30 蜂蜜その弐
セクハラ回
屋敷というものは主の色に染まるといえる。
玉葉妃の翡翠宮は家庭的であり、梨花妃の水晶宮は高潔に洗練されていた。
そして、阿多妃の住まう柘榴宮は、実用的であった。
無駄のない造りは、過度の装飾を好まず、それがまた一種の品の良さを醸し出していた。
主たる阿多妃は、まさにそのような人といえよう。
無駄なものが削り取られたその姿は、華やかさも豊満さも愛らしさもない。しかし、その結果残ったのは、中性的な凛々しさと美しさだった。
(これで三十五ですか)
官服を着れば、若い文官と間違えるかもしれない。女官と宦官しかいない、この後宮ではどれだけ女官の羨望を集めていることだろう。壬氏とは、似て非なる魅力だった。
宴の席でどのような恰好をしていたのかは見ていないが、今着ている大袖と裳よりも乗馬用の胡服を着たほうが似合うだろうに。
猫猫は他二人の女官とともに宮を案内される。
侍女頭の風明は人当りのよいふくよかな美人で、てきぱきと屋敷の中を説明する。
年末の大掃除で人手が足りない、呼び出されたのはそんな理由だ。
(けがをしている?)
風明の左腕からちらりと包帯が巻かれてあるのが見えた。
猫猫も同じように、左腕に包帯を巻いている。古い傷跡をみられるたび、遠慮した視線をおくられるのも疲れたからだ。
宦官に力仕事を任せ、調度や書物の虫干しをするだけで一日が終わった。
後宮で一番長くいるだけあって、翡翠宮よりも荷物が多い。
翡翠宮には戻らず、柘榴宮の大部屋で残り二人の下女とともに雑魚寝した。寒いからと与えられた獣の毛皮はとても暖かかった。
(なにをしろともいわれていない)
猫猫は侍女頭のいうとおり、片付けに没頭するだけであった。
ふくよかな侍女頭がうれしそうに褒めてくれるので、まったくさぼることはできなかった。
楽しそうに仕事をする、良妻というならばこのような女をいうのだろう。それが風明という侍女であった。
久しぶりにちゃんと働いた気がする。
猫のように丸くなるなり、しばらくもたたず寝息がもれた。
(本当に毒殺騒ぎの黒幕はいるのだろうか?)
翡翠宮の侍女たちも働き者であるが、柘榴宮の侍女たちも有能だと言わざるを得ない。
皆が皆、阿多妃を慕っており、ゆえに行き届いた仕事を行うのである。
特に侍女頭の風明には感嘆する。
侍女としての枠にとらわれず、埃を見つけたら自ら雑巾を持って掃除するのである。
到底、上級妃に仕える侍女頭とは思えない。働きものの紅娘でさえ、ほかの侍女に任せるというのに。
(口先だけの水晶宮の侍女に見せてやりたい)
どうにも、梨花妃は侍女に恵まれないらしく、彼女の周りに無駄に侍女が多いのは、ひとりひとりの仕事量が少ないことが言える。それなのに、口だけは達者だから困り者だ。
まあ、それを一手に引き受けているのも、上に立つものの才ともいえるのだが。
しかし、忠誠心が強いということは、毒殺をおこなう理由にもつながる。
四夫人の座を下ろされようとしている理由は、高官が自分の娘を入内させようとしているからだ。
下ろされるとすれば、阿多妃になるが、他の上級妃の座が空けばどうなるだろう。
玉葉妃や梨花妃はともかく、おそらく里樹妃のもとに皇帝は通っていないだろう。
(むちむちが好きだから)
妃としての役割を里樹妃もはたしていない。
まだ、幼い里樹妃にとってもそれが望ましいことだろう。結婚適齢年齢に達しているとはいえ、もし、数え十四で妊娠し、出産となるといくらか身体に負担が大きい。交渉自体もきついものであろう。まあ、この点については、先帝時代はどうであったかと考えるのはえぐいのでやめておく。
落とすなら里樹妃を狙うのはおかしい話ではない。
台所の棚を整理しながら、猫猫は思考をめぐらしていた。
棚を見ると、小さな壺がたくさん並んでいた。甘い匂いが鼻につく。
「これはどうしましょう?」
「ああ、それね。棚を拭いて元の位置に戻しておいて頂戴」
台所を一緒に掃除していた侍女に聞く。昨日、一緒に手伝いで来た下女はそれぞれ風呂と居間を掃除しているはずだ。
「全部、はちみつですか」
「ええ。風明さまのご実家は養蜂をやっているらしいの」
「どうりで」
はちみつは贅沢品である。一種類あればいいところを、いくつもそろえてあるのはそういうことか。中身を確かめてみると、琥珀色、赤茶色、褐色と色が違う。とれる花の種類が違うと、味も違う。
(はて?)
