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薬屋のひとりごと  作者: 日向夏
西都編
275/387

四十七、風は泣く 後編


 柔和な笑みの恰幅のよい小父さんがいた。


 時々、母に会いに来る人は玉袁ギョクエンと言った。新しい楊さんなどと呼ばれているところを聞いたことがある。古い知り合いというか、親戚らしい。元は戌の一族で、風になった人の一人だろう。


 ふっくらした顔で、玉袁は陸孫リクソンに飴をくれた。


「賢そうな子だね。息子にもらっていいかい?」

「冗談はやめてね」


 母とはそんなやり取りをしていた。


「嫁の貰いすぎだって笑われているわよ」

「さあてね、養えるうちは大丈夫だろうよ」


 ああ見えて女好きなのかあ、と陸孫は不思議に思う。


 玉袁は西都ではかなり大きな商家に育っていた。紙にかわる輸出品として絹織物や焼き物を出し、輸入品として玻璃細工を卸していた。葡萄酒を戌西州で作り、渡来品と合わせて売ることもしていた。渡来品の高級志向を好む人もいれば、いくらか安価で酸味の少ない国内産の葡萄酒を好む層もいる。


「というわけで、嫁や子どもを養うためにちょいと砂欧まで買い付けに行ってくるよ」

「おやまあ、家主が家を長く空けて大丈夫なの?」

「子どもたちもだいぶ大きくなったからね。上の子はもう妻も子もいる。何よりうちの賢い嫁さんたちがいれば大体やれることはやってくれる」


 にいっと笑う玉袁に、つられて笑う母。


「それより、黒い石を出し始めたそうじゃないか?」


 黒い石という言葉をまた聞く。


「ええ。不作になるとどうしてもね。あなたのところにも少し卸しているわね」


 母は答える。姉も神妙な顔をしていた。その場にいる中で、陸孫だけ話がよくわからない。


「うちに出している分は、真っ当な形でだろう? あんまり困っているようなら、多少は援助できると思うよ」


 玉袁が言った。


 母と姉は神妙な顔をしている。


「見返りは何が必要なの?」

「人聞きが悪い」

「商人として抜け目なく、が戌の一族としての男の育て方よ」

「……戸籍を貸してほしいんだ」


 戸籍、戌西州にいる人間がいつどこから来たのか出自が書かれた記録だ。戸籍のない人もいるが、少なくとも西都で商売を始めるには身元をはっきりさせるということで戸籍を作らねばならない。


 母は首を横に振る。


「駄目よ。公的文書なの。貸して、ということは書き換える気でしょう?」

「……駄目かい?」

「ええ。それに今は資料として林大人りんたいじんに貸しているわ」

「そうかあ」


 残念そうな玉袁。


「どうして書き換えたいの?」

「一番上の子の出自だけは正直に書いてしまったんだよ。どこぞで聞きつけたのか、不作の農民がやってきてゆすってきて金を貸してくれとさ」


 困った顔の玉袁。


「最初の奥方……、風読みの部族出身だったわね」

「そうだ。私が加わる予定だった風読みの部族だよ。再会したとき、面影が残っていた。何度か顔を合わせていたからね」


 滅びた部族の話をしている。陸孫はもっと聞きたかったが、そろそろ寝なさいと母に言われた。


「さあ、寝よ」


 姉に連れられて、寝室へと移動した。


「姉さん、黒い石って何?」


 寝台の上で姉に聞いた。


「あんたはまだ知らなくていいのよ」

「知らないことばかりじゃ困るって、勉強しなさいって言ってたじゃないか」

「……黒い石っていうのは、石炭のことよ。ずうっと西の山を掘ったら出てくる燃える石」

「それがどうしたの?」

「不作になると、食べ物のことで精いっぱいになって燃料も買えない家がたくさんでてくるの」

「うん」

「そういう家に配るの」

「へえ」


 だったら別にいいじゃないか、と陸孫は思った。


「石炭を掘るのって大変なんでしょ?」

「ええ、大変。奴隷を使うの」

「どれい?」


 姉はあまり良い顔をしていない。


「あんまり使いたくないけど、そうしている。でも掘った分だけ奴隷から解放される時期が早くなる。早い人は五年で解放されたって聞いたわ」

「遅い人は?」

「何十年。昔、風読みの部族だった人もいるわ」

「その人は解放してあげないの?」


 姉は首を横に振る。


「私たちを裏切ったのよ。奴隷にされたのを死んだおばあ様が偶然見つけて話を聞いたの。鳥の扱い方も含めて他国へ行くつもりだったらしいわ。女が長で、男が外に出るのがありえないって。遊牧生活が長くなるうちに、他所の男尊女卑の在り方のほうが正しいと思うようになったのでしょうね」

