三、執務室の首つり死体 前編
人間の遺体というものは案外珍しくないと羅半は知っている。
都および周辺地域で、百万人の戸籍がある。それが正しいか否かについては、少なく見積もっての数字だろう。口算という成人に対する定額の税金があるため、子どもが生まれていないと偽ったり、成人前に死んだことにしたり、はたまた男を女と申告するなどがある。死亡届の出し忘れはあるだろうが、それよりも戸籍がない人間のほうが多かろう。
宮廷には後宮女官、下働きも合わせると万近い人間が働いている。
人が多ければそれだけ人の死を目にする機会が多く、珍しいと思うとすれば縁起が悪いと遺体を隠してしまうからだろう。
訓練中に打ちどころが悪く死亡する例もある。昨年の記録によると三件、武官を続けられなくなる後遺症が残った例は十八件あった。数値としては少ないので、報告されなかった例もおおいはずだ。
文官も激務に追われ、追い詰められ自殺する者もいる。
「昨年は七件だったな」
羅半はぶら下がった死体を見て口にしていた。
首つり死体は文官ではなく、武官の服を着ていた。
「大きなてるてる坊主がいる?」
「義父上、これは遺体です」
羅漢はいつもどおり冗談なのか本気なのかわからないことを言う。近くにいた俊杰少年は顔を蒼白にし、口をぱくぱくさせていた。普通の反応はこれだ。
「羅漢さま。どうしましょうか? すぐに部屋を片付けますが、違う場所で執務を行いますか?」
副官の音操が羅漢に問いかける。
「別にすぐに片付けるならこの部屋で問題ないぞ」
「義父上が気にしなくても、他の人は気にしますよ」
羅半の中では死体は美しいものではない。生命活動を終えた者は者から物へと変わり、時間経過と共に腐敗していく。腐敗は清潔とは言い難いものであり、羅半にとって美しくないものだ。
「この部屋は、日当たりいいんだぞ」
まだ、寒さが残るこの季節に、羅漢の最重要事項はぽかぽかと昼寝ができる場所を確保することだった。
周りには羅半たちをのぞいてたくさん、正確に言えば武官が十七名、文官が十名、官女が三名野次馬に集まっていた。
「ところでこの人は誰でしょうか?」
羅半は眼鏡をかけなおしつつ、目を細める。遺体を凝視したくないが、誰か判明させないといけない。今日は仕事にならないだろう。
「羅漢さまが二年ほど前に引き上げた武官です。羅漢さま曰く、『香車の一人』ですね」
音操が説明してくれた。
「例の鞍替えしたという?」
「そうですね。すぐさま、経歴書を出しましょうか。一年以上前の物ですけど」
昨日、羅漢に説明した将棋盤の上で奪われた香車だ。
羅半は連絡事項を伝えたが、『香車』がどんな顔をしているかまではわからない。顔を覚えるのは羅半の仕事ではなく、陸孫の仕事だった。
「そいつが義父上の執務室で自殺ねえ?」
羅半は周りを確認する。
『香車』がぶら下がっているのは執務室の中央の梁。釣床を使いたいからと、わざわざ大きな梁が何本もある天井が高い部屋を執務室にした。だが、当の本人は動きが鈍く、釣床に乗ることもできなかったというどうでもいい経緯がある。
他の部屋なら首つり縄が部屋の中心にぶら下げられるような作りにはなっていない。
死体から漏れ出す汚物から少し離れたところに椅子がある。蹴り倒されたのか横になっていた。
羅漢の執務室は、本人不在の間、放置されていたらしい。掃除はされているようだが、隅々まで行き届いていない。羅漢お気に入りの長椅子は綺麗に拭かれているが、棚の隅には埃が残っていた。
「ふむ」
羅半は梁にかけられた首つり縄とぶら下がった『香車』、そして横になった椅子を見る。
「義父上」
「ん?」
「この中に『香車』、首を吊っている男を殺した犯人はいますか?」
「ん」
羅漢は顎で野次馬をさした。
「えっ?」
俊杰少年は驚いた顔で羅漢と野次馬を見る。
「ど、どういうことです」
「はい。静かにね。犯人に気づかれちゃうからね」
羅半は俊杰少年を軽くたしなめる。男に優しくするつもりはないが、実兄と入れかわった少年に対して多少は親切にするのは最低限の礼儀だろうと思っている。
俊杰少年は両手で己の口を塞ぐ。素直な子どもは扱いが楽でいい。
「どの人ですか?」
羅半は羅漢に聞く。
「白い碁石」
羅漢には碁石だろうが、羅半には判別がつかない。羅半は目を細める。
「あっ」
野次馬はどんどん去っていく。犯人が消えてしまうが、そこは羅漢の副官の音操がしっかり確認していた。陸孫ほどではないが、この男も人の顔を覚えるのが得意な部類だ。
「音操殿」
羅半はやはり面倒くさいと思って、羅漢の副官を見る。
「羅半殿。私だけにあとはまかせて仕事に行こうなどと考えていませんよね?」
音操はにこっといびつな笑みを浮かべて羅半の肩を握った。曲がりなりにも武術の心得があるらしく、握力が強くて痛い。
羅半はどうしようかと息を吐き、羅漢を見る。
「儂、寝たい。その前に猫猫に会いに行きたい」
羅漢の頭は、常人には理解できない作りになっている。数式もなく解を導き出すが、それまでの手順は全くわからないのだ。どんなにその的中率が高かろうと、立件は難しい。
「ええっと」
羅半は近くにいた下官を呼ぶ。
「医局に行って、変死体の検死を頼んでくれ」
「首つり死体ではなくてですか?」
「変死体といっておくれ。そうだなあ、せっかくなので仕事復帰したばかりの医官見習いたちにも来てもらえないだろうか? 貴重な新鮮な遺体があるので勉強がしやすいはずだよ」
羅半は遠まわしに「猫猫を連れてこい」と言った。絶対とは言わないが、これで八割がた猫猫がやってくるだろう。そうすれば、やる気のない羅漢が少しはまともになるはずだ。
羅漢は答えを出すが、答えだけでは説明にならない。
羅漢が犯人を指し示す。羅半たちは殺害方法と動機を見つけ出さねばならない。
というわけで、羅半は眼鏡をくいっと上げつつ、美しくないものをまた見なくてはならないとため息をついた。