三十、雀
幼い頃の雀はとても幸せな子どもだった。
父は貿易商で年を取ってから結婚した。綺麗な母を見て、年甲斐もなく一目惚れしたらしい。
すらりと伸びた背、象牙色の肌、流れるような曲線の美人。父でなくとも皆が目を奪われる。
母は異国人で言葉は拙いが働き者だ。父の手伝いをよくしている。雀はそんな二人に手をつないでもらって、教会に行くのが好きだった。休息日には三人でお祈りをし、外食して帰るのだ。
父が異国人である母と出会ったのは偶然だったらしい。隣の砂欧という国の船に母が乗っていた。嵐による難破で母は父の商船に救い出された。最初は言葉が通じず苦労した。父は砂欧の言葉が得意だったので母の面倒を色々見た。
父はすぐさま砂欧に帰してやろうとしたが、上手くいかなかった。難破した船には母の旦那と子が乗っていて死んでしまっていた。砂欧には身内がおらず、帰っても居場所がないという。
父は商人だったが、とても人が良かった。人望で商売が成り立っており、そんな父が天涯孤独の母を見捨てられるわけがない。さらに、四十を過ぎて独身だった父は年甲斐もなく、恋などというものをした。
「そのうち、親戚の子でも引き取るつもりでいたんだけどなあ」
翌年、雀が生まれた。女の子だが、子どもを持つと思っていなかった父は大喜びで、雀が生まれてから十日、店を通りかかった人々に菓子を配り続けたという。
雀という名は母がつけた。小さな小鳥の名で可愛いと父は言う。雀はすらりとした美人の母に似ず、ずんぐりした父によく似ていた。あまり大きくない目、潰れたような小さな鼻、背もそんなに大きくない。だが、あばたもえくぼ。父は親戚中に雀を自慢した。
雀の容姿は良いとは言えなかったが、頭は悪くなかった。生まれて一年経つ前に歩きだし、二年経つ頃にはべらべらとおしゃべりをするようになった。さらに、三年経つ頃にはどう成長するだろうかと父はにこにこして見ていた。
雀の頭は悪くなかった。
三つになる前に母が消えたことも、消える前の母の様子も覚えていたのだから。
ある日突然、母がいなくなった。父は狼狽えた。従業員は驚き、戸惑い、一体何が起きたのか大騒ぎになった。
似顔絵を何枚も描き、捜索する毎日。
何か事件に巻き込まれたのではないか。母を探す父だったが、そこから妙なことが少しずつ浮彫になる。
父の取引先の情報が漏れているようだった。確かな証拠はないが、他国からの輸入輸出で妙な流れが見えた。
父は人望で仕事を取っていたがそれだけでは商売は成り立たない。雀の頭の回転の良さは、父譲りなのだ。
父は些細な違和感を無視することはなかった。母が来てからの数年間と帳簿の流れを確認する。
とある国がつながった。
茘、砂欧の隣にある国だ。国交はないが、砂欧を挟んだ東側にある国だ。
母は砂欧人と言っていたが、その容姿は茘人に近い。
「ぜったい、ぜったい探してやるからねえ」
父は雀にそう言いながら、勉強をするんだよと教典を渡す。やることもない雀は教典を持って使用人に読んでもらった。
「母さんはなにか理由があるんだ。きっと仕方ないことだったんだよ」
優しく言う父を雀は初めて愚かだと思った。
数年後、父が母を見つけたかもしれないと言った。似顔絵にそっくりな人物を茘で見たと言う人がいたらしい。
父は喜び、船に乗って茘へと向かった。
あの時、雀は手を伸ばしておけばよかったと後悔した。母は死んだと思えば良かった。父と二人、仲良く生きていけばいい。
でも、その夢はかなわない。
父は帰ってこなかった。
親を失った子どもは一体どうなるだろうか。雀がもう少し大きかったら話は違っただろう。だが十にもならない娘には何も出来ない。
