六、報告
赤い毛氈がまっすぐ伸びている。その先の玉座は、今上皇帝が御座す場所だ。
本来、壬氏は戻るなり報告するべきだったが、帝であり同母の兄の計らいで、翌日に持ち越すことになった。さらに、昼すぎに時間を指定されたのは、労うというよりもう一人の報告者に対する配慮なのだろう。
玉座にいるのは帝。東宮時代は陽の君、昼の君と呼ばれていた。壬氏が月の君と呼ばれ始めたのはその対比が大きい。この国で唯一、壬氏の本名を呼べる人物だ。
一年という月日でそう変わったようには見えない。ただ光の加減か、髪に数本、白髪がまじっていた。隠しもせずそのままということは、帝が何もするなと言っているのだろう。
帝の両脇には、重鎮たち。かつて子昌がいた場所には、玉袁が立っている。
「華瑞月が拝謁いたします」
ゆっくり頭を下げる。
壬氏が本名を言える相手もまた、帝だけだ。
壬氏の後ろには、羅漢および数人の重臣たちがいる。馬閃も後ろにいるが、羅漢が何かしでかさないか血眼で睨んでいるだろう。
すでに報告書は帝に渡し済みだ。ここ一年、戌西州であった概要だけを口にする。
ちらりと見た玉袁の表情は変わらなかったが、息子の死については思うところがあろう。
「ご苦労であった」
低い聞き慣れた声だ。普段なら夜に呼ばれ、酒と肴をつまみつつ話をするところだが、どうだろうか。
至極簡単に報告を終えて、後ろにいる羅漢が何かしでかす前に退室する予定だ。この一年、色々なことがあったが、報告するとなれば数行で終わる。つらつらと報告し、特に何もなければ出ていく手はずだが――。
「そうだ、瑞よ」
報告も終わるところで、帝に声をかけられた。
「久しぶりに一緒に後宮に行かぬか?」
とんでもない誘いをかけてきた。周りの重鎮たちがざわついた。
壬氏が、宦官として後宮に入っているのは暗黙の了解であるが、公式ではない。どどんと悪戯を仕掛けられた気分になった。
ここでの正解は「ご冗談を」だろうが、それを六年間続けた立場としては返答しにくい。
「冗談だ。まだ疲れておろう。明日までゆっくり休むがいい」
帝は壬氏の返答を待たなかった。
ほっとすると同時に、まだまだ食えない人であると思わせる。
後ろにいた羅漢は居眠りをすることなく、彼にとって退屈な時間がさっさと終わったことを喜ぶように出て行った。
「ゆっくりしろか」
主上への挨拶を終えたなら、母である皇太后、そして東宮、玉葉后の元に向かわねばならない。
その後ならゆっくりできるはずだ。船旅の中で書類云々は全て片付けたので、戻ってくるまでの数日は気楽にできよう。
「月の君、部屋へ戻りますか?」
「皇太后などの挨拶まわりを終えてからな。ただ、ちょっと呼び出しを頼みたい」
「なんでしょう?」
「猫猫を呼んでおいてもらえないだろうか?」
壬氏は少し照れつつ、口にした。とうに羅漢は見えなくなっており、聞こえないことを確認しての発言だ。
「あの娘……ですか?」
馬閃は首をかしげている。
「なんだ? 何かあるのか?」
馬閃は色々鈍いので、壬氏が猫猫を呼ぶのに躊躇うのはわかる。だが、今後のことのために慣れてもらわねば困る。
「いえ、医官たちは今日から仕事なので、あの娘も仕事始めかと思います。今すぐ呼び出しますか?」
「……いやいい。やめておこう」
そうだ、そうだったと壬氏は思う。壬氏は休めと主上に直接言われたから休めるが、他の者たちはそうではない。では、仕事終わりにと思ったが、仕事復帰初日に呼び出すとなるとどうだろうか。
目上の人間なので断れないが、疲れているのに何しやがるとじとっとした目で見られるはずだ。それもまた悪くないが、自分の欲を全面に出すのは気が引ける。
「ふむ。ならば、麻美は呼べるか?」
「姉なら問題ないかと」
麻美、馬閃の姉は、中央に残っていた。優秀な彼女なら、壬氏がいなかった一年間のことを教えてくれるはずだ。
