四十八、軍師の采配
三姉妹と叔母はそのまま赤毛の女性の元にいることになった。母や姉のように表に出ることが無かった叔母は、戌の一族とわからないと判断した。
「にーに、行っちゃうの?」
三姉妹の一番上、白羽が陸孫の袖を引っ張る。
「ちょっと遠くにね」
陸孫はもう西都にはいられない。今、西都にいればきっと母や姉の言葉を忘れてしまう。西都の民に害を及ぼしてしまう。後ろ髪を引かれる思いで三姉妹に背を向けた。
馬車に揺られ港へと向かう。
癪に障るが玉袁の世話になるしかなかった。まだ十三の子どもには、一人で生きる術はない。元戌の一族の家が中央にあるらしい。ちょうど陸孫と同い年の子どもをなくしたばかりだ。背格好も似ているし、向こうも引き取ってくれると言う。
「戸籍も問題ないはずだよ。名前はそのまま使わせてもらう」
同じ轍は踏まないと言いたいようだ。
陸孫はまだ玉袁を許せない。この男は自分に原因があると言った。何の理由か聞く権利があると思った。
「なんであんたがいないときに、楊一家の誰がやらかしたんだ?」
すると困った顔をして、玉袁がつぶやいた。
「息子だろうね。鶯は私の子じゃない」
「……知ってる」
戸籍云々の話を思い出し、陸孫なりに考えていた。鶯というのは、母と話をしていた子どものことだろう。
「実の子じゃないから、責任逃れするのか?」
「それどころか他の子どもたちも全て私の子じゃない」
「えっ?」
陸孫は慌てる。あれだけ妻と子を持った男なのに。
「子どもが作れない体質なんだろうね。最初の妻は鶯を産んだけど、私との間に六年間子はできなかった。申し訳ないが他でも試して駄目だった。諦めて私は子を孕んだ寡婦を探したんだよ。賢く強い母は子を私の子として育てることを了承した。書面をかわし、商人として絶対の契約を作った。子どもの養育と将来の代わりに、秘密を守り才覚を提供してもらうことにした。今度は戸籍も私の子になっている。商人が種なしでは恰好がつかないのさ」
「それじゃあ」
「皆、実の子と思って育てているし、全員私を実の親だと思っている、と思っていたさ。でも、最初の奥さんが砂欧からの奴隷と知っていた人がいた。息子も奴隷で父親は私じゃないんではって強請ってきた」
陸孫の目に映るのはただ頭を抱える小太りの男だった。
「幸いにも言いふらされることはなかったけど、脅しにきた。私は契約という形で黙らせた。向こうも確信はないのでそれで下がった。でも、一人に都合がいい契約を結んだら、他も同じように結ばないといけないものだ。私は優しい新参者の楊さんだろうね」
楊という姓は、戌の一族を出て行ってつけたのだろう。どこにでもある名前だ。
「ずっと黙っているつもりだった。墓まで持っていくつもりだった」
でも駄目だったようだ。
「鶯は私とは別に色んな商品を探していた。その一つが黒い石だったんだ。そこで風読みの部族の生き残りと会うとは思わなかった」
鶯はそこで母が元奴隷であると知り、自分の出生に疑問を持った。玉袁に似ていないことでうすうす思うこともあったようだ。
黒い石の産出量について誤魔化しがあったというのは、そこで話を聞けたからだろう。
「じゃあ」
「ああ。本当の父親は――、砂欧の誰かだろうね。茘の気質を受け継いでいるからあまりよく見えないけど。ここ数年、砂欧や異民族に対する態度が違うと思ったよ。ばれていたってことさ」
事細かに話してくれる玉袁。陸孫に対する配慮のためか、それとも抱えすぎた秘密を誰かに暴露したかったのか。
「じゃあ、戌の一族を陥れたのは!」
「ああ。一つは風読みの部族としての復讐」
「一つは?」
「もう一つは――」
玉袁は陸孫を見る。
「戌の子どもが私の実子だと思ったんだよ」
『賢そうな子だね。息子にもらっていいかい?』
母とのやりとりを思い出す。玉袁はなかば本気で言っていたのか。子ができなければ親類から養子をとる、当たり前のことだ。
陸孫を消すために皇族の血筋などとでっち上げをした。
姉は莫迦だ。生き残るなら陸孫ではなく姉のほうがよっぽど重要なのに。
