十五、逃亡
猫猫は翌日、鴟梟の看病と小紅の面倒を看ることで終わってしまった。というより、それ以外やることはなかった。小紅の面倒と言っても、出された食事を分けたり、食べたあとの歯みがきや体の水拭きをしてやっているくらいだ。それ以外は――。
「ねえ、これはなんとよむの?」
小紅は古びた典を開き、鴟梟の膝の上に乗っている。
「『廟』と読む。小紅がいつもお参りしている場所だ」
「これは?」
「これはなー」
伯父さんと姪っ子の関係はすこぶる良好らしい。引っ込み思案に見えた小紅だが、伯父さんにはよく懐いている。伯父さんは伯父さんで、狭い部屋にいる中で姪っ子が暇にならないよう工夫していた。
「ようし。次はおはじきをするか」
「うん!」
木の実や小石を床に並べて、弾いて遊ぶ。ささいな遊戯だが、小紅は楽しそうだ。
(親と離れたことはそんなに苦じゃないのか)
猫猫はやることはないなりに、色々考えていた。食事を持ってくるのはいつも同じ男で、護衛も兼ねている。水も多めに持ってきてくれた。扱いとしては監禁に近いが、鴟梟の態度を見ると身をひそめるに近い。食事を貰うときに、一緒に紙を渡される。猫猫に見せることはなく鴟梟が読むとそのまま蝋燭の火で燃やされる。
猫猫と小紅がいなくなったことで大騒ぎになっている可能性は高いが、周りの雰囲気はそれほど変わらない。少なくとも、宿場町では騒ぎになっていない。
もし、変人軍師が猫猫の不在に気づいたら、宿場町まで騒ぎまくっていそうだ。なので、猫猫を連れてきた雀は雀なりに何か処理をしているのだろう。
鴟梟は小紅が疲れて眠るまで根気よく遊んでやる。小紅は、旅の話を聞くのが好きなようで、子守唄の代わりに鴟梟の昔話を聞いては眠る。ぐっすりと眠ったところで、鴟梟は猫猫を見る。
「おまえさんは色々、気付いているようだけど、俺に何か質問はないのか?」
「質問したところで、答えてくれるわけでもないですし、答えてくれたとして聞かなきゃよかったという話も多いですから」
大体猫猫の元には聞かなくていいことが舞い込みすぎている。
「じゃあ、一個だけ教えてやる。明日の朝で俺はこの家を出る。そして、おまえさんは夕方には解放される」
「何よりの朗報です」
鴟梟が朝に出て、猫猫は夕方には解放される。つまり、その間に問題となることをやるということか。
(どっかに襲撃とかやめてくれよ)
襲撃する際、壬氏に知られては困るから猫猫を一時隔離した。そう考えることもできるが。
(襲撃ではない気がする)
だとすれば、もっときな臭さを感じる。
「その際、俺は別行動するので小紅を代わりに看てもらいたいと言ったら断るか?」
「……断れない状況でいうのは頼みとは言えません」
どっちみちそのつもりの猫猫だが、一言文句を言う位やってもいいはずだ。
しかし、鴟梟という男は父親である玉鶯と全然似ていない。似ているのは顔立ちと妙な豪快さくらいだ。豪快さに至っては玉鶯よりも自然に思える。
玉鶯の豪快さは生来の性質ではなく、後天的になろうとした結果。
鴟梟は元々生まれ持った物。
そう猫猫は感じた。
そんな豪快な男がこそこそ部屋に閉じこもってまでして隠そうとすること。猫猫は半分予想がつきながら確認するともれなく危険だとわかっているので聞かない。
「ともかく西都までしっかり送り届けてくれるのであれば小紅さまと一緒に本邸まで帰ります。そこで何を聞かれてもわからないのでどうすればいいでしょうか?」
「あったまんま話せばいい。おまえさんは怪我人だった俺を治療した。そのまま治療が必要だったからついてきてもらった。そんだけだ」
「小紅さまについては?」
「俺に懐いているから心配してついてきたとでも言っておけ」
いや、きつすぎる言い訳だ。
(壬氏が言い訳に納得するか?)
