三十五、君の名は
潮風が気持ちいい。
猫猫は海風に当たりつつ船の甲板を歩く。戌西州を後にし、のんびりとした航海が始まった。行きの船とよく似ているが微妙に違う形をしている。今回は大型船が三つなのは同じで、交易船がまたくっ付いて来るようだ。
ここ数か月で西都は一変した。一時期、皇弟は玉鶯を暗殺して西都の乗っ取りを企てているなどという陰謀論が蠢いていた。しかし、玉鶯の長男である鴟梟が政治に加わると周りの印象が変わってきた。
放蕩息子として聞いていた噂の割に、鴟梟の印象は悪くなかった。何より人気があったのは、父親にそっくりな容姿だろう。妙に人受けがいいのもどこか演じているような玉鶯の武生ぶりが、鴟梟がやると違和感がないからかもしれない。
食糧危機についてはまだまだ問題があるが、皇弟である壬氏がいつまでも地方にいるわけにもいかず帰ることになった。置いていかれる魯侍郎は大変だが頑張っていただきたい。
(正直、壬氏が中央にいるほうが動きやすいからなあ)
支援の出し渋りをする者たちも、皇弟が間近で迫れば断ることはできまい。本来、皇族がすることではないが壬氏ならやりかねないと猫猫は思う。
(帰るのにほぼ一年かかったなあ)
中央はどれだけ変わっているだろうか。皆は元気だろうか。
(お土産買い忘れたけど、諦めてくれるよな)
そんな暇はなかった。あるとすれば、竜涎香くらいだ。一番面倒くさいやり手婆の土産だけでも手元にあるのは助かった。
ほっとしたいところだが、帰りの船はほっとできない人員が揃っている。
「雀さん、雀さん」
「はいはい、なんでしょうか、猫猫さん?」
雀は西都の名残といわんばかりに干し葡萄を食べていた。左手だけで器用に房から千切って口に入れている。
「なんであのおっさんがここにいるんですか?」
猫猫は半眼で船頭にうずくまるおっさんこと変人軍師を見る。
「猫猫さんと同じく中央に帰るためですよぅ。なお、先ほどまで元気でしたが船が出た途端あの様子で厠に向かうも間に合わず、胃の中のものをきらきらと潮風に乗せてまき散らしています」
「詳細に説明しなくてもわかりますよ」
吐しゃ物がきらきらとしぶきをまき散らしており、近くにいる副官が可哀そうに見えてきた。周りに桶を持っている小姓がいる。確か俊杰と言う少年で、西都にいたとき猫猫の世話をしてくれた。
「羅漢さまは本来別の船に乗る予定でしたが、今度こそ猫猫さんと乗るんだーいと駄々をこねまして、下手すりゃ火薬を持ち出す勢いだったので仕方ありませんよぅ。でも、船に乗っている間は大人しいので大丈夫ですねぇ」
「まず火薬どこから取り出すんですか」
猫猫は呆れる。
「俊杰も付いてきてるとは思いませんでした」
まだ若いのに、家族のために出稼ぎに行くとは大変親孝行者だ。
「ええ。都に帰る人員に俊杰さんの名前もあったので、本人が一番驚いてましたよぅ。しばらく、羅漢さまについてもらいましょうねぇ。比較的、子どもとは相性が良いようですから」
さて、これがほっとできない人員その一。
その二と言えば。
「荷物の整理終わりました。次の仕事は何でしょうか?」
腰の低い青年が一人、両手に荷物を持っている。
猫猫は半眼で睨む。
「あー、じゃあ個室の前の掃除お願いしますねぇ。羅漢さまが甲板に上がる前に吐き散らしていたので汚れているんですよぅ。猫猫さんと私の部屋です。間違えなく」
「かしこまりました。終わりましたら、月の君の下へ行ってもよろしいですか?」
丁寧にお辞儀をする青年の名は虎狼。
「何を言っていますか? 雀さんのお仕事はまだまだ続くのですよぅ。個室前の掃除が終わり次第、今度は甲板ですねぇ」
雀は吐き散らす変人軍師を指す。
「なんでこの人がいるんですか?」
猫猫は明らかに嫌な声で言った。
「この人とは手厳しい。気軽に虎狼とお呼びください」
普段と変わらない態度の青年はにこにこ笑っている。
猫猫が散々戌西州を逃亡する羽目になったのは、鴟梟の手当をしたからだ。だが、その鴟梟のところへ猫猫を導いたのは小紅。そして、小紅は虎狼によって案内されていた。
後継者争いのため、鴟梟を陥れようとしたのは虎狼だ。
「猫猫さん猫猫さん」
「雀さん。さすがに私もあまり平静ではいられないのですが」
「ここは割り切ってください」
雀がにっこり笑う。あえて不自由な右手を挙げて見せる。
「この通り、僕には西都に居場所がありません。何より、僕がなすべき使命は変わりました」
「居場所がないのはわかりました。使命とはなんですか?」
猫猫は白けた顔で虎狼に聞く。
虎狼は少し顔を赤らめて目を伏せる。
「仕えるべき主のために、身を差し出すことです」
「意味がわかりません」
猫猫はぞくぞくと気持ち悪くなってきた。
