十一、ある男の名前
異国の娘の話を壬氏に報告すると呆れていた。どんな病かと思いきや、ただのむし歯ともなれば肩をがっくり落としたくもなる。
くだらない報告なので言伝でも良いかと思ったが、壬氏に呼ばれると猫猫も行かなくてはいけなかった。
ただ、くだらない報告にまじえてたわいない会話をいくつか。ほんの少し安堵の表情で顔をほころばせる壬氏を見ると、猫猫は自分の存在がいかなものかと考えさせられるときがある。
西都での生活ももう半年をこえた。
そんな中で、猫猫たちにつけられる使用人はだいぶ固定されるようになった。
「猫猫さま。言われた材料をお持ちしました」
まだ元服前の男子だ。男児というには大きく、男というには小さい。年齢は十三と聞いているが猫猫よりも拳一つ分背が低い。成長は遅いほうだろう。
体は小さいが控え目で察しがいい。男性優位の戌西州では珍しい型だ。たぶん、それを見越して配属されたのだろうか。小姓として使い勝手がいい。
「ありがとうございます」
猫猫はもらった材料を仕分けし、駄賃がわりに乾燥果実を渡そうとしたが――。
「いえ、お給金はいただいているので受け取れません」
(いやあ、しっかりしている)
猫猫は感心しつつ、都の緑青館にいる悪餓鬼を思い出した。
趙迂と大体同じ年ごろだ。あの餓鬼も少しはまともになってくれたらと思うが、性格というのはなかなか変えられるものではない。
(しばらくぶりに文でも書くか)
そう考えていると、医務室の前で音がした。
誰か来たかと思って外を見ると、羅半兄がいた。背負っていた籠を下ろす。
「おやお帰りで」
猫猫が羅半兄に近づく。
羅半兄は忙しい。色んなところを毎度耕しに行っては戻ってくる。
籠の中を見てみると貧相な甘藷が入っていた。
「芋って言うより根っこだろ?」
「一応食べられますよ、一応」
蒸かして皮ごと食べるのならありだろう。
「こっちは豊作」
馬鈴薯を投げてくる羅半兄。
「馬鈴薯のほうが合ってるんですかねえ」
「たぶんな。飛蝗がいなけりゃ収穫はもっといけたんだけど、まあこんなもんだろ」
捕らぬ狸の皮算用はしないほうがいい。
「早速ですが、食べますか?」
「んー、甘藷はもうちょっと置いてくれ。収穫してすぐだと美味くない。半月ほど寝かせたほうが甘くなるんだ」
「こんな根っこでも?」
「少しでもましな味のほうがいいだろ」
ごもっともだ。
「あ、あの……」
小姓がおずおずと前に出る。
「なんだ? 新入りか?」
「はい。遅ればせながら、自己紹介をさせていただいてもよろしいでしょうか」
羅半兄とは入れ違いになることが多かった。腰が低いこの小姓はちゃんと挨拶がしておきたいのだろう。
「自己紹介か。うん、いい心がけだ」
やたら目が輝いている羅半兄。まるで千載一遇の機会を与えられたかのような表情だ。
「はい。僕は俊杰と申します。よくどこにでもある名前だと言われるので覚えやすいかと」
猫猫も確か聞いていた。だがいつも通り忘れてしまっていたので、今日は覚えておこう。
「……」
羅半兄が顔を引きつらせている。
「確か姓は」
「はい。『漢』です。これもよくある姓で、今いらっしゃっている軍師さまも同じ姓だと伺っています」
妙におずおずとした動きの小姓、もとい俊杰。
「漢はほんとどこにでもある姓だかんな。俺も人のことは言えねえけど」
いつの間にかやってきた李白が会話に加わる。馬鈴薯の入った籠を持っていることから、羅半兄の手伝いをしていたのだろう。
「そうさねえ。確かにどこにでもある名前だね。私も知り合いに三人くらいいるよ」
やぶ医者もやってきた。籠の中の馬鈴薯を見て、何か点心に使えないか見ている。
「そうなんです。心配なのですが、僕と同じ名前のかたはいらっしゃらないでしょうか? 前に働いていたところでは、名前が同じで気に食わないといびられたもので」
「へえ。小さい人もいるもんだなあ。どうしたんだ。その時は?」
李白は馬鈴薯の籠を下ろす。
「はい、長男なので伯雲と呼ばれていました」
「これまた無難な字を」
「そうなんです。本当にどこにでもあるような名前でして」
「……」
羅半兄の顔がまた険しくなる。
「あっ、もし誰か名前がかぶるようなことがあれば、僕の名前なんて忘れていいです。何か適当に呼んでいただけたらそれで問題ありません」
俊杰は笑って見せる。
体の小ささから苦労しているのがわかった。
「ここで働かせていただけるだけでとても嬉しいんです。皆さん親切ですし。この大変な時期にしっかりお給金を払ってくださる場所はありません。改名くらい問題ありませんので」
「苦労しているんだねえ。安心していいんだよ。別に名前を変えようなんて悪い人はここにはいないさ。ほら、点心食べるかい?」
やぶ医者が草餅を渡す。俊杰は断ったが、やぶ医者はなんとも断りにくい空気を醸し出す。折れたのは俊杰のほうだった。
