二十九、いやな予感
翌日、馬車は行きとは違う道を通っていた。
「方向が違いますね?」
猫猫は雀に聞いた。今日は御者台にではなく一緒に幌馬車の中に入っている。小紅は、伯父と一緒に馬に乗っているのでいない。
「はい、山脈沿いを通ってます」
草原を突っ切ったほうが早いと思うが、なぜか遠回りをしている。
「どうして道を変えているんですか?」
「このまま真っすぐ行くと、鴟梟さんと同い年の叔父さんに出くわすんですよぅ。前に言ってませんでしたか、お二人の仲について?」
「あれですか? 真剣を用いた決闘になったとか?」
猫猫はふわっと聞いたことを思い出す。
「ええ。私たちよりも鴟梟さんの到着が遅かったのは、出くわすのを避けていたからでしょうねぇ。ある意味、あのお二人、誰よりも仲がよろしいので」
しみじみと雀が言った。
(めんどくせー野郎だ)
猫猫はまた周りを見た。草原というより岩砂漠。両側に崖がある。
「だからってこういう道ですか?」
「距離的には近道なんですよぅ。行きは馬車一つでしたから避けましたけど、大がかりな商隊はこちらの道を使いますね」
つまり、小規模だと使えない道、盗賊が出るのだと推測される。さすがに護衛を引きつれた今の状態を襲う莫迦な奴はいないだろう。
そう思うが、猫猫の不安はぬぐえない。
「普通の道がいいですね」
山脈沿いの道だ。馬車に乗っている身としては、揺れて気持ち悪い。
「違う迂回路はなかったんですか?」
「この季節だと北側の迂回路は雪が降っているんですよぅ。馬の消耗が激しく、野営する場合の燃料がたくさん必要になります」
総合的に判断してこの道がよいと決めたのなら仕方ない。
だが、雀の表情もほんの少し曇っていた。
「早く抜けてしまいたいですねぇ」
外を眺めるとひたすら不毛の大地が続いていた。
馬を消耗させないため、道中こまめに休憩がとられる。馬車のうちの一つは、馬用の飼料や水を運んでいた。桶に入れられた飼い葉を馬は美味しそうに食べる。小紅も餌をやっているようだ。手に何か白いものを持っている。
「馬に岩塩を与えるんですね」
「はい、お馬さんは汗をたくさんかきますからねぇ」
もったいないが必要な物なのだろう。遠い北に棲む巨大な鹿は人間の尿を好むと聞く。
「んー」
雀が微妙な顔をしながら、食事の準備をする。
「どうしました?」
「いえ、やっぱり不安要素があるのは落ちつきませんねぇ」
雀は干し肉をそいでいた小刀を器用にくるくる回す。
猫猫はその様子を見てなんとも言えない不安を感じる。
「雀さん、そういうこと、私の前で言ってもよろしいのですか?」
確認を取るように聞いた。
雀はきょとんとした顔になる。
「……そうですね、迂闊でした。でも、私の今の仕事は猫猫さんの身の安全なので」
雀にしては珍しい。猫猫にも焦りが見えるというのは只ならぬことではないだろうか。
「不安要素って取り除きたいんですよぅ」
「どんな不安要素ですか? 熊男はもう逃げられないでしょう?」
「ええ。四肢を縛り、両腕も折っています。武器を振り回すこともできませんが……」
雀は軽くまつ毛を伏せる。
「一番怖いのは、虎のように獰猛なのではなく、すっぽんのようにしつこい人なんですよね」
(まあ、わかる)
熊男は目を潰された恨みか何度も鴟梟の仕事を邪魔したようだし、今回捕まえなければまたちょっかいをかけてきただろう。
そして、今回、猫猫に対してもかなり恨みを持っているに違いない。
「さすがに逃げられないと思いますけど」
「そうですかねえ」
雀は小刀を置く。
だが、雀の直感は当たっていた。