なぜ、陸孫を生かした。
そして、なぜ今頃玉袁が話す。
殴りかかりたい衝動を必死におさえる陸孫。多少叫んでも御者には聞こえないように馬車は作られているらしいが、殴ったらだめだ。馬車から突き落とそうと考えても駄目だ。まだ、陸孫が噛みついた足首の傷は残っている。隙をつきたいが、こんな男でも使い道はある。
『あんたは、西の地を守るの。それが戌の男の役目。何を利用してもいい、どんな相手でも使えるものは使いな』
姉の言葉を思い出す。陸孫はここで死んではいけない。そして、西の地を傷つけないために、中央へ行くのだ。
「莫迦な勅令を出した中央か」
ろくでもない皇族がいるのだろう。確か帝の母が政治を操る傀儡政治と聞いた。
「中央は本意じゃなかったそうだ」
「はあ?」
どういうことだ、手違いで勅命が下されたということか。
「帝の印は入っていたが、女帝、いや皇太后の印がなかった」
つまり傀儡よりも傀儡つかいの承認がなかったことが問題なのか。
「中央は数年前から帝の体調が悪く、皇太后も高齢なのだ」
「そんな杜撰なことで……」
「そうだな。皇族を騙ったというのは間違いだとわかったが、鉱山の件は隠せない一件だ」
「……それは」
戌の一族にも非はあった。
「だから、鉱山の権利は奪い取る予定だ」
「えっ?」
小太りの気弱そうな男の目に火が宿った。
「中央は石炭の価値をわかっていない。少なくとも向こうではこちらの何十分の一の価格しかならないだろう。そこを逆手に取る」
「それって」
「交渉材料は杜撰な勅令。西の地を治める一族を滅ぼした。これは由々しき問題だ」
玉袁の目には商人のたくましさが宿っている。
「おまえを中央に連れていくとともに、私は元戌の一族として宮廷に直談判する。私の印によって起こしたことなのだから、私にも責がある」
「いや、それじゃああんたは、あんたの家は?」
鶯とかいう莫迦息子は知らないが、従姉妹たちを匿ってくれた奥さんもいる。いくら血のつながりが無かろうと、そこまで捨てることができるのか。
「ほれ、これ見ろ」
玉袁は足元から籠を取り出した。中には鳩が数羽入っている。
「商売を広げられた理由だ。情報を制す者は、市場を制す。私を縛り首にしようが、一家を根絶やしにしようが、関係ない。鳩が先に知らせてくれるし、簡単にくたばるような弱い嫁は誰一人いない」
どんと、太鼓のような腹を叩く玉袁。
「それでも信じられないかい?」
「……まだ」
心の整理が追い付かない。陸孫はまだ子どもなのだ。大人の本当か嘘かなんてわからない。
「じゃあ、私と書面をかわそうか」
「どんな?」
「私は商人だ。西都を一番盛り上げてくれる子どもを跡取りにする」
「それって鶯も?」
「そうなるね。だって妻たちには全員同じ書面を書いたんだよ。一番、西都を盛り上げてくれる者に家を与えるって」
商人らしい、成果主義だ。
「でも同時に危険を孕んでいる。私の寿命はどうしても子より短い。だから、欲をかいた子どもが、私がいなくなったとき何かをやらかすかもしれない」
鶯という男ならやりそうだと陸孫は思う。現にやらかしている。
「その時は、その子を排除する。そして、おまえが西都を守るんだよ」
「なんだよ、それ」
結局、玉袁の跡継ぎになるってことじゃないだろうか。
「この期に及んでしりぬぐいをさせる気か?」
「しりぬぐいじゃない。これは風になった男の宿命だ」
「風になった男、か」
玉袁はどんな形であれ、母や姉の言う風の男だと陸孫は思った。
ずるくて汚いやり方だ。これでは、陸孫は受けるしかない。
この柔和な笑みの下のしたたかさを得るしかなかった。
尖った石のような心を砥石で研いで研いで、滑らかに美しく仕上げる。そして、何かあったとき、鋭く何者でも切り裂けるような刃となるように――。
「ついたようだな」
馬車を下りると港だった。
そこで妙な動きの男を見つける。
「船、いや。無理、乗りたくない!」
子どものように駄々をこねるいい歳をした男がいた。
「船のらねえと、帰れねえぞ。やっと乗れる船があったんだ」
「でも。船、無理」
