十三、雀の思惑
塀をよじ登り、雀がすたっと猫猫の前に着地する。
「ほうほう、こんな風になっていたとは」
「よくわかりましたね?」
猫猫は周りを見る。そんなに大声でしゃべっていないつもりだったが、周りに声が漏れていただろうか。
「猫猫さんが仕事を放置して気分転換に行くとは思えませんからねえ。ましてや、それなりに重要な書類を置いたままで」
雀は木彫りの梟を指でつまんでいる。
「鴟梟の大哥が本邸に来ていると聞いていましたが、二時ほど前から誰も見かけていません。なおかつ、妙な空気が本邸と公所で漂っていたんですよね」
怖いほど鋭い。なんでこうも雀は有能なのだろうか。
しかし、今貧血で意識がもうろうとしているとはいえ、鴟梟の大哥とはよく言ったものだ。
「猫猫さんすごい恰好ですね。これでは、湯あみの準備をせねばなりません」
「そんなことより怪我人とこの子を」
猫猫は気を失ったままの小紅を指す。
「はいはい」
雀が塀を乗り越えやってくると共に、隠し扉を開ける。中から数人の男たちがやってきた。どこかで見たことがある顔だ。本邸で働いているところを見たことがある。
男たちは小紅を抱き上げ、鴟梟を抱えようとしている。
「さっ、猫猫さんはこちらへ。この上着を着てください」
血まみれでは目立つからと、雀は羽織っていた服をかける。別にいつも通りそつがない態度だったが――。
(なんだろう?)
何かが引っかかっていた。
大したことではない。ほんの少し、雀が足早になっていると感じた。雀は猫猫の護衛など受け持っているのかもしれないが、ここで一番気遣う相手は誰だろうか。怪我人の鴟梟だと思った。
「……」
「どうしたんです? 立ち止まって」
「雀さん」
猫猫はそっと後ろを振り返る。鴟梟は二人の男に担がれていた。
頭に警鐘が鳴り響く。
(絶対に言わないほうがいい)
何もかも気づかなかったことにして、そのままのんびり湯あみでもすればいい。それが一番得だ。
でも――。
(命を狙ったのが中央の可能性もあり)
(壬氏の思惑とは考えづらい)
猫猫は、口を開いていた。
「雀さん」
「なんですか猫猫さん?」
雀はいつも通りにこにこと笑う。
「鴟梟さまをどこに連れて行く気ですか?」
「……ふふふ、猫猫さん」
雀は猫猫の肩を抱く手に力を入れた。
「困りましたねぇ。こんなときでも勘がいいんですから」
うっすら開いた雀の目は、笑っているようには見えなかった。
(ここはどこだろうな?)
猫猫は窓のない部屋で、蝋燭の火を見つめていた。半日前、雀に連れて来られた場所で、横には小紅が眠っている。二間続きの部屋で、隣の部屋には鴟梟が眠っている。
本邸と公所の間にある隠し通路。猫猫が入った入口があれば出口もあった。そこから外に連れ出された猫猫は雀の言う通りについてきた。馬車に乗せられ目隠しをさせられ、どこか知らないところに連れて来られた。
閉め切った部屋の外には見張りがいる。雀は猫猫に「大人しくしてくださいね」とお願いをすると、どこかへ行って戻ってこない。ただ、着替えも用意してもらい、食事もくれた。扱いとしては乱暴ではない。
(なんか前にもあったなあ)
猫猫はまた連れ去られてしまったな、と思いつつ水がわりに酸味の強い葡萄酒を飲む。雀は猫猫の好みをよくわかっている。酒のつまみに、魚の干物も置いてあった。
さらに、桶やさらし、痛み止め、化膿止めの薬草などが置いてある。隣の部屋に鴟梟がいるということは、治療しろといっているのだろうか。
(完全にお見通しだ)
猫猫は逃げる気すら失せてしまう。なんでも用意周到な雀は、猫猫の思惑もお見通しなので逃げようにも逃げられないだろう。
(一体何がやりたいのだろうか?)
猫猫は呆れつつ、一緒に連れて来られた小紅を見る。彼女は気絶から目覚めると散々泣き散らし、そしてまた眠った。さっきまで泣きわめいていたので、猫猫はまだ耳が痛い。本気で酒を飲むしかやってられないが、一旦落ち着いて情報を整理するだけの気持ちになった。
まず、雀の思惑については保留しておこう。色々ありすぎてこんがらがってくる。
(まずここはどこかだ)
猫猫は静かになったところで目を瞑る。閉め切っているが外の音が聞こえた。雑踏と話し声。
(街中。少なくとも離れた一軒家ではないみたいだ)
馬車に乗っていた時間はどのくらいだったろうか。そんなに長くはないが、短くもない。ただ、西都を出るのには十分な距離を走っていた。あえて猫猫をかく乱するために遠回りをしない限り、近隣の町に移動したのだろう。何よりかく乱より優先事項があるとすれば、わざわざ遠回りするとは思えない。
(鴟梟をさらうのが目的だったみたいだけど)
さらしや薬草を置いていったのを見ると、鴟梟を殺そうという意思は感じられなかった。しかし、どうして猫猫まで連れてきたのか。
他に部屋にあるのはなぜか使い古された本だった。見慣れぬ紋様が描かれている。
(見たことあるな)
どこで見たのだろうか、と唸りつつ中を開く。茘の言葉で書かれているが教本のようだ。道徳や偉人の教えのようなものが書かれている。
(典か)
宗教的な教えを記した本。宗教と結びつけば、紋様に見覚えがある理由がわかった。
前に雀に妙な異国語を教えてもらった礼拝堂に似たような紋様があった。
それではこの典は、雀の私物だろうか。
(いや、信心深くは全然見えないんだけど)
むしろお供え物の餅をつまみ食いするように見える。
ぺらぺらめくると、いくつかの言語で書かれてあった。最初は茘語だが、後ろには西方の言葉や猫猫が知らぬ文字もある。
『神よ、私たちを見ていますか?』
猫猫は雀に覚えるように言われた言葉を口に出す。雀はこの言葉をこの典から覚えたのだろうか。
(今はあんまり関係ないか)
猫猫は本を置くと、魚の干物を手に取った。蝋燭の火で炙り、思い切りかぶりつく。
(蝋燭なんて贅沢だなあ。まあ魚油だったら臭くてたまらないけど……、ん?)
猫猫はふと外の雑踏に耳を傾ける。がやがやうるさい中で、必死に何を話しているのか聞き取ろうとする。だが聞き取れない。それはそうだ。
(茘語じゃない!)
異国人が外にいる。
そして、猫猫は鼻を鳴らす。外の空気はわからないがかすかに潮の香りが漂っている気がする。
西都の近隣の町で、異国人がいる、潮の香りがする町と言えば――。
「南の宿場町か」
「……正解だ」
猫猫はいきなり背後から声が聞こえて驚いた。
後ろには、わき腹を押さえた鴟梟が立っていた。