はちみつといえば、なにか引っ掛かるところがある。
ここ最近、聞いたような気がしたが。
「終わったら、二階の欄干拭いて行ってくれない?よく、掃除の子忘れちゃうの」
「わかりました」
猫猫ははちみつを片付けると、雑巾を持って二階に上がった。
(はちみつ、はちみつ)
欄干の柱を一本一本丁寧に拭きながら、頭の中を整理する。
最近、あったことをおさらいする。
(!?)
二階から、外はよく見える。隠れたつもりで、柘榴宮をうかがう人物が見える。
(里樹妃?)
毒見の娘を一人だけ連れて、なぜこんなところに来ているのか。
まったく、猫猫には理解できなかった。
(はちみつ……)
記憶の中に数日前の茶会がよみがえる。
なぜ、里樹妃ははちみつが苦手なのだろう。
ただ、そんなことが妙に気になった。
翡翠宮の応接間を借り、猫猫は壬氏に柘榴宮での報告を行っていた。
「と、いうことでまったくわかりませんでした」
わからないものは、わからない。
猫猫は自分を過小評価しないが、過大評価もしない。
正直に麗しき宦官に伝えた。
三日間、柘榴宮に入った結果である。
壬氏は長椅子に優雅に寝そべり、異国の甘い香りのする茶を楽しんでいた。檸檬を絞り入れ、はちみつをかき混ぜている。
「そうか、そうだよな」
「ええ。そのとおりです」
ここ最近、美しい宦官は、以前ほどきらきらしなくなったのはいいが、妙に口調が軽い気がする。声色に甘さが消え、少年のように感じられるせいかもしれない。
猫猫になにを求めているのか知らないが、本人はいたって普通の薬屋である。間諜の真似事などできるわけない。
「では、質問をかえよう。もし、とある特別な方法で外部と連絡をとる人物がいるとすれば誰だと思う?」
(また、いやな質問の仕方を)
猫猫は根拠のない考えを口に出すのは好きではない。
憶測でものをいうなという教えからだ。
猫猫は、眼を瞑り、大きく息をはく。心を落ち着けないと、また、天女のような青年を潰れた蛙でも見るような目で見てしまうかもしれない。
あいかわらず高順は必死に目でなにかを訴えている。
「可能性の話ですが、あるとすれば侍女頭の風明さまではないかと」
「根拠は?」
「左腕に包帯が巻かれていました。一度、巻きなおすところを見ると、火傷のあとが見えました」
以前、薬液を浸した木簡の事件である。なにか意味があるとすれば、暗号だろうと気付いていたが、口にはださなかった。
袖の燃えた衣に木簡が包まれていたことから、腕に火傷を負っている可能性は考えられた。いうまでもなく、壬氏はそれを調べていたのだろう。そして、猫猫に間諜まがいのことをさせたのだろう。
正直、あのおだやかな侍女頭が何かをやっているようには見えなかったのだが、そんなもの猫猫の主観でしかない。客観的にものをみなければ、正しいことにはたどり着かない。
「まあ、及第点だな」
壬氏はふと長卓に置いてある小瓶に目をやった。つぎに、猫猫のほうを向き、甘露のような笑みを浮かべる。
笑みの一枚皮の下に蠢くなにかを感じる。
猫猫は瞬時に全身が総毛だった。
ものすごく嫌な予感がした。
小瓶を持ち、猫猫のほうに向かってくる。
「いい子にはご褒美をあげないとね」
「遠慮します」
「遠慮しなくてもいいんだけど」
「けっこうですので、他のかたに当たってください」
いい加減にしろと、射殺さんばかりの視線を向けるのだが、ひるむ様子はない。
じりじりと距離を詰められる。半歩ずつ下がった結果、背中に壁が当たる。
高順に助けを求めたが、寡黙な従者は窓辺に座り、空飛ぶ小鳥を眺めていた。妙に決まっているので小憎らしい。
(あとで下剤盛ってやる)
壬氏は誰もが蕩けるような笑みを浮かべたまま、小瓶の中に指を入れる。たっぷりと指先にはちみつがついている。
嫌がらせにもはなはだしい。
「甘いものは嫌いなのか?」
「辛党ですので」
「でも、食べられるだろ?」
やめる気はないらしく、指先を猫猫の口に近づけてくる。
にらみつける猫猫の目をうっとりした顔で見ている。
(そういえば、そういう人間だった)
ここで命令と割り切って口に含むか、それとも尊厳を保つためにどうにかして逃げ出すか。
(せめて鳥兜の蜜なら、割り切れたのに)
毒花の蜜はやはり毒である。蜂蜜に混ざり、食中毒をおこすのだ。
あれっと、猫猫の頭でなにかがつながった。
思考を整理したいところだったが、変態が執拗に指をさしだしてくるので何も考えられない。
指先が口の中に入れられそうになったとき。
「うちの侍女に何してるの」
不機嫌な顔をした玉葉妃が立っていた。
後ろでは、頭を抱えた紅娘がいる。