羅漢という男がいた。
「小父さん何やってんの?」
思わず声をかけてしまう陸孫。
「ん? 誰だ、おまえ。ちまい歩兵だな」
陸孫のことは完全に忘れていた。
「都に帰るんだろ。陸路より船のほうが楽だと思うよ」
馬車に揺られるのも船に揺られるのも似たようなものだし、期間が短いほうがいいと陸孫は思った。
「ぐぬぅ」
羅漢はしぶしぶ船に乗る。
「小父さん、まったく顔を覚えないけど本当に大丈夫なの?」
「うーぬ。出世したら困るかもしれない」
出世できるのだろうかと陸孫は思ったが、商人はなんでも縁故を作っておくに限る。
「じゃあ、出世したら僕を雇ってよ。小父さんの代わりに人の顔を絶対忘れないから便利だよ」
「ん、それなら採用する」
軽いやり取りだったがまさか十年後に本当になるとは陸孫は思いもしなかった。そして、陸孫のことを変人軍師と呼ばれるようになった人物はすっかり忘れていた。
結局、戌の一族は無くなった。勅命が間違いだったと皇族が認めなかったわけだが、妥協案が出されたのだろう。
一つ、戌の一族の生き残りについては追われるようなことはなかった。
一つ、戌西州と今も呼ばれている。
一つ、戌の一族ではなく元戌の一族である玉袁が西都を治めることになった。
一つ、石炭の鉱山は口止め料という形で、納めなくてよくなった。あくまで非公式に。
戌の一族は結局不名誉のまま無くなった。だが、玉袁は名誉よりも戌西州の発展を選んだのだろう。誰よりも西の地の利益を求める男は、くやしいが誰より陸孫の手本だった。
血だまりの中で陸孫は過去を振り返っていた。
今の公所は元々戌の一族の邸。しかも、玉鶯は陸孫の母が使っていた部屋を執務室にしていた。
十七年前、己が狼藉をやった場所で刺されて絶命する男。因果にしては出来すぎている。
玉袁の提案を受けたとき、母と姉を殺した張本人が玉鶯だと知っていたら、受けるわけがなかった。西都についたとき、直属の上司だと言われた男が誰よりも記憶に残る男だったときは気が狂いそうだった。
でも、姉の遺言を守るために我慢した。
羅の一族と血縁か、と言われたときは怒りを通り越して笑いがこみあげてきた。陸孫にとって忘れられない男は、陸孫の存在を全くわかっていなかったのだ。
曲がりなりにも玉袁が育てた男。血のつながりは無くとも、西の地を盛り立てる才能はあった。惜しむらくは、劣等感を持ちすぎたことか。
西の地を盛り上げるのではなく、守るのではなく、利用して砂欧を攻めようとする。己の血の元を絶やすためにやろうとしたのだろう。
これだけは看過できなかった。
なにより、お膳立てされたように、舞台が整いすぎていた。
陸孫は持っていた小刀を農民の手に持たせ、自分は玉鶯が持っていた剣を手にする。
「なんだ、なんだ?」
駆けつける人々には、血だまりの中一人立っている陸孫が見える。
「ど、どういうことですか⁉ 陸孫さま」
玉鶯の副官が訊ねる。がやがやと他の者たちもやってきた。悲鳴を上げる侍女もいた。
「見ての通りです。私が入った時にはすでに殺されていました。私はただ隙を見て賊を背中から刺すことしかできませんでした」
「本当ですか?」
副官がのぞき込むように見る。全員が疑いの目を陸孫に向ける。
そうだ。陸孫が疑われるのは当たり前だ。陸孫が冷遇されていたのは皆が皆わかっていたはずだ。陸孫が怪しいのはわかっている。
ここで上手く上手くやらねば――。
いや、それとも母と姉と同じ場所で葬ってもらった方が――。
などと考えていた矢先だった。
「部屋に入ったらすでに殺されていた。だから、賊を殺した、で間違いないか?」
誰かと思えば、羅漢がいた。寝ぼけ眼で、片眼鏡も外している。どうやら眠っていたらしい。普段なら一度寝るとなかなか起きない男なのに。
ああ、終わったな、と陸孫は思った。
羅漢に隠し事は出来ない。もう眠っている時間だと思ったのに。
「はい」
「だ、そうだ」
羅漢が周りに言った。
「ど、どういう意味ですか? 漢太尉?」
「ん? そいつは嘘はいっとらん。賊を殺した。それの何が悪い? むしろ警備をぬかったおまえらの責任だろ」