ひと月もしないうちに父の財産は奪われ無くなった。かろうじて父に恩義を感じていた使用人たちが残した数枚の金貨のみ、雀の手元に残った。
きっと正気の父であれば、雀にまともな後見人を選んでいただろう。母は綺麗だったが、父をどれだけ狂わせてしまったのだろうか。
「何かあったら教会に行きなさい」
雀は金貨を握りしめて教会へと向かう。
聖職者は比較的まともだった。雀を哀れに思い救貧院に入れようとした。だが、あれは駄目だと雀はわかっていた。数枚残された金貨は見つかり次第奪われてしまう。
雀の目標は決まっていた。
教会には東に教えを広めたいという先生がいた。そして、もうすぐ旅立つのだと聞いていた。
「私を連れて行ってください」
気難しそうな先生を前に雀は言った。
「子どもは連れて行けない」
先生は四十ほどの男だ。元は大きな教会の先生の護衛をやっていたとのことで、がっしりとした体つきをしている。異教徒だらけの外国に行く人なのだから、腕っぷしもなくてはいけないらしい。
雀は子どもだ。何の力もない。ただあるのは一つだけだ。
『神よ、私たちを見ていますか?』
雀は何度も読み聞かせられた教典の中身を覚えていた。何度も読み聞かせてもらった。一字一句間違えず全部声に出す。
「……」
「私も連れて行ってください」
何の価値もなければ誰も見てもらえない。
父にとって雀は娘だったから価値があった。
従業員にとって雀は雇い主の娘だったので価値があった。
なので雀は先生の布教にとって役に立つ手駒という価値を示した。なにより雀は母の娘だ。東よりの顔立ちをしている。
その後、しばらく先生はごねたが結局折れてくれたのでよかった。雀にはもう居場所がないということをわかっていたのかもしれない。
「死んでも責任は負えない」
「わかってます」
雀は先生と東へと向かった。しかし、布教活動をやりつつ移動するので速度は遅い。砂欧を横断し、茘に着くまで一年かかった。だが、茘を移動するのはとても大変だった。
道中、先生に色んな言語で書かれた教典をもらった。
「いいか、言葉だ。言葉を覚えろ。一字一句間違えるな。それで生死にかかわることもある」
先生はぶっきらぼうだが面倒見は良かった。ただ、道中何度か教会の教えに反する人たちに追いかけまわされたのでいらいらしていた。時に閉じ込められ、拷問まがいの扱いもされた。
「異教徒め。改宗するまで絶対許さんぞ」
先生の口ぐせだ。
どういう経緯があって異教徒だらけの茘にやって来たのか不思議だったが、雀にとっては関係ない。
教会の一団とはいえ、子どもの使用人の扱いはそれほど良くなかった。教会の一団自体、あまり資金があるわけではなかったので仕方ない。その時は、自分が何なのか思い出す。豪商の娘ではない。ただの使用人の餓鬼だ。
だから食べるために知恵を絞った。時に、町で出会った優しそうな奥方の傍で泣いて見せるとたまに施しをくれることもあった。道化みたいに笑わせるとおやつを分けてくれる子どももいた。たまに祝い事でご馳走が出ると、普段食べない分貯めるように食べた。
成り行きで遊行芸人の一行と一緒にいたとき、奇術を覚えた。堂々と練習を盗み見すると袋叩きにされるので、木の上に登って隠れた。これを金持ちの前でやると小銭を恵んでもらえるようになった。
先生に見つかると怒られたが、飯をまともに食べさせられないことはいくらか悔やんでいるので、貰った菓子や小銭は奪われることはなかった。
雀は麻雀と名前を変えた。茘人のふりをするほうが、生存確率は増えるという先生の教えだった。
「西都まで行くんだってな」
「はい」
先生と一団は茘の中でも大きな教会が建てられている町に滞在するらしい。そこを拠点として教えを広めるのだという。