その夜、岩砂漠を抜け切ることなく野営となる。狼の遠吠えが聞こえ、よく眠れない。寒いので上着を重ねさらに毛皮を羽織る。吐いた息が白く濁り、耳が切り裂かれるように痛い。草原ではないので天幕が上手く張れない。だから馬車の中で寝泊りしていた。
ひとまず眠ってしまえば朝になっているだろう。だが、睡魔はなかなか来ない。ようやく眠れそうな雰囲気になってきたところで瞼がちらついた。
寒さと眠さとだるさで瞼を開くのが億劫だが、なんとか目を開ける。幌馬車の幌が赤く染まっていた。
猫猫は慌てて毛皮を羽織り馬車の外を見る。
馬車が焼けて火が上がっている。馬が嘶き、男たちが火を消そうと躍起になっていた。火がついたのは飼い葉を載せた馬車だろう。燃え上がり方が尋常ではない。
皆が焼けた馬車に注目している。
なので猫猫の前に出て来た者に気づいていなかった。
「⁉」
どすんと脇腹に衝撃を受ける。痛みなど感じる間もなく、猫猫は馬車から落ちた。
「……このくそ女」
そこには熊男がいた。目を血走らせ、口から血が滴り落ちている。その前歯は数本なく、かわりに手足に引きちぎられた縄がついていた。
両腕はぶらんと下がっている。引きちぎられた縄の一本は腕に金属棒をくくりつけられている。腕を支えるというより、武器に等しい。
もう熊男には痛覚すらないように見える。
猫猫を叩き落としたのは、金属棒がついていないほうの腕だろう。そこには、痛めつけてやるという狙いが見えていた。
(殺される)
厚着していていくらか衝撃は吸収されたが痛みはある。立ち上がってすぐさま逃げなければならない。
熊男が近づいてくる。猫猫は後ずさりしながら立ち上がろうとするが、立てない。落ちた衝撃で体がまだしびれている。どうにかして走ってみなのところに逃げれば何とかなる。
だが、猫猫が逃げるより、熊男が殴りかかってくるほうが早い。
なんとか頭は守らなければと猫猫は顔をかばい、目を瞑る。
どれくらい時間が経っただろうか。一瞬のようであり、四半時経った気もする。
熊男の腕は猫猫に振りかざされることはなかった。
「すみません、猫猫さん」
雀の声がした。
目を開ける。
火が上がる馬車を背景に、熊男の影とその上に乗る雀の影が見える。熊男の首の辺りからしぶきが舞っている。
「私が目をはなした隙に」
雀が熊男から飛び降りるとともに、熊男の体が崩れ落ちる。
「汚い恰好ですみません。大事ありませんか?」
「……大丈夫です」
ほっとすればいいのか、驚けばいいのかわからない。雀の顔には返り血がべっとりくっついている。
同じ馬車に小紅が乗っていなくてよかった。伯父と一緒にいるはずだ。
「だから、さっさと片付けたほうがよかったのに」
「あ“あ”、ぞう“だな”」
くぐもった声がした。雀はすぐさま向き直り、振りかざされた拳を受け止める。いや、振りぬいたと言っていい。腕には動かせる支柱となる骨はもう残っていない。
折れた腕はさらにみしみしと骨が砕ける音をさせ、雀の体も衝撃を逃がすかの如く吹っ飛んだ。
歯が折れ口から血を流し、両腕が砕け力なくぶら下がり、首から血しぶきをあげる。
「……」
もうとうに死んでおかしくないのに、なぜ生きている。それこそ、首を落としても動く蛇のようなしぶとさからだろうか。
だが、雀はすぐさま猫猫の前に立つ。左手に小刀が握られている。
ぎゅっと歯を食いしばると、熊男の懐に入った。
「これで終わりにしてください」
雀は熊男に小刀を突き刺す。
(手慣れている……)
まるで肋骨の隙間に刺すように、中心からやや左よりの位置に小刀が埋まる。
そこに躊躇などと言うものはなくひたすら作業のように小刀は引き抜かれる。
それでも、熊男は立っていた。
「お“、お”れ“は”ま“た”し“な”な“……」
熊男が振りかぶり、雀が後ろに跳んだ時だった。