「ありがとうございます。あ、あの、今お腹がすいていないので、弟たちに持ち帰ってもいいでしょうか?」
「おや、兄弟がいるんだね。もっと持ってお行き」
(やぶ医者、食糧は無限じゃないぞ)
とは言え、止める雰囲気でもないのでそのままにしておく。
羅半兄が俯いていた。
「どうしました、羅半兄?」
「あっ、すみません。自分だけ自己紹介をしてしまって。あ、あの、お名前は?」
羅半兄に名前を訊ねる俊杰。羅半兄にとって、ここ半年、ずっと待っていた言葉ではなかろうか。
「……羅半兄」
羅半兄の口からなんか聞こえた。
「ええっと、どうしました?」
羅半兄の口ぐせは『羅半兄じゃねえ!』ではなかっただろうか。
「俺の名前は、羅半兄だ」
羅半兄はそういうと、背中を向けて去って行った。
「羅半兄さま、ですか?」
俊杰も混乱しているが、もう兄がそう言っているので仕方ないだろう。
羅半兄の後ろ姿は今までで一番哀愁を漂わせていた。
芋の収穫が始まって数日、他にも色々な作物の収穫が行われていた。植物の多くは冬を前に種を残すことが多い。中央でも稲刈りの季節だろう。
農民にとって繁忙期だが、忙しいのは他にも色々ある。
「猫猫さん、猫猫さん、これちょっとお手伝いお願いしますねぇ」
雀が猫猫の部屋にやってきて、どどんと書類を置く。何かと思えば作物の収穫量を書いたものだ。
「雀さん、雀さん、なぜ私のところにこんなものが?」
「はい。月の君の命でして、『誰か計算に強いものはいないか? さすがに量が多すぎる』と言ってらしたのでいただいてきました。こういう時、羅半兄の弟君がいれば便利だそうですけどいないので」
羅半兄の弟になると羅半になるのだが、そういう細かいつっこみは面倒くさいので放棄しよう。
「代わりに私に来たということですけど、私も他にやることがあるのですが?」
「薬草の栽培ですか? それとも生薬を混ぜ合わせてこねて丸める作業ですか? そういうのは猫猫さんの代わりにいくらでも人材がいます。それこそ、猫猫さんしかできないような傷口の縫合や、原因不明の病の診療、もしくは手術などでない限りあくせく動く必要ないと思いますけどねぇ」
「とか言いつつ、人に書類押し付けているじゃないですか?」
「できる人がいないので仕方ないのですよぅ。数字を任せられる人はある程度信頼がないといけませんからねぇ」
なんだかそう言われると、何も言えなくなるので大人しく書類を見る。
「前年度の作物の量と合わせて見ると面白いですよぅ」
雀がこれまたどっさりと書物を置いてくれる。
「つまり去年と比べてどのくらい作物が足りないか配慮しつつ、計算しろと」
「猫猫さんは察しがいいので助かりますね」
雀はぺろっと舌を出す。
「では、私は外にいる皆さまに指示をしておきますので」
猫猫は雀に置いていかれた書類を見ながら頭を抱える。
たとえ他の人ができようとも猫猫は生薬と戯れて仕事がしたいというのに、人材不足というのは困る。
ともかく与えられた仕事はやらねばと書類を見た。作物を生薬の名前に置き換えたらやる気になるかと思ったが、無理だった。
小麦で壊滅的な収穫量が目立つ。羅半兄が作った芋はもう焼石に水の量で、都から持ってきた備蓄や救援物資などでなんとか誤魔化すとして。
「八割くらいか」
腹八分目という言葉がある。もし、普段十全に食べている人間が八割の飯で満足するかと言えばそんなわけがない。さらに、常に十全どころか腹半分ほどでなんとか生きている貧しい者もいる。
もし、数十万の意識を一つにできれば八割の食糧でもなんとか生きていけるだろう。だが、そういうわけにはいかず、実際は貧しい者から餓えて死んでいく。
(いかんいかん)
数字に感情移入してはいけない。ここで憂いたところで何にも役に立たず、作業効率が悪くなるだけだ。
うんうん唸りながらやること半時、そっと誰かが部屋をのぞきこんでいた。
「何か御用でしょうか?」
猫猫が振り向くとそこには、女童がいた。確か玉鶯の孫だ。小紅とか呼ばれていただろうか。
「何か御用ですか?」
猫猫は半眼で見る。やぶ医者は子どもに甘いので勝手に入れたのだろうか。
小紅はびくっとなって後ずさった。
怯えられると困る。
猫猫は一応笑みを浮かべてみるがぎこちなかったのか、さらに後ろに引かれた。
「ええっと、用事もないのに医務室に来られると困るのですが。さらに、ここは私室でして」
猫猫なりに最大限の譲歩だ。
「……かんじゃ、がいるの。みてもらいたいの」
小紅は消え入りそうな声で言った。
「どこに患者がいるのですか?」
「……あっち」
小紅はただ指で示すだけだ。
「それではわかりません」
「……たすけてください。しきょうおじさまが、しんでしまいます」
小紅は涙をためながら言った。