皇太后も玉葉后も一年ぶりだというのに変わらない様子だった。二人とも何か壬氏に対して言いたいことがあるようだが、久しぶりということもあって控え目であった。
ただ悲しかったのは、後宮時代可愛がっていた鈴麗公主が壬氏のことをすっかり忘れていたこと。人見知りする年頃を差し引いても、それなりに衝撃を受けた。
宮に戻ると水蓮が掃除をしていた。ただの掃除ではなく大掃除だった。
「水蓮、張り切っているのはいいが、旅の疲れもあるだろう? ゆっくりしていいぞ」
大体、宮は元々しっかり掃除されていた。これをさらに掃除しなおすのは、世にいう姑像ではなかろうか。
「ゆっくりしたいところなんですけどね。こんなものがたくさんありまして」
水蓮は朗らかな顔をしながら怪しげな札や、人形、それから髪の毛で編まれた縄などを見せる。
「……」
「坊ちゃまはお忘れでしょうが、目を離すと何をしでかすのかわからないのですよ。恋する娘という者は」
「いやいやいや」
「恒例の髪の毛が縫い込まれた下着もありますけど、着用しますか?」
「捨ててくれ」
「わかりました」
水蓮は容赦なく塵箱に投げ捨てる。
呪いの札や人形は、恋愛面以外にも壬氏を純粋に呪おうとしているものも含まれているかもしれない。だが、いちいちそれを追及するつもりはなく、呪いなど遠まわしな方法でしか攻撃してこない小物は、表には出ないだろう。呪いが迷信であるとはっきり思う壬氏だからこそそう割り切れる。
「麻美は来ているか?」
「はい。奥の部屋を手伝わせております」
麻美も女傑だが、水蓮には敵わない。
居間では、麻美が水蓮と同じように塵箱に怪しげな人形を捨てていた。
「お久しぶり、月の君。こちらは後程お焚き上げをしますのでご安心ください」
西都で見慣れた桃美の年齢を半分にしたような女だ。
「早速だが、ここ一年の出来事を教えてくれるか?」
「はい。では月の君に関連していることから」
手を休めることなく、麻美は話を始める。
西都から来た玉鶯の娘は、近々玉葉の侍女になること。
それに加え、壬氏の妃をどうにかしろという声が上がっていること。
梨花妃の息子を東宮に仕立て上げようとする派閥が動きを見せていること。
「他には……」
麻美が少し言いよどんだ。
「何かあるのか?」
「噂程度の話です」
「言ってみろ」
壬氏は椅子に座り、水蓮がいつの間にか用意した茶を飲む。
「現在、皇族の男児の数が少ないことが問題です。主上には二人の男児、月の君は未婚。ということで、数少ない男性皇族に接触をはかる者たちがいるといいましょうか」
「まあ、妥当ではあるな。たしか、先々帝の年の離れた異母弟がいたな」
つまり先帝の叔父にあたる。女帝時代に、彼女の怒りを買うことを恐れて出家したと聞いた。
「はい。そのかたに息子が一人います」
男系であるゆえ、継承権はある。壬氏も何度かいると聞いたことがあった。
「謀反でも企んでいると?」
「それは以前より変わらない態度です。ただ、それとは別に男系皇族がいると噂になっているのです」
「男系皇族?」
壬氏は首を傾げる。
「一体、何代前の皇族だ?」
「三代前でしょうか。かつて皇族でありながら時の帝の怒りを買った者がいたそうです」
「ふむ」
「その者は処刑される前に皇籍をはく奪されたのですが、その前に市井の娘との間に子を作ったと」
「とんだおとぎ話だな」
「ええ。与太もいいところですが、せっかくなのでお話をと」
麻美なりの冗談だ。似たような話はいくらでも聞いたことがある。妓女の中にも皇族の落としだねだからと、『華』を名乗って商売する者もいるくらいだ。
「まだまだ話はありますが、どうされますか?」
「腹が減った。食事をしながら聞き流すが問題ないか?」
「かしこまりました」
麻美はまた一つ髪の毛の刺繍入りの垫子を見つけたらしく、塵箱に投げ捨てた。
壬氏は宮ごとかえたほうが早いのではないかと思ったが、猫猫が無駄遣いすんなと顔をしかめる姿を想像し、口には出さなかった。