「そこまで行こうか?」
「大丈夫です」
雀の年齢はもう十二になっていた。茘ではもうそろそろ適齢期の娘だ。普通なら危険だと思うだろう。だが、雀は髪を短く削るように切っていた。小さな目も潰れた鼻も決して美しいとは言えない。西都に行く商隊の小間使いとしてついていった。
西都に着いた時、もう年は明け十三になっていた。もうだいぶぼろぼろになった母の似顔絵を持って歩く。
雀は道化が性に合っているらしい。昼間はふざけた動きで奇術を見せて小銭を稼いで、夜は水路の中で寒さを凌いで眠った。しばらくそういう生活をするうちに、母の似顔絵に似た人物がいるという話を聞いた。
「確か一番大きなお屋敷にいたのを見たよ。まあ、一度っきりだがね」
その言葉を信じ、雀は屋敷へと向かった。
西都で一番大きな屋敷。到底、薄汚い雀の姿では入れない。だから、屋敷の前で誰か出てくるのを待った。
「兄さま、待ってください」
声が聞こえた。
門からしっかりした体つきの男が出てくる。男と称したがまだ年齢は十五を過ぎたくらいだろう。ただ、雀より綺麗な服を着ている。きりっとした眉は若い娘にもてるだろう。
次に出てきたのは、娘だ。さっきの声はこの娘だろう。適齢期の娘で目つきは鋭いが美しい顔をしていた。ふんだんに使った布は、かつて父が商売をしていたときに触れていた絹だろう。もう何年も触っていない。
「ほら! 早く来なさい! 兄さまがあんたの護衛をしてくださるのよ。感謝なさい! ああ、おじい様の頼みじゃなきゃ、絶対やらないのに」
気が強そうな娘のあとにもう一人、娘が続く。美しい赤い髪に翠玉の目を持った娘だ。さっきの娘と違い、目元が優しい。雀とそう変わらない年齢に思えたが、どうしてこうも違うのだろうか。
「銀、口を慎みなさい」
声が聞こえた。
もう何年も聞いていなかった声。
「葉さまは、後宮に上がられるのですよ。立場を考えなさい」
すらりと伸びた背、象牙色の肌、流れるような曲線を持った美女がそこにいた。
銀と呼ばれた娘が不機嫌になる。だが、雀はそんなことどうでもいい。ただ、かつてずっと一緒にいたはずの美女がどうしてあの場にいるのかが疑問だった。
「わかりました。母様」
銀が言った。
母様、雀は反芻する。数年かけてしっかり覚えた茘語。『母』という意味に違いなく、なぜ娘が言っているのかわからなかった。
父と出会う前に旦那と子がいたという話は聞いた。だが、船が難破して死んだと言っていたのではないのか。
「母上ー」
もう一つ声が増える。
子どもだ。雀よりも小さい。八つくらいの子ども。
「僕も連れて行ってください」
「いいえ。貴方は私とお勉強ですよ。お買い物はまた今度にしましょうね」
「えー」
子どもは母の足にすがりつく。
何を見せられているのか雀にはわからない。ただ、母の周りにいる子どもは皆雀よりもずっと綺麗だという現実だけがつきつけられる。
雀の頭は剃刀で削った坊主で、服はもう何年も同じ物を着古している。宿に泊まることもできず何日も水浴びもできていない垢まみれの汚い餓鬼。
思わず隠れていた塀から顔を出した。一歩、また一歩、母へと近づく。
「なんか汚いのがいる」
銀という娘が言った。明らかに汚物を見るような目、価値がないどころか、存在が許されない物を見る目だ。がらくたを鑑定させられたときの父の目を思い出す。
「銀、そんなの気にするな」
男が言った。気にするな、の中にどういう意味が含まれているのか雀には判断しづらい。
ただ、雀は美女を見た。
美女は銀と同じく雀を一瞥すると、何事もなかったかのように子どもを連れて屋敷へと戻った。
雀はどうすればいいのかわからなかった。
ただ雀は母の背を追いかけてきた。母が雀を見たら何か気づいてくれるはずだと思った。