どすっと熊男の残った目に矢が刺さった。
「本当にしつこい奴だ」
どこか残念そうな男の声。鴟梟だ。鴟梟が手を上げると、部下たちが次々と矢を射る。
つんざくような熊男の叫びが聞こえる。もう何を言っているのかわからない。
ただ、その声が止まった時、独眼竜とか名乗っていた盗賊は、立ったまま息絶えていた。
「悪い、火事に気を取られているうちに」
鴟梟が猫猫に話しかけてくるが、猫猫が気になったのは雀のほうだった。
「猫猫さん、申し訳ありません」
雀は普段と変わらずの笑顔をしている。ただ気になったのは、小刀が左手に握られていたことだ。
「雀さん」
猫猫が雀の肩に手をかける。右肩がおかしい。そして、その下を見る。
暗くてよく見えない。だが黒く変色しているように見えた。猫猫は雀の右腕を握る。ぬるっとした感触がした。
「いやはや、すみません。雀さん、へましちゃいましたよぅ」
雀の目はうつろになっていた。一体いつこんな怪我をしたのか。猫猫が目を瞑っているのは一瞬だと思ったが、その中に何度も攻防があったのか。
腹からも血がにじんでいた。猫猫はすぐさま雀を馬車に運ぶ。
熊男も大概だが、雀も同じだ。
「お湯を沸かしてください! あと治療器具!」
「お、おう」
相手が鴟梟であろうと関係ない。
猫猫は雀の着物を脱がせた。
折れた腕は半分ちぎれかけ、腹部には打撲痕。どちらも激しいが、内臓を見るほうが優先だ。
だが、同時に、雀の体には彼女の歴史ともいえる無数の傷跡が残っていた。歴戦の戦士もかくやという傷跡もあれば、明らかに拷問らしきあともある。
「猫猫さん」
「しゃべらないでください!」
「しゃべらせてくださいよぅ……」
雀は左手で猫猫の頬を撫でる。
「私の右手、使えなくなるでしょう?」
「まだわかりません」
「いいえ、使えなくなります」
半分ちぎれている。
猫猫は図星を指摘されて悔しくなった。猫猫にはちぎれた四肢をつなぎ合わせる技術はない。ここで、つないだとしてもほとんど機能しなくなるか、もしくは腐り落ちる。
「もし使えるようなら、お腹よりも腕を優先してください」
「だめです、腹からです」
四肢より内臓のほうが命に係わる。先に処置するのは腹からだ。
「いえ。右手が使えないのなら、私の価値はありません。使えなくなったら終わりなんですよぅ」
「そんなことありません」
猫猫は手持ちの治療器具を出す。血止め、咳止め、風邪薬、ろくなものがない。
「雀さんがいないと困るので駄目です。何があろうと生きてください」
猫猫は早く治療器具を、お湯を、火をと鴟梟の到着を待つ。外では、火をつけられた馬車がまだ燃え続けていた。
「ふふふ、猫猫さん……私のこと好きですぅ?」
「はい、好きですから。しゃべらないでください」
これだけしゃべるのだから肺には異常なさそうだ。
「いいですねえ。猫猫さんからの愛の告白」
妙に雀の顔はあどけなく見える。
「一時的にでも人から好かれるのはいいことですよぅ」
「……」
猫猫は言い返す余裕もなく、雀の腹に指を滑らせる。肋骨が折れていて、内臓に突き刺さっている可能性が高い。
「猫猫さんにもいろんな事情がありますから、感情に流されないことは大切ですぅ。でも……」
雀は血で濡れた左手で猫猫の頬に触れる。
「それを言い訳にしちゃだめですよぅ」
ふふふと笑う、雀。そのまま目を瞑る。
一瞬、驚いたがまだ脈がある。
「おい、湯と治療器具だ」
猫猫は鴟梟から治療器具を受け取る。ぎゅっと切開用の小刀と消毒用の酒精を取り出す。
(何が言いたいのかわからないけど)
猫猫はぎゅっと唇を噛む。
(簡単には死なせない)
固く拳を握り、手術を始めることにした。