一、引っ越し
玉鶯の死から、十日。猫猫は日に日に衰弱していく壬氏を見ながら、仕事をこなしていた。
壬氏の周りにはいろんな人間が来る。
特によくやってきたのは、都からやってきたお偉いさんの残り一人、礼部の魯侍郎と玉鶯の異母兄弟たちだ。
魯侍郎について、猫猫はちらっとしか見たことがなかったが、この間すれ違ったとき、妙に見られている気がした。
(私は何もやらかしていないぞ!)
やっていたとすれば天祐だ。猫猫たちとともに別邸に配属された理由は、同じ船に乗っていたお偉いさんを怒らせたからだと聞く。
そして、天祐は現在進行形で楊医官に引っ張られ、西都の患者を診ている。楊医官と相性がいいというか、楊医官には勝てないといった雰囲気だ。
玉鶯の異母兄弟といえば、兄弟が多いらしく何人か来ている。つまり玉袁の息子たちで、その中で特に見かけるのは次男と三男だ。次男の名前は聞いたことがないが、三男は大海と言われていた。
大海は三十半ばのがたいのいい男で、戌西州の港を取り締まっているらしい。
今日、別邸に来た来客はその大海だった。
「大変だねえ。毎日お客さんで」
やぶ医者が額の汗をぬぐいながら、鍬をふるっていた。へっぴり腰だが、やることがないので羅半兄の畑を手伝っている。
薬の材料が無ければ、やぶ医者に仕事はないので仕方ない。
猫猫は猫猫で、植木鉢を貰い、いくつか育ちが速い生薬の種を植えていた。
(育ったとしても大した量じゃないけど)
ないよりましか、と水をかける。
夕刻、猫猫は壬氏の部屋に呼ばれる。
水蓮が茶と茶菓子を用意して、座れと言われたので座る。慣れたからといって、安易に椅子に座ろうものなら、猛禽類の目が光っていそうで怖いのでやらない。しかし、今日は雀が少し気が抜けているので、桃美はいないようだ。
「大海殿から、拠点を移さないかと打診があった」
「拠点?」
どういうことだろうか、と猫猫は首を傾げる。
「まー、大したことではない。別邸から本邸に移動しないかという話らしい」
「そうなのですね」
「大したことではないよな?」
「大したことないと壬氏さまがおっしゃったじゃないですか?」
猫猫も桃美がいないので、つい壬氏と言ってしまう。
別邸と本邸の距離は鼻歌まじりに歩いて行ける距離だ。
「本邸に行くと、隣は公所ですね。色々仕事を追加しやすくなるでしょうか?」
「だよな」
「あと、いきなり公所に連れて行くと、警戒するので段階的に慣らせようとするのかと」
「俺は拾ってきた猫か?」
壬氏も気が抜けている。いや、疲労のため取り繕うことを放棄しているようだ。
(だよなあ)
壬氏の部屋は書類や資料でまみれていた。西都では羊皮紙をよく使うので、中央の資料に比べて嵩張るのだが、それでも山のように積み重なっている。
ちらりと猫猫が資料を見るが、あくまで実務ではなく、実務をこなすための予備知識のようだ。
壬氏に対して民の立場で言えば、早く仕事しろというべきだろう。しかし、猫猫は医療従事者であり、ほどほどに気を抜いてもらわねば、体を壊す。
「では、拠点の移動を断ればよろしいでしょう」
「断りたいのは山々だが――、今、皇弟は西都でどう呼ばれているか知っているか?」
「……見目麗しいときゃーきゃー言われている一方、玉鶯さまの暗殺を行ったと陰謀論が出ています」
「うむ」
「やりましたか?」
「やっとらん!」
(ですよねー)
壬氏は暗殺といった暗躍は苦手そうだ。まだ、色恋に関しては、宦官時代手段を選ばぬようにやっていたと見受けるが、最近は幼児化したと思う位退化している。
「西都を乗っ取るためにやってきたなどと言われている」
「いやはや、こんな乾いた土地に来るくらいなら、中央でちまちまやってたほうが利益が上がるというのに。こんなことなら、宮に引きこもって、穀物の買い占めを行い、高値で売り払って銭をせしめてやればよかった」
壬氏の後ろで雀がこそこそ壬氏の声まねをする。
「雀、桃美に言いつけるぞ」
「はぉっ。それだけは後生ですよぅ」
雀がとてとてと戻っていく。
「では、本邸に行ったら乗っ取りだとさらに言われるんじゃないですか?」
「本邸には、玉鶯殿の息子たちと、玉鶯殿の妹がいる。警備の面を考えると、別邸と分けるより本邸にいたほうが安全という考えだ」
「父の仇とか言って刺されることはないですか?」