でも、気付きすらしなかった。
雀が何年もかけて母を追いかけてきたのは、何のためだったか。
親子の感動の再会がしたかったか、いやそうじゃない。
母にとって、雀はどんな価値があったのか、それが知りたかった。
雀はその夜、屋敷へと忍び込んだ。
どうしても確かめなくてはいけなかった。雀は母にとってなんだったのか。
何年も異教徒から追い回されてきたおかげか、屋敷に忍び込むのは簡単だった。母はどこの部屋にいるのか、身を隠しながら移動した。
「ねずみは臭くて仕方ないな」
雀のすぐ後ろで誰かが言った。
慌てて振り返るが、その前にぐるりと抑え込まれる。
「浮浪児が物取りか? 指を切り落とされるぞ」
抑え込んだのは男だった。三十くらいだろうか、抑え込まれていて顔が見えない。
「物取りじゃありません」
雀はできるだけ丁寧な言い回しをした。先生に教えられたことだ。だが、それが逆効果だ。
「おまえ、異国人だな? 発音に癖がある」
雀は、ぎゅっと顔を地面に押し付けられる。
「まだ若いがどこの国だ? 砂欧か? いや、それよりもっと西? 何が目的だ?」
男は人目がつかないところへ雀を移動させる。
「は、母に会いに、来た」
雀はとぎれとぎれに口にした。
「母だと? そんな汚い身なりの餓鬼を持つ親がこの屋敷で働いているのか?」
嘲るような笑い。どう罵られても雀は気にしない。ただ、懐から汚れた似顔絵を差し出す。
「……これは?」
男の声が変わった。戸惑いが現れている。
雀を拘束する力が緩んだ。
「おまえは、あいつの子か?」
あいつとは誰かわからない。ただ、雀にできることはこの男が戸惑った隙を狙うしかない。ただ、逃げ出すのは難しい。どう隙を狙うかと言えば――。
「十三年前、母は遭難し父に助けられた。私はその時生まれた娘です」
「娘か。はは、そうか、そうだな。確かにいたな」
男は笑った。
「あの女が、不要だと捨てた娘だな」
不要という言葉が雀の頭に響いた。
「不要?」
「ああ。不要だ。この屋敷に戻るには、いらない子だろう。数年間、異国に潜伏する際の身分証明。それがおまえの存在価値だった」
だったという過去形。もう雀はいらないということか。
「連れて帰ることはできまい。役割を果たすためにはどうしてもいらない存在だ」
「いらない存在」
雀の頭をがんがんと殴るような衝撃。
わかっていたことだ。父と雀を置いて出て行ったときにもう雀はわかっていたはずだ。
「おまえの父親はどうした? 羽振りの良い商人なら、後妻でも貰っているだろう?」
いっそそんな父なら良かった。父は人が良く優しくそして愚鈍だった。
「母が茘にいると聞いて旅立ち、死にました。家は潰れました。私には何も残されず母を追いかけてきました」
「その似顔絵一つ持ってか?」
「はい」
「ふーん」
男は何かを考えているようだ。雀を値踏みするように見ている。
雀は思った。今、ここで雀の価値が決められようとしている。もし、何もなければおそらくいらないものとして処分される。
「私は母国語と茘語、砂欧語は話せます。あといくつかの言語ならわかります」
先生にもらった教典を思い出し、外国語をすらすらと口にする。
「算術もできます。一週間水だけで空腹をしのいだことがあります。痛みに強く、あと、手先が器用です」
雀は見様見真似の奇術を見せる。
なんだってする。生き残るため、存在価値を見出すため。
「……莫迦な奴だな。こっちのほうが、よほど素養があるじゃないか」
男がぼそりと口にした。
「わかった。しばらくおまえの有能さを見せてみろ。もし、価値があるようなら」
男はにやりと笑う。
「私の後継者にしてやろう」
雀にとって男は師匠となった。