「えっ?」
いきなり言われて混乱する副官。
「儂、眠いから寝る」
周りがどよめく中、「漢太尉の言葉なら」と皆が下がる。陸孫に向けられた疑いは一瞬で消えた。
これでいいのだろうか、という気持ちもある。
同時に、姉との約束を守れるとほっとする気持ちもある。
「話はあとで聞きますから、とりあえず着替えてください」
副官が陸孫に言った。
先ほど叫び声をあげた侍女が恐る恐る手ぬぐいを陸孫に差し出す。すらりとした侍女を陸孫は何度か見たことがあった。
「お仕事ですか、雀さん」
「……いやですねえ、なんでばれるんですか?」
顔は全く違うが声は陽気な侍女のものだった。
「お膳立てしたかのような舞台で、誰かの差し金かと思いました」
「そうですかあ。怪しすぎましたかねえ」
雀は否定もしない。
「どうして私ってわかりました? 髪の色、目の大きさも変えてましたのにぃ」
「耳の形ですね。雀さんは大変美しい耳をしています」
「あらやだ、人妻の耳を見るんですか?」
声は雀だが、おどおどした侍女の様子は全く別人だ。陸孫の血を恐れつつも着替えを持ってついてきている。
「医官が入ると私は処分されますか?」
なんとなく聞いてみる陸孫。
「ここの担当は楊医官です。楊医官は仕事には真面目ですが、柔軟な考えをお持ちで、何より西都の平穏を願っているはずです。猫猫さんなら好奇心で調べるかもしれないですね。あとの残り二人の医官も癖がありそうですし、良かったですね」
「そうですか。では今後顔を合わせないようにしておきます」
「ですね。ついでに私のこと黙っておいてくださいね」
雀がついでにと口止めしてくる。
「黙っておきますので、一つ頼み事を良いですか?」
「なんでしょう?」
独特の声が陸孫の耳によく聞こえるが、周りには口すら動かして見えないだろう。陸孫とて、農村で数日一緒にいなければ気付けなかっただろう精巧な変装だ。実は公所で何度か見たことがあった。
「あなたが手に入れた戸籍を速やかに処分していただけないでしょうか?」
「そこまで知られると雀さん首が飛んじゃいますよう」
「どちらの利にもなるでしょう。処分については」
林小人の特徴を聞いた時、陸孫には何人か目星がついていた。そのうちの一人が、今の変装をした雀と話していたのを知っている。
だから、合致した。
「后の父親がどこの馬の骨かわからないのは困るんでしょう?」
「そうですねえ。面倒臭いことになりますぅ」
緊張感のない声だが、表情だけは強張っている。かなり有能な間者なのだろう。
このままそっと陸孫のことを消すのではないかと思ったが、さすがにそうはないと思いたい。
玉葉后の本当の父親は、戸籍で調べると出てくる可能性はある。母親の前の夫を調べるなり、たとえ故人でもその親類を調べられると困る。
「雀さんが大変な理由はわかりますけど、なぜ陸孫さんが戸籍を処分しようと考えるんです?」
「別に意味はありませんよ。ただ、書面で契約した相手の秘密がばれると契約の価値がなくなるでしょう?」
別に玉鶯のためではない。愚かにも西の地を危険にしようとした男。玉袁に対する劣等感の塊。
陸孫が戸籍を処分したいのは、ただ玉袁に対する義理なだけだ。
「わかりました。上司と相談しておきます」
と、変装した雀は陸孫に着替えを渡すとどこかへ行ってしまった。
「月の君の直属ってわけじゃあなさそうですね」
これ以上、陸孫は踏み入れない。何よりすねに傷を持つ身になった。
部屋に戻る。そして、扉を閉めると、しゃがみこんだ。
「なんだろうなあ、終わったはずなのに」
ぼろぼろと涙がこぼれてきた。
「違うか。まだこれからか」
鼻をすする。子どもが泣くように。
大の大人が恥ずかしいが、今日は母と姉に見守られている気がした。
それに、どういう意図であれ、羅漢は陸孫を庇ってくれた。
「嘘ではないけど、本当のことわかっていたはずなのに」
柄にもないことをする元上司だと陸孫は思う。
そして――。
西の地を守るため、これからも風として生きねばならなかった。