三十三、折衷案
数日ぶりにしっかり取った睡眠は、壬氏の気力を回復させるのに大いに役に立った。
そっと寝台の上を見る。埃と血糊にまみれて汚れた猫猫が丸くなって寝ている。余程疲れたのだろうか、壬氏が抱きあげて寝台に運んでも起きる様子はなかった。
頬には殴られたようなあと、体に擦り傷、首には斬り傷が見えた。血まみれの服は、重症の雀を処置したかららしい。
「ひどすぎる格好だ」
ここ数日の間に何があったのか、壬氏が聞いたところで猫猫は業務連絡のようにつらつらと話すだけだろう。そこに、心配してくれかまってくれというひりつくような情念はない。壬氏の重石にならぬよう思っているのか、それとも感情を訴えるだけ意味がないと思っているのか。
もし前者だとしたら壬氏はこの憎たらしい猫のような生き物をどうにかしないと気が済まなくなる。
宦官薬を飲まなくなった壬氏はもう十分雄としての機能を持っている。理性という鎖が無ければただの獣となるのをわかっているのだろうか。
「お坊ちゃま」
侍女の水蓮が声をかける。手には着替えを持っていた。
「そろそろお時間です。食事をとってください」
「わかっている」
「湯あみはどうされますか?」
「……やめておく。時間がないだろう」
「本当なら血だらけのままだと衛生上良くないんですけどね」
水蓮が小言を言いつつも、普段以上ににこにこしているように思える。
「お湯だけでも準備しておきますか?」
水蓮の目は寝台に向かっていた。壬氏に必要なくとも、猫猫には湯あみをさせるべきだろう。
「着替えも用意しておいてくれ」
察しのいい侍女なら、壬氏が『誰の』を端折っていてもわかるだろう。
「かしこまりました」
水蓮は恭しく頭を下げる。
壬氏は伸びを大きくすると、もう一度寝台の前に立った。
ぐっすりと眠る猫猫を起こさぬよう顔を近づける。
「このくらいの補充は許されるべきじゃないか?」
己に言い聞かせるように言うと、そっと唇で猫猫の額に触れた。
着替え、食事を終えたところで向かった先は本邸にある広間だった。離れにありよく宴会に使われる場所らしいが、今日は護衛を含めて最低限の人数しか入れていない。誰からも話が聞かれぬよう配慮されている。壬氏の傍に付き従っているのは、桃美だ。今日は侍女としてではなく、副官の役割として付いてきている。
広間にはすでに先客がいた。それぞれ、長卓の椅子に座っている。
一人は武骨な男。散々、煮え湯を飲ませてくれた玉鶯によく似た男だ。ただ、髭は無い。無表情だが眉間にはしわが寄っている。玉鶯の長男である鴟梟だ。壬氏はほとんどこの男と話したことはないが、遺産相続の際、ずっと様子を見ていた。父親である玉鶯とは似ているようで似ていない。
鴟梟と向い合せにいるのは、まだ元服してから間もないような青年。ここしばらく壬氏の元で仕事を覚えていた虎狼だ。その顔は長男の鴟梟とは全然似ていない。腰の低い、まだ成長過程とさえ思える体格の持ち主である。
そしてもう一人。
本来なら長男、三男と来て次男がいるものだが、違う。三角巾を付けてにこにこ笑っている女がいる。顔には擦り傷があり、胴体にも処置しているのかごわごわした着物の着方をしている。肩には寒くないようにか綿入れがかけてあった。この場にはいないが、馬良がよく着ている綿入れだった。
「月の君、お久しぶりでございますぅ」
普段と変わらぬ声に壬氏は本当に怪我人なのかと思ったが、猫猫の返り血を見る限りかなり重症で血も足りないはずだ。
「申し訳ありませんが、私はこのままの体勢でもよろしいですかぁ?」
雀がちらちらと確認するのは桃美だ。壬氏ではなく姑の顔色を窺っている。桃美もさすがに大怪我をした嫁に対して厳しくしないはずだ。
「問題ない」
壬氏は姑に代わって返事をした。
鴟梟と虎狼はすでに立ち上がり、壬氏に恭しく頭を下げている。
「たびたび、お呼び立てしてまことに申し訳ありません」
まず口を開いたのは鴟梟だ。前回の遺産相続の話し合いには見られなかった恭しい態度だった。
鴟梟には、何か思うところでもあるのだろう。
対して、三男こと虎狼はにっこりと笑っている。
「月の君、顔色がよろしいようですね。僕のような罪人に対する寛大な処置に感謝申し上げます」
「誰もおまえのことを許すとは言っておらぬぞ」
