たい視線を送る女がそこにいた。
「ほしいものはなに?」
「そんなものはいりません」
首の後ろにぴりぴりとしたものを感じた。
後ろの棚には、先ほど麺麭を切った包丁がある。
風明が手を伸ばせばすぐ届く距離にある。
「なんでもいいのよ」
「そんなの意味がないことを風明さまはご自分でわかっているでしょう?」
ここ数日、書を調べていることは壬氏に報告されているだろう。
後宮を司るあの宦官に、猫猫は隠し事ができないだろう。芙蓉姫のときのごとくごまかせるとは思えない。
ごまかすべきではない。
猫猫の話を聞けば、壬氏は風明をつかまえる。
そして、極刑は逃れられない。
十六年前の真実も明らかになる。
だからとて、猫猫がここで消えても同じことだ。
遅かれ早かれ、ばれることである。
賢い侍女頭にそれがわからないわけがなかった。
猫猫にできるのは、ひとつだけ。
減刑を望むことでも、阿多妃の処遇に言することでもない。
二つあった動機をひとつにすることだけ。
阿多妃にその動機を隠し続けることだけだった。
「結果は変わりません。それでよろしければ」
提案を受けてください、と。
(疲れた)
猫猫は翡翠宮の自室に戻ると、固い寝台に倒れこんだ。
衣が汗でべとべとしている。緊張したときの発汗は、べたべたし匂いが強いのでかなりくさい。湯あみをしたくなった。
せめて着替えようと、上着を脱ぐと胸から腹にかけて、布が巻きつけられている。油紙を幾重にも重ね、それを固定していた。
「必要なくてよかった」
(刺されたら痛いからな)
猫猫は油紙を剥いで、新しい衣に袖を通した。
○●○
「というわけで、風明が自首してきたのだが」
「それはよかったですね」
とくに感慨もなく、無愛想な侍女は言ってくれる。
壬氏は卓に肘をつく。高順がなにか言いたげにこちらを向くが無視する。行儀が悪いといいたいのだろう。
「なにか知らないか?」
「なんのことでしょう」
「やたら、高順に書物をかき集めさせていたみたいだが」
「ええ。無駄になってしまいました」
小馬鹿にしているのかと思うくらい淡々と言ってのける。
あいかわらず、汚泥でも見るような目を向けている。失礼を通り越して、いっそすがすがしい。
「動機はお前の言った通り、四夫人の座を保つためだったそうだ」
「そうですか」
まったく興味なさそうにこちらを見る。
「残念だが、阿多妃は上級妃をおりることは決定している。後宮を出、南の離宮に今後住まうことになった」
「それは、今回の件が原因でしょうか?」
猫猫が聞き返してきた。
猫がようやく小判に興味をしめしたらしい。
「いや、元々決まっていた。皇帝の判断だ」
実家に帰さず、離宮で囲うのは長年の愛着からだろうか。
珍しく、猫猫が興味あるらしく聞いてきたので、つい調子にのってしまいたくなる。
立ち上がり一歩近づくと、なんだか身構えた様子で半歩下がる。
言わんこっちゃないと、高順に呆れた顔をされた。
先日のささいな悪戯をまだ根に持っているのか。
あまり身構えられると壬氏としても困る。また、椅子に腰をおとす。
小柄な女官は頭を下げ、退室しようとしたがふと足を止める。
赤い喇叭型の花の枝が飾られていた。
「さっき、紅娘が飾っていた」
「ええ。狂い咲きですね」
猫猫は、花を取ると、軸を取り口に含んだ。
壬氏は首を傾げる。ゆっくりと近づき、猫猫の真似をする。
「甘いな」
「毒ですけどね」
噴出して口をおさえると、高順が水差しを持ってきた。
「死ぬことないので大丈夫ですよ」
唇を舐めるおかしな娘は、ほんのり甘い笑みを浮かべていた。