「ないと思いたい。何度か会ったが、玉鶯殿を殺害した相手について、心当たりがあるようだった」
いきなり刺されることがないのなら、移動したほうがいいのかもしれない。今後、公所への行き来を考えると、本邸から移動したほうがずっと楽なはずだ。
「あと、もう一つ、本邸には温室がある」
「お、温室!」
猫猫は思わず目を輝かせる。
「本邸に来たら、生薬の栽培に使ってくれと打診されたのだが――」
壬氏はちらっと猫猫を見て、顔をほころばせる。
「別に別邸に残ってもいいが?」
「な、何をおっしゃるのですか、壬氏さま。私がちゃんとついてきますので、ご安心を」
猫猫はどんと自分の胸を叩き、勢い余ってむせてしまった。
本邸への引っ越しはつつがなく進んだ。いてもいなくても変わらないがやぶ医者も一緒に行く。
ただ、別邸に残る者もいる。
「温室か、それは専門外だな」
羅半兄から意外な言葉が出てきた。
「羅半兄なら、作物なら玄人の俺に任せとけってなると思ってましたのに」
「誰が玄人だ! できねえわけじゃねえけど、俺は自分が責任持てる範囲しかやれねえの。あくまで俺ができるのは、習ったことをなぞるだけだ」
できないことはできないと言えることも玄人らしいと猫猫は思うが黙っておく。
「大体、俺の専門は穀物だよ。生薬なんかだと、おまえさんのほうが詳しいだろ」
「それもそうですね」
(専門って言った)
聞かなかったことにしてやる猫猫は優しい。
「まあ、場所は近いんだ。なんかあったら呼んでくれ」
「はい、その時はお願いします」
猫猫は、羅半兄に頭を下げると、本邸へと移る。
本邸は別邸より一回り大きく、猫猫たちが案内された医務室も広かった。
(確か李医官が任されていた場所だな)
薬の類はほとんど持っていかれているが、棚は使いやすいように揃えられて、寝台と椅子も綺麗に並べられている。猫猫たちが持ち込む道具もそこまでないので、すぐ片付きそうだ。
「お嬢ちゃんの部屋、私が一緒に片付けておこうか?」
なぜかきらきらとした目で、手には刺繍入りの帳を手にしたやぶ医者。
「いえ、自分のことは自分でできますので、医官さまは医官さまの部屋を片付けてください」
もう二度と、猫猫はあのひらひらの部屋にさせる気はない。今度、さらしが足りないときは、あの帳を裂いてさらしにしてしまおうか考える。
「おい、嬢ちゃん」
「どうかしましたか、李白さま?」
「俺はちょっと厠に行きたいんだが、離れても大丈夫か?」
「別に問題ないのでは?」
李白は見た目によらず勤勉だ。新しい医務室の前にはもう一人護衛がいる。
「悪いな。休憩中に小便行けなくて」
「いえ、大丈夫です」
休憩を挟むとは言え、長いときには半日立ちっぱなしもある。
李白はもう一人の護衛に頼むと、厠を探しに行った。生憎、医務室の近くにないようだ。
とりあえず猫猫はせっせと道具を運び入れ、最後の荷物を入れようとした。
その時だった。
「あいたっ!」
やぶ医者の声が聞こえた。
何事かと思って猫猫がやぶ医者の元へ向かう。転んですねを撫でるやぶ医者と、修練用の木剣を持った子どもがいた。
護衛は猫猫を見ていたので、やぶ医者まで目が届かなかったらしい。
「せいばいしてやったぞ、じゃまなむしめ!」
子どもは七、八くらいの男児だ。綺麗な服を着て、髪も丁寧に整えられている。
猫猫はしゃがみこみ、やぶ医者のすねを見る。たとえ子どもでも思いきり木剣で叩かれたら、あざができる。
猫猫は子どもを睨みつけた。
「坊ちゃま、いけません!」
慌てて使用人の女が子どもを捕まえる。
「申し訳ありません、申し訳ありません」
使用人は子どもを抱きかかえると、ぺこぺこと頭を下げる。
「おい、はなせ! そいつらをみなごろしにしてやる!」
汚い言葉を吐く子どもはそのまま連れ去られた。
猫猫はぎゅっと拳を握る。
使用人がさっさと下がってよかっただろう。子どもでも猫猫は平手打ちをするところだった。加減を知らない子どもは、質が悪い。
「申し訳ありません」
残った護衛の顔が青ざめている。
「謝罪はいいですから、医官さまを運んでください」
「い、痛いよ」
猫猫がすねを触るとやぶ医者が過剰なくらい反応する。骨が折れるほどではないが、数日歩けないだろう。
(あの身なりと使用人の態度からすると)
玉袁の身内と見て間違いない。年齢からして、玉鶯の孫辺りだろうか。
早速、面倒ごとの予感しかなかった。