壬氏は声を荒げもせずに言った。その言葉に虎狼は笑みを絶やさず、代わりに鴟梟の表情が固くなる。
今から広間で話し合うのは、虎狼のことだ。虎狼が何を思って、何をやったか、弾劾するために集まった。
そして、本来いるべき次男の飛龍はここにはいない。それは飛龍には知られたくないことがあるからだ。
壬氏は手で「座れ」と合図する。鴟梟と虎狼は壬氏が椅子に座ったのを確認してから座る。
雀は椅子に座ったままだが、手には飲み物を持っていた。乳白色で湯気を立てている。おそらく山羊の乳かそれを加えた汁物だろう。血が足りていないのだから仕方ない。
壬氏は気にせず話をすることにした。
「虎狼、なぜおまえは実兄である鴟梟を殺そうとした?」
前置きは必要ない。壬氏は単刀直入に質問する。
虎狼は顔色を変えず笑みを絶やさない。
「僕は僕なりに西都の、戌西州のために考えました」
「それが実兄を殺すことか?」
壬氏は淡々と聞き返す。
鴟梟はじっと虎狼を見ている。兄としては複雑な気持ちなのだろう。
「おまえは鴟梟とも仲良くやっていただろう? 遺産相続で兄がいたから困ったわけではあるまい?」
「はい。確かに大哥は遺産はいらない、好き勝手に分けろと言いました」
「そうだ。俺は何もいらない。親父の遺産は勝手におまえらで分ければいい。西都を治めるつもりもねえ、飛龍と虎狼の二人で勝手に話し合えばいい。何より俺の名前は鴟梟だ。もう玉の名を使うつもりはない」
鴟梟の話は、世の次男、三男にとってはまたとない提案に聞こえるだろう。しかし、戌西州を治める一家にとってはそう簡単なことではない。
「それで、僕と飛龍兄さんの二人で治めろと、ご無体なことを言いますね。大哥が遺産と仕事を継がないだけで何もかもうまくいくと思いますか?」
「行くだろう? 飛龍はしっかり者だ。俺よりも頭が良い。上手くまとめてくれる。おまえが補佐に入ればいい。すぐさま親父の代わりにならなくても、数年後にはちゃんとやっていけるはずだ」
「数年後? これから数年が一番大変なのにですか?」
虎狼は呆れたような声を上げる。
「確かに飛龍兄さんはしっかりしています。普通に中央で役人をやれば、鴟梟兄さんよりもぐんぐん出世するでしょう。でも、頭にする顔にするとなるとどうですか?」
虎狼は鴟梟にではなく壬氏に問いかけているようだった。
「蝗害の後処理、治安の悪化、食糧不足に加え他国からの侵略も今後視野に入れないといけません。飛龍兄さんにまとめ上げる力があると思いますか?」
「祖父さんや叔父さんたちにも頼めばいいだろう?」
「お祖父さまは高齢です。もう中央から戻ってくることはたびたびできると思いません。また、叔父さん、叔母さんたちもどこまで頼れますか? 曲りなりにもお祖父さまが父上に西都を任せたのは、思想はどうであれまとめる力があったからですよ」
壬氏は虎狼の言葉に頷くしかない。どういう思惑があったのであれ、玉鶯には力があった。
「お祖父さまが存命のうちはまだ大丈夫かもしれません。また、蝗害が来る前の状況であれば、大人しくしていたでしょう。ですが、父上なき今、叔父さん叔母さんは今後、遠慮なく本家に対して口を出すようになります。そして、長男でもない飛龍兄さんや僕には、戌西州のそれぞれの分野で力を持った叔父さん叔母さんたちを抑えつける力はありません。だから、飛龍兄さんはずっと鴟梟兄さんが戻るのを待っているんです。鴟梟兄さんは、幼達叔父さんを殴り合ってでも黙らせるくらいの力はありますからね」
幼達、末っ子の意味を持つ字だ。玉袁の子どもたちの中で末っ子は玉葉后だが、男兄弟では確か牧畜をやっている七男が一番下だと聞いている。以前、鴟梟と刃物を持ち出すほどの喧嘩をしたと聞いていた。
「うちの兄弟で、おそらく一番まともに西都を治めることができるのは鴟梟兄さんくらいです。それが分かっているので、飛龍兄さんも僕もずっと補佐として支えるほうにしか考えていませんでした」
「矛盾しているぞ。さっきからずいぶん鴟梟のことを褒めている。なぜ、命を狙ったのかと私は聞いている?」
「矛盾していませんよぅ」
口を開いたのは雀だった。手には柔らかい揚げ麺麭のようなものを握っていた。
「鴟梟さんがそのまま生きていたら、鴟梟さんを担ぐ人が絶対いますでしょう? それが邪魔だったんですよねぇ」
