七、小紅
猫猫は女童の髪の毛をしっかり見る。根元は明るいが毛先は黒っぽい。うっ血した毛根に特に塗る薬もないがべそをかいた顔くらいは拭いてやれる。
(おじいさまのわるくちいわないで、か)
猫猫にとっては玉鶯はろくでもないおっさんに他ならないが、身内にとっては違うのだろう。西都の民には概ねいい顔をしていただけに、孫には甘かったのだろうか。
「ほい、山羊の乳に蜂蜜を混ぜたものだよ。飲むかい?」
やぶ医者が女童に湯呑を差し出す。足の怪我は治ったのだがたまにかばうように引きずっている。
(山羊の乳までは許す、蜂蜜はいかんぞ)
貴重な甘味をたっぷり入れているのだろう。女童は美味しそうに山羊の乳を飲む。
やぶ医者は自分の分の乳にも蜂蜜を入れようとしていたので、猫猫はすかさず止める。
「駄目かい?」
「駄目です」
壺の中の蜂蜜はほとんどない。底のほうに少し残っていてあとはじゃりじゃりになった塊が側面にくっついている。
戌西州では養蜂は盛んではないので、蜂蜜が高い。
(砂糖も高いんだよなあ)
甘藷が人気になるわけだ。甘藷や麦から水飴を作ったら需要が高そうだが、今はそんな余裕はない。燃料も材料も大量に必要になる。
雀が蜂蜜の壺をじっと見るので、仕方なく匙でじゃりじゃりしたところをこそいであげた。
「ちょっとだけですよ」
「はーい」
猫猫は、本当にこの人一児の母なのだろうか、と疑いたくなる。
蜂蜜の壺を棚の奥に片付けていると、医務室に騒がしい足音が近づいてきた。
「小紅!」
二十代半ばの女性が入ってきた。女性は女童を抱きしめる。
「母親連れて来たぞ」
李白が女性を見る。小紅というのだから、名前は『紅娘』当たりだろうか。ふと玉葉后に仕える侍女頭を思い出す。
(玉鶯の孫の母、つまり玉鶯の娘か?)
猫猫は面倒くさい家系図を頭の中で呼び起こした。玉さんのお宅は親族が多すぎて、毎回混乱する。
「娘を助けていただきありがとうございます」
「助けたというのはどうか」
正直、あのくそ餓鬼は大人が一時的に止めたとしても、また見ていないところでいじめるだろう。
根っこの精神から叩きなおさないと、どんな大人になるかわからない。だが、猫猫はそこまで介入できる立場ではない。
(介入といえば?)
猫猫は、蜂蜜のじゃりじゃりを大事そうに舐める雀を見る。雀は子どもの喧嘩など傍観するように見えたが、意外にも猫猫より先に動いた。
「雀さん、途中ででしゃばってすみません」
猫猫はぽつりと、横から入ったことを詫びる。あのまま雀が子どもを叱ったほうが自然だった。
「いえいえ、猫猫さんが表に出てくれたほうが、おさまりがいいんですよぅ」
(そんなあなたは裏で何をしているんでしょうか?)
猫猫は口に出そうになるが、言わない。
なので、裏ではなく表でしっかり子どもの行動を止めた雀が珍しかった。
「改めまして、娘がご迷惑をかけました」
母親が丁寧に頭を下げる。元は気が強そうな顔立ちだが、災害後の数か月の生活からか妙にくたびれて見えた。
「今日は父の遺産のことで話し合いに来たのですが、私が目をはなした隙にこんなことになりまして」
「おせっかいを言うようですが、いつもあんな風なのでしょうか?」
「……いえ。そうならぬようこれまで気を付けてきました」
母親は娘、小紅の頭を撫でる。小紅の髪は毛先は黒く、根元が明るい。
「髪を染めていたようですね」
根元の明るい髪の長さから数か月染めていないことがわかる。蝗害で物資が足りなくなり、髪を染めることもできなくなったのだろう。
「はい。父、玉鶯は異国人の血を嫌いました。異国人はいつか西都を脅かす、侵食されぬよう目を光らせておけ、と」
「玉袁さまとは違った考えだったようですね」
「はい、でも私は、私たちは父の教えが絶対でした。異国の血を持った者なら虐げていいと、勝手な解釈さえしました」
「……玉葉后にもそんな真似を?」
「……」
母親の沈黙は肯定を意味していた。娘に聞かせたくないのか、頭ごと耳をおさえるようにしている。今、因果応報という言葉が身に染みているだろう。
玉葉后のほうが年下だが、母親にとって叔母にあたる。なんとなく勘で言ってみただけなのに、思った以上に深く突き刺さっている。
本人は過去の自分がしでかしたことを反省しているようなので、これ以上猫猫がとやかく言う資格はない。
「特に娘さんに外傷はないようです。毛根が痛んでいるようなので髪を洗うときは優しく洗ってください」
猫猫はそれだけ言う。母子はゆっくり頭を下げて医務室を出ていく。
母子の姿が完全に窓から見えなくなったところで猫猫は大きく息を吐いた。
「玉鶯さまの遺産はたくさんあるでしょうねぇ」
雀が母子たちに出した茶を片付けながら言った。
「遺産といっても、娘ですから」
土地柄、女の立場は弱い。場を設けられただけまだまともで、一人娘ならともかく男兄弟が他に三人もいれば貰える額は、どれだけだろうか。
他所のごたごたを考えているうちに、猫猫の酔いはさめてしまったらしい。あの妙な頭の疼きと胸がむかむかする気持ち悪さ、胃の腑を絞られるような吐き気はなくなっていた。もう少し詳細に書き留めておきたかったがしかたないと筆を取る。
「なんか忘れている気がしますねぇ」
雀はやぶ医者をつつき、蜂蜜をもう少し食べましょうよ、と誘惑していた。
「そういえば……」
洋筆の柄で頭をかきつつ、猫猫も考える。
「お嬢ちゃんたち、出先から帰ったけど、報告にはいかなくてよかったのかい?」
やぶ医者がのほほんと聞いた。
『あっ』
猫猫と雀、ついでに李白の声が重なる。
すっかり壬氏への報告を忘れていた。