なんだろう、変に面倒くさくなりそうな気がしてならない。
とはいえ、明日で戻れるのなら、猫猫にとっても問題ない。さっさと寝て、明日の朝を待つことにした。
翌朝、がさがさという物音で猫猫は起きた。
数人の男と、一人の女が立っている。皆、鏢師のような恰好をしている。鏢師、金銭や宝物、または重要人物の護衛を生業とする者たちのことだ。
「起きたか?」
鴟梟もまた似たような恰好をしていた。無頼漢から鏢師に変わったところであまり雰囲気に変化はない。ただ、ぴしっと背筋を伸ばした姿は、腹をえぐった傷があるとは思えなかった。
「背筋を伸ばすと、傷口が開くかもしれません」
「さらしをぎゅっと巻いているから、多少の出血なら大丈夫だろう?」
動くこと前提の言い方に猫猫はむっとするが、これ以上は責任持てない。
猫猫は寝ぼけた小紅を起こす。目が覚めたときに伯父さんがいなくて泣かれても困るからだ。
ぼんやり眼の子どもに無理やり手を振らせていると、もう一人鏢師の姿をした男がやってくる。
ごにょごにょと鏢師の女に耳打ちをする。
「……急ぎましょうか? ここに感づかれた模様です」
低く落ち着いた声だった。女性は猫猫の前で膝を付く。
「服を持ったまま移動をお願いします。申し訳ありませんが一緒に移動していただきます」
「……わかりました」
猫猫は話を聞くしかない。
何食わぬ顔で外に出ると、用意された馬車に乗る。鏢師の鏢車ではなく、普通の幌馬車だ。猫猫に渡された服は、上質のものだ。小紅もそろいで、猫猫は先に小紅に着替えさせる。
「どこへ移動しますか?」
「ご安心ください。私が何であろうとあなた方の命はお守りします」
返答になっていない。ただ、幌馬車の中にいるのが女性鏢師だけであることを考えると、猫猫たちに配慮したのだろう。
「鴟梟さまとは別の道を通ります。上手く隠れることができれば、そのまま西都へ戻ります」
「わかりました」
幌のかかった馬車は外が見えない。小紅は不安で猫猫に引っ付いている。女性鏢師はあぐらをかいて手に持った曲刀を放さない。
年齢は三十代くらいだろうか。ぴんとはった背筋と鋭いまなざしをしている。人の顔を覚えるのが苦手な猫猫だが、たぶん初対面だろう。
しばし、猫猫はこの女性に命を預けるほかない。
馬車は二時ほど走っただろうか。速度としては速くない。だが、もうそろそろ馬も疲れてきている。二頭立てとはいえ、幌馬車は重い。普通なら一度くらい休ませてもいい頃だ。なのにまだ休む様子がないのは――。
誰かに追われている可能性があるということだろうか。
馬車ががたんと止まる。
「どうした?」
女性鏢師が御者に訊ねる。
「次の村で一度休ませても。水を飲ませろとあいつらが睨んでくるんですよ」
御者の言うあいつらは馬のことだった。
「わかった」
女性鏢師は荷台に戻り、次の村で休むことを告げる。役割としては、故郷へ出戻りする母子という設定だ。
「ちょっと無理ありませんか?」
猫猫は小紅を見る。全く似ていない上、さすがにこんな大きな子どもを持っている年齢ではない。
「戌西州では、中央よりも若くして子を産むことは珍しくありません。それに、母子にしておけば子どもが似ていなくても、父親似だと言い張ればいいです」
そして、女性鏢師はすかさず化粧道具を取り出す。
「あと女は化粧である程度、誤魔化しが利くものです」
慣れた手つきで猫猫を画布のように塗りたくっていく。白粉は真っ白というより、赤みがかったもので、より現地の人間に近い肌色をしていた。
「……質問ですが、このまま西都に戻ったほうがいいのではないでしょうか? 私たちが帰ったとして大した影響を及ばさないかと思いますが」
猫猫を監禁してまで隠したがることは何なのか気になるが、猫猫には何のことか予想もつかない。つかないので壬氏に喋るということもない。
同時に口止めとして殺されることはないというのは雀の配慮だろうか。
「今、あなたがたを帰さない理由としては、鴟梟さまのためではなく、月の君のためです」
(壬氏のため?)
なんらわからないまま、猫猫は流されるしかなかった。