「その通りです」
雀の答えに虎狼は肯定する。
「だが、鴟梟がいなくなったところでどうなる? 飛龍も虎狼も力不足と言ったばかりではないか?」
壬氏の問に、雀と虎狼はにっこり笑う。妙によく似た笑い方だった。
「ええ。でも虎狼さんは見つけてしまったんですよねぇ。やる気のない大哥よりももっと西都にいたほうがいい人を」
「はい。その通りです」
虎狼はじっと壬氏を見る。嫌な予感がした。
「玉鶯さまの三人の男子のうち、一番治めるのに向いているのは鴟梟さんですけど。虎狼さんにとって別の人材さえいれば、楊家にこだわる必要はないんですよぅ。虎狼さんの目的は『西都を発展させること』なんですねぇ。政治的に西の長についてもおかしくなく、実力が伴った人物であれば――」
雀も壬氏を見る。
「鴟梟兄さんがいなくなればきっとうまくいったはずです。飛龍兄さんも僕もしっかり補佐として役に立てたはずです」
そう言うと、虎狼は椅子から立ち上がり、床に跪いて頭を下げる。
「無茶を承知でお願いいたします。月の君、是非西都に残り、戌西州の民を導いていただけませんか? そのためなら、僕の首などいくらでも差し出します」
額を何度も床にこすりつける虎狼の目は、嫌なくらい輝いていた。
壬氏は思わずのけぞり、後ろに控えている桃美を見た。
「……巳の一族は、主の命に従うことを最良の喜びとして教え込むと聞いたことがあります」
「最良の喜びと言われても」
「ここで月の君が西都に残ると言ってくだされば、僕は喜んで自分の首を掻っ切ります」
「掻っ切られても困る」
一体だれが片付けるというのだ。
「やめろ! そんな真似はしなくていい」
床に跪いている虎狼の横に鴟梟が座る。そして、虎狼と同じように頭を床にこすりつけた。
「この通りです。弟は戌西州を思って行動しただけです。首を切ろうなんて思わないでください」
壬氏は別に虎狼の首を切るとは言っていない。勝手に虎狼が言っているだけだ。
「鴟梟兄さん。僕は別になんともないです。これで西都が上手く回るのであれば、それでいいじゃないですか?」
虎狼の目には何の迷いもない。むしろ鴟梟が虎狼を庇うことに疑問を持っているようだ。
雀は座ったまま、その様子を眺めて目を細める。
「何を言っても無駄ですよぅ。生まれたときからそのように育てられただけですぅ。まず、根本となる考え方が違いすぎるんですよぅ」
「そんなわけがあるか! 一体、なんでこんなことのために命を投げ出すのかって言うんだ?」
「こんなこと? そんなことを言うのであれば、本当に後継者になるのは無理ですよぅ。どんなに弟が可哀そうだからって、弟の代わりに役目を果たそうとか考えるのは勝手ですぅ。でも、鴟梟さん、あなたは全く後継者としての才能がありません。いくら玉の名前を捨てて汚れた名前を名乗ろうと、悪ぶって裏の人脈を増やそうとしても、まったく似合いませんよぅ。いるだけ邪魔なので、大人しく表舞台で、傀儡でもやっていてください。それが、あなたの弟を守る一番まともな方法ですよぅ」
雀は一息に言うと、山羊の乳をもう一杯飲み始めた。
呆然とする鴟梟に対し、虎狼はまだ壬氏にきらきらとした目を向ける。
「虎狼さんも諦めてください。あなたの指令についてはわかりますけど、雀さんの指令と被ってしまったら雀さんはどんな手を使っても叩き潰すしかないんですよぅ?」
「雀さま。そんな大怪我で何ができると言うんですか? 後遺症も残り、序列はぐんと下がるでしょう?」
「それでも虎狼さんよりは上ですよぅ。雀さんは器用なので左手一本あれば大概のことはやれますからねぇ。ですが、雀さんは優しいので、虎狼さんのような若造にも折衷案を提示いたしましょう」
雀は壬氏に向けてにこりと笑う。
「鴟梟さんにも才能がありますよぅ。お父さまである玉鶯さまが欲しくて仕方がなかったもの、それを持っていますからねぇ」
雀はにいっと笑ったまま、鴟梟を見る。
「きっと立派なお人形さんとして、西都に立ってくれるでしょう」
壬氏はそっと桃美を見る。桃美は嫁の仕事について理解しているのか、何も言わずただ食べ散らかしたかすが卓の上に転がっているのを気にしているようだった。巳の一族の考えには深く立ち入らないようにしているのだろうか。
こんなことならもっと補充してくるんだったと壬氏は反省した。