「猫猫さまは僕のことが気に食わないでしょうが、信じてください。僕は使命を全うするためにやってきました。この身は月の君のためにいつでも差し出します。彼の方のために僕は生かされているのです」
(変な信者ができたなあ)
猫猫は呆れつつ雀を見る。
「小紅と交換できませんか?」
「私もそう思いましたけど、一応未成年ですから無理でした」
すでに掛け合ったらしい。
「小紅! お目が高い。あの子は以前から使える子だなあと思っていたんですよ、僕も」
「その使える子をなんで巻き込んだりしたんですか?」
「だって僕より適性があるなんて言われたら、気になってちょっかいかけたくなるじゃないですか? そしたらまさか猫猫さまを連れてくるなんてやったんです。巻き込む気はありませんでした。本当です、本当ですから、信じてください」
妙に虎狼の態度が軽くなっている。何か螺子が外れたように見えた。
「あー、そういうことですかぁ」
雀が妙に納得している。
何に納得しているのかわからないが、猫猫はもう一つ確かめたいことがあった。
「それでは虎狼さま。もしかして、西都にいる間、私をずっと試していたのではないですか?」
酒造所の食中毒問題や異国の貴人の病問題を持ち掛けたのは虎狼だ。
「試すとは人聞きが悪いです。僕は猫猫さまが解決できるかなと思って連れて行ったのですよ」
「酒造所の食中毒についてもですか?」
猫猫は確認するように訊ねる。
虎狼は返事をせずに笑うだけだ。
「酒造所はそういえばあのあと大変だったみたいですねぇ」
雀が話題を変えてきた。虎狼を突き詰めたい気持ちもあるが、深追いするなという意味だと猫猫は悟った。
「試飲は問題ないのですけど、最上級の酒を空にしていたことがばれてしまったそうです。いくらなんでも飲みすぎで、出荷する分まで飲んでしまったらしく、薄めた粗雑品を混ぜて出したこともあったようですぅ」
「粗雑品って」
なんか聞いたことある話だ。
「ええ。ちょうど密造酒騒ぎがあった頃だったそうでうまく誤魔化していたようですけど、食中毒事件のせいでばれてしまったそうですよぅ」
雀と虎狼は示し合わせたようににこにこ笑う。二人の顔は全然似ていないが、笑い方がそっくりに見えた。
「駄目なわけじゃないんですけど、いつも仕事が粗いんですよぅ。そこのところみっちり教えこまないといけませんねぇ」
「雀さんの部下になるんですか?」
「はい。びしばしこき使いますので、猫猫さんもどんどん粗雑に扱っていいですよぅ」
「よろしくお願いします」
家を追い出されたようなものなのに、虎狼は妙に明るい。
猫猫はふうっと息を吐いて背中を見せる。
胃の内容物を吐き散らして虹を作っている変人軍師に、何やらかすかわからない、でも一応手綱付の虎狼。
この二人が視界に入るのが嫌だったので、どこか別の場所はないかと考える。
結果、どこがいいかと思ったら、帆柱にある見張り台が見えた。
「すみません、あそこに上ってもいいですか?」
船員に確認する。
「上ってどうするんだ? 嬢ちゃんには危ないぞ」
「なんとなく」
「なんとなくって。中央の皆さんは高い所が好きなのかねえ」
呆れた顔をされたが仕方ない。危険ならやめておこうと思ったが、船員は猫猫に縄を持ってくる。
「ほれ、命綱だ。危ないからしっかり体に括り付けるんだぞ」
「あ、ありがとうございます」
あまりにすんなり了承してくれたので猫猫は呆気にとられた。
腹に縄をくくりつける。
よじよじと上っていき、帆柱の中間にある見張り台に乗る。
「……」
足を踏み入れようとしたら先客がいた。
「なんで猫猫がここに来るんだ?」
「その台詞、そのままお返しします壬氏さま」
壬氏が見張り台に座っていた。
「俺は、まあ。なんか面倒くさいのから逃げてきた」
「馬閃さま……じゃないですね。虎狼さまですか?」
壬氏の顔が曇った。図星だったらしい。
「……おまえこそ何だ?」
「天気がいいから外にいたいのですが、変人軍師が吐しゃ物をまき散らしているのでいい場所がないかとやってきました」
大体似たような理由だった。
「まあ、座れ」
「狭いですね」
「我慢しろ」
猫猫は肩が触れ合う位置で座る。狭いので仕方がない。
もしかして見張り台に上ることを許してくれたのは先客がいたからかもしれない。
「ようやく帰れるな」
「帰るまでが遠足でございます」
「そういうこと言うな。せっかく気持ちが晴れているのに」
壬氏は空を眺める。青い空に白い雲が見えた。何気ない光景だ。
「中央に戻っても色々お仕事がありますよ」
「そうだな。中央の仕事は溜まっているだろうし、何より遠隔地から戌西州を支えるのは大変だろうな」