「それでおばあ様は鉱山に送ったの?」

「ええ、一番早く奴隷から解放されると思ったから。他に何人か元風読みの民の奴隷を買って。でも、その人たちは、騙されたとかいってたらしいの。どうやらおばあ様が黙って奴隷から解放してくれると思ったらしいわ」

「働けば出ていけるのに?」

「危険はあるけどね。何十年もいるってことは、何もやっていないのかもしれないわ」


 きっと私たちを恨んでいるでしょうね、と姉は言った。






 きっと私たちを恨んでいるでしょうね。


 姉の言葉は誰に向けられたものだったか。


 ただ、戌の一族というのは多くの人に嫌われているのがわかった。


 その日は朝から騒がしかった。邸の周りに人がいて何やら文句を言っているようだった。


 陸孫も、何が何だかわからなくて、怯える従姉妹たちを抱いてなだめていた。


「姉さん、どうしたの? 外が騒がしいよ」

「ううん、大丈夫よ」


 全然大丈夫じゃない。姉の顔色は真っ青だった。


 母がやってきて、従姉妹たちの母、つまり陸孫の叔母に話しかける。叔母といっても、今、戌の一族の長である叔母とは違う。母とは年が離れた末の妹だ。


「あんたは裏から出なさい。子どもたち連れて」


 その子どもたちの中に陸孫も含まれていた。


「新しい楊さんち、一番新しい奥方の家が近いわ。知っているでしょ、元踊り子の。子どもも年が近くて、あんたも仲が良かったでしょ」

「で、でも」

「いいから! こいつら連れてさっさと出ていけ!」


 命令する口調で叔母を追い出す母。陸孫も押し付けられた。


 母ともう一人の叔母は、表に出ていた。何やら沸き立つ民衆の前に立って話している。時間を稼いでくれているのだと陸孫にはわかった。


「いこ、今のうちに」


 楊さんちの一番新しい奥方の家に行くと、赤い髪をした碧眼の女性がいた。陸孫たちに気付くと手招きをして裏口に案内する。


「ど、どういうことでしょうか?」


 一番下の叔母は、母たちと違ってのんびりした性格だった。なので、母たちと同じ立場で家の会議に加わることは少なかった。子どもが小さかったこともある。


「戌の一族が不正をしているって、しかもそれを中央に直談判したって言うの」


 赤髪の女性は長いまつ毛を伏せていった。


「不正?」

「ええ、鉱山の産出量を誤魔化している。それに――」

「それに?」

「戌の一族は、帝の血を引く男児を有していると、正しき継承者は我が一族にあると豪語しているって」

「……ありえないでしょ」


 ちらりと叔母と赤毛の女性は陸孫を見る。


「でっちあげでしょ?」

「でっちあげよ!」

「でも父親は?」

「そ、それは」


 戌の一族の間では、父親が誰かはっきりさせないというしきたりがある。過去に、長の子の父親である者が現れ、一族の乗っ取りを企てたことがあったからだ。陸孫も自分の父は誰か知らない。


