八、遺産問題
気まずそうに壬氏の執務室へと向かう猫猫たちだが、心配は杞憂に終わった。
執務室には水蓮しかいない。
「あらあら、もう来たの?」
(もう来たの? ということは)
「壬氏さまはいらっしゃらないのですか?」
この場にいるのは、水蓮と猫猫、それに雀と李白だ。つい『壬氏』と呼んでしまう。
「もうそろそろ戻られてもいい頃なんだけど。玉鶯さまの遺産の件で呼ばれたのよ」
「……壬氏さまには、全く関係ないのでは?」
「第三者をまじえたいらしいわ。最初、羅漢さまを呼ぶという話を聞いて、仕方なく手を挙げたのよ」
水蓮はふうっと息を吐く。
「よりにもよってどういう人選なんですかね? まだ陸孫さまのほうが適任かと思いますけど」
猫猫は呆れる他ない。
「うーん、そこのところはよくわからないんだけど、西都に長くいた人間には間に入ってほしくないようね。あら? 帰ってきたみたいだわ」
廊下から聞こえる足音で反応する水蓮。
「猫猫、来ていたのか?」
部屋に入ってきた壬氏は、猫猫を見る。
「酒造所の件につきまして、報告に参りました」
猫猫は頭を下げる。
「わかった。このまま話を聞こう」
壬氏は軽く襟を緩めると、長椅子に座る。水蓮がさっと茶を用意する。
猫猫が説明するのが早いので、酒造所の話は全部話した。ついでに、玉鶯の孫たちの話も軽くしておく。
「つまり、何者かが毒茸をあえて混入させたということか?」
「可能性は高いです。何より酒を飲む場でなければ、毒とはなりえません。西都ではここ数か月、酒をまともに飲める場はほとんどないので、あえて酒造所に特殊な茸が入ってきたのに悪意を感じます」
「悪意か? 殺意ではないのか?」
「残念ながら、悪酔いさせるだけで、死に至るほどの毒ではないので」
壬氏は茶を飲む。
猫猫にも茶を出されたが、なんとなく椅子に座る雰囲気ではないので立ったままだ。雀や李白が立っているので、椅子に座れと急かされない限り座ろうとは思わない。
「誰かが悪戯で混ぜたか」
「そんな野狐のような真似をされても、困りますね」
「わかった。とりあえず食糧を配った者を確認しておこう」
「よろしくお願いします」
ついでに壬氏が手で「座れ」と合図をしたので、猫猫も座る。報告は終わったが、今度は壬氏が猫猫に用があるみたいだ。
「こちらは、玉鶯殿の件で呼び出されていた」
「話が長引いていたようですね」
「ああ。玉鶯殿の子たちは、孫たちを見ればわかるように、明らかに差異をつけられて育てられているからな」
小紅と玉隼という糞餓鬼の関係性を見ればわかる。
「では、次男、三男に遺産を増やすように言われたのでしょうか?」
「いや、違う。遺産の受け取りを拒否する長男を説得してくれないか、と頼まれた」
猫猫はかくんと首を傾ける。
「理解が追い付かないのですが。玉鶯さまの遺産って、まだ玉袁さまがご存命とはいえかなりの額になると思いますけど」
「だがいらぬと言っている。ばさら者だと話には聞いていたが」
ばさら者、猫猫には馴染みのない言葉だが、たしかうつけ者に近い意味合いだった気がする。
「貰える物なら貰っておけばよろしいのに」
「貰いたくない物だってあろう」
妙にしみじみとした言い方をする壬氏。
(あー)
猫猫はここにもばさら者ではないが、変わった思考の持ち主がいたなと思う。壬氏こそ、いろいろなしがらみを捨てたいはずだ。
「長男は貰いたくない。長女は貰いたがっているが、貰う権利に伴う仕事はできまい。次男は生前の玉鶯の言葉通りに、三男は次男が受け取るほうが丸く収まるのではと言っている」
「伴う仕事というのは、相続者が西都を継ぐという形で?」
「そんなところだ。なお、親戚は長男に対して快く思っておらず、私は大海殿から言われて話を聞いた」
大海、確か玉袁の三男だ。
「ややこしいですね」
猫猫は壬氏を労う風に言っているが、自分は巻き込まれたくないな、と思う。遺産相続に関しては適当に相づちを打って、適当なところで退散しよう。
「なあ、適当に相づちを打って誤魔化そうとしてないか?」
「いえいえ、滅相もありません」
どんどん壬氏は猫猫の細かな表情を読み取るのが上手くなっている。
「ところで、玉鶯さまの奥方は話に加わらないのでしょうか? 他にもお妾さんなどいらっしゃいましたら、口をはさみそうですよね?」
いくら女の権利は少ないとはいえ、妻だった女性には少しくらい権利があろう。
「玉袁殿と違い、玉鶯殿の奥方は一人だ。四人の子も全員、奥方の子だ」
意外だな、と猫猫は思った。毛色が違った兄弟なので、腹違いかと思っていた。
「奥方はある事情で表に出ることを嫌う人らしい。親戚の前でも出たくないようで、遺産については全く口を挟まないと決めたとのことだ」
「ある事情?」
猫猫は興味を持つ。
話が長くなると思ったのか、李白は隣の部屋で待機。雀は雑用でも押し付けられたのか、いなくなっていた。
「奥方は元々、中央の豪商の娘だったらしい。器量も良く商売の手伝いもしていたとのことだ」
「どこが表に出ない人なのでしょうか?」
(めちゃくちゃ出まくっているやん)
「それが、三人目の子を産んだ後、商売で砂欧へと渡ったらしい。その際、船が難破して数年生死不明だったという。異国でいろいろあって戻ってきたのは数年後だという」
「すごい話ですねえ」
本が一冊書けるような話だ。
「いろいろあったのだろう。表に出ることは、それから控えるようになったそうだ。玉鶯殿の異国人嫌いももしかしたら奥方の影響もあるやもしれぬ」
ほうほう、と頷きつつ、猫猫はもうそろそろお暇したいと思った。酒とともに、胃の内容物が空になっている。そろそろ飯を腹に入れたかった。
そんな猫猫の腹具合をもてあそぶように、いい匂いが漂ってくる。
「夕餉が気になるか?」
壬氏が猫猫の表情を伺う。
「気にならないわけではないのですが」
「そうか。水蓮、今日の菜はなんだ?」
壬氏が声をあげる。
本来なら、壬氏は何種類でも菜を用意され、ほとんど食べきれない量の食事を出される立場の人間だ。菜が何かと聞くということは、今は皇弟でも食べきれる量の食事しか用意していないことを意味する。
(質素にしているんだな)
「蒸し鶏の冷菜と、東坡肉ですよ」
(いや、まだまだ質素じゃねえな)
猫猫はよだれをごくんと飲み込む。
「食べたいか?」
「……いただけるのでしたら」
医務室で待っているやぶ医者に申し訳ないと思いつつ、肉には勝てない。壬氏と食事をするのは桃美あたりに分不相応だと舌打ちされないか不安になるが、仕方ない。水蓮が豚肉を割包に挟んで持ってくるので仕方ない。
「私が、月の君と同じ食事をとっても問題ないでしょうか?」
一応確認を取る猫猫。
「ええ、いいんじゃないかしら? 気になるなら毒見にしておく?」
水蓮の許可はもらった。そして、猫猫が食事できるように、席も準備されている。
猫猫は「うっし」と手を握る。
ただ、残念だったのは、まだ危ないからと酒を出されなかったことくらいだ。
食事は美味しく、壬氏の話をまた適当に聞き流していたら、「話を聞いていないだろ」とまた突っ込まれた。