しかし、やらないわけにはいかないと、壬氏の表情は語っていた。端正な横顔には、ひと筋、切り傷が残っている。もう消えることはない傷跡だが、妙に壬氏が気に入っているのを思い出す。
(子の一族のことを思い出す)
壬氏もまた、鏡を見るたび、傷に触れるたびに子の一族のことを思い出しているはずだ。
壬氏という人間の責任感が強いのを猫猫は知っている。別に仕事があると猫猫からいう必要もないのだが、なんでそんな気が利かないことを口にしてしまうのだろう。
「壬氏さまは都に戻ったら何がしたいですか?」
特に話題が見つからないので言ってみた。
「……したいこと?」
壬氏は悩む。唸って体をひねる。
(いや、そこまで悩まれても困る)
訊ねた猫猫に深い意図はない。
「そこまで悩むことでしょうか?」
猫猫だったら、薬草を採取したいとか、薬を作りたいとか、新しい薬の性能を試したいとかいくらでもあるように思えるのだが。
「いや、どうせしたくないことばかり用意されているから、その対応ばかり考えていた」
「あー。妃候補が来るとかそういう話ありましたねえ」
玉鶯の養女だっただろうか。玉鶯亡き今、送られた娘が少々気の毒で仕方ない。
「そこは玉葉后が色々やってくれている。たぶん誑し込まれているだろうな」
「誑し込まれるって……」
「知らないのか? 玉葉妃の人誑しぶりは有名だったぞ」
猫猫は後宮時代を思い出す。そういえば、よく中級妃、下級妃と茶を飲んでは派閥に引き入れていた気がする。
「玉葉后のお立場は変わらないようで」
猫猫は中央に文を送ることはあったが、さすがに后ともなる方に送るのは憚られる。どういう状況なのかは全く知らない。
「東宮も公主も元気にしているそうだ」
「それは良かったです」
猫猫にとって東宮より公主のほうが馴染み深い。好奇心旺盛の公主はだいぶ大きくなられたはずだ。
「帰ったら一度、挨拶に行くか?」
「行ってもよろしいですか? 玉葉后からは何度か勧誘されてますけど」
「やっぱり行かなくていい」
壬氏は即答する。
「したいことか……。そういえばあったな」
「どんなことですか?」
壬氏は右手で猫猫の左手に触れる。
手のひらと手のひらを合わせ、その大きさの差があらわになる。
「これがやりたいことですか?」
「他にもある」
「そうですか」
「でもできない」
壬氏の視線はそっと甲板で吐しゃ物をまき散らす人物に向けられていた。
「ものすごく我慢している。ちょっときつい」
猫猫とてもう壬氏の感情についてよく知っているし、何よりもう宦官の真似事をしなくていいことを知っている。
なのでこうして壬氏の横に密着していることに妙な居心地の悪さを感じていた。
でも同時にそれほど不愉快ではないのだ。
『猫猫さんにもいろんな事情がありますから、感情に流されないことは大切ですぅ。でも……』
『それを言い訳にしちゃだめですよぅ』
雀の言葉を思い出す。
たぶん猫猫が思う壬氏への気持ちは、燃え上がるような熱情ではない。壬氏が猫猫に対して思う気持ちを返すことはできないが、でも同時にこれだけ安堵を寄せられる人物はそうはいないと思いつつある。
猫猫は自分の感情がどういうものなのか把握しつつあった。
そして、ちゃんと受け止めるべきだと考えるようになった。
困ったことにあのお茶らけた侍女に言われるとは思わなかったけど。
(さて、どうしようか)
猫猫の左手は壬氏の右手に触れたまま。何も起こらないのはいいが、いつ離せばいいのかわからない。なのでぼんやり下を眺めていた。
(行きとは違う人員がたくさん乗っているなあ)
変人軍師もそうだが、羅半兄が連れてきた農民仲間もいる。彼等には悪いことをしたと猫猫は申し訳ない気持ちになる。
そしてあることに気が付いた。
「そういえば、羅半兄見かけませんね?」
「羅半兄? 今回、農業関連の人員はこの船に乗るように指定したはずだが」
「そういえば……」
猫猫は思い出す。
羅半兄に中央へ帰れることを伝えただろうか。
(小紅の激変を見て言い忘れていたけど)
いやおかしい、猫猫が忘れてもきっと誰か伝えたはずだ。
「でも、羅半兄、数日前に『農村の畑見てくる』とか言ってたんですよね?」
「いや帰ってくるだろう。大体、乗組員は全員名簿で確認されるわけだ」
「そうですよね。いくらなんでも置いていかれることはないはずです。念のため、名簿を確認しておきましょうか」
「そうだな。ところで、羅半兄の名前は何というんだ?」
「……」
猫猫は自分の手だけでなく、壬氏の手にじわじわと汗がにじむのを感じた。
その後、羅半兄は船に乗っていないことが分かり、同時に羅半兄の本名がわかったのだが、遠い西の大地にいる羅半兄はまだ置いていかれたことにも気づいていない。