「確かに、この子が生まれる前に姉さんが中央に行ったことはあったけど、時期がずれてるわ。皇族の子なんてありえないし、何よりうちが名乗るわけないじゃない!」


 叔母の言う通り、戌の一族は父親が誰であろうと名乗らせない。異国の大臣や、舞台役者の子ではないかという親類も多いが誰も言及しない。それが戌の女の政治なのだ。


「そんなの鵜呑みにするほど、中央も莫迦じゃないでしょ? 誰が文書を届けたって言うのよ」

「それが――」


 赤髪の女性は口ごもる。


「うちの印が使われていたらしいの」

「えっ?」


 目を見開く叔母。


 三姉妹は叔母が騒ぐのを見て不安になったのか泣いている。


 陸孫は何をすることもできない。


「だいじょうぶ?」


 小さな女の子がやってきた。赤い髪をした緑の目の娘は、小さな従姉妹たちを撫でる。


ヨウ、その子たちを連れて奥で遊んでいなさい」

「はーい、かあさま」


 赤髪の娘は三姉妹を引っ張る。陸孫のことも引っ張ってきたが、首を振って断る。


「じゃあ、玉袁さまが⁉」

「いえ、旦那さまは砂欧へと遠征しているわ。私にはこれ以上はわからないの」

「じゃ、じゃあ……」

「ともかく着替えて。乳母の服があるからそれに」


 へたり込む叔母。従姉妹たちは子ども部屋へ。


 この赤い髪の女性は信頼してもいいだろうか。陸孫は思った。


 そして、ここに一番いてはいけないのは誰かわかった。


「あ、あなた!」


 赤髪の女性が陸孫を止めようとした。


 しかし、陸孫は女性の手を振り切って邸へと向かう。


 鉱山の話は黒い石のことだ。母たちがやっていることは戌西州の民のためにやっていること。でも、表面上の数字でしか評価しない中央にはわからない。


 もう一つでっちあげの問題。そこに必要なのは、陸孫のはずだ。


 僕が、僕が出れば。


 行ったところで何もならない。でも、行かなくてはいけない。無意味な使命感が陸孫を走らせた。


 邸には暴徒が押し寄せていた。衛兵たちがのされて倒れている。うっぷん晴らしのように馬乗りになり殴る者もいた。野次馬が歓声を上げる。悲痛な目で見る者もいる。だが、誰も助けない。


 人は極限状態になると何をするかわからないのよ。


 母の言葉を思い出す。


 一種の祭になっていた。時に人は暴力に快楽を覚える。そして、女だてらに西都を仕切っていた戌の一族は、一部の人間にとっては何より目障りだっただろう。


 絹を裂くような叫び声が各所で聞こえる。


 違う、違う。


 姉の声ではない。母の声ではない。


 聞きなれた声がいくつも聞こえたが、陸孫は非情にも優先順位を決めていた。


 姉の、母のいつもいる部屋へと向かう。暴力と略奪に目がくらんだ男たちをすり抜けた。手を伸ばす一族の女たちに「ごめん、ごめん」と心の中で謝り続ける。


 大義名分を得た暴漢たちは、欲望にまみれた悪鬼と化していた。


 体中から汗が噴き出す。握りこぶしはびっしょり、はあはあと本物の犬のように舌を出す。排出する水分が増えるほど喉が渇く。


 誰かとすれ違いそうになったら慌てて隠れる。


 母の部屋の前で後ろから羽交い絞めにされた。慌てて足をばたつかせた。


「なんであんたがいるの⁉」


 姉だった。真っ青な顔をして、叫び出しそうな陸孫の口を押えている。なんだかいつもと恰好が違う。髪を束ね巾で巻き、男物の服を着ていた。


「姉さん。母さんは? その恰好は?」

「母さんは奥。私は、ちょっとあんたの元服の服を借りてる」

「えっ?」


 意味がわからないまま部屋に連れ込まれる。


 母が手に剣を持っていた。


「母さん」


 陸孫が問いかける間もなく、口に何かがはめられた。姉が布を割いて陸孫の口に猿ぐつわをはめる。


「⁉」

「だまんなさい。あんた、声大きいの」

「絶対気づかれちゃだめ。だめよ」


 姉はそのまま陸孫の腕と足を縛り、母と一緒に大きな行李の中に突っ込んだ。姉と母は蓋を閉めて、丁寧に上から重石を置いた。


「あんたは、西の地を守るの。それが戌の男の役目。何を利用してもいい、どんな相手でも使えるものは使いな」


 歯を見せて笑う姉。


「ここ、火の手は大丈夫?」

「ええ。燃えるものはないし、大丈夫でしょう。どうせ、建物はまた使うんでしょうし」


 何を言っているのかわからない陸孫。行李の網目の隙間からのぞく。


「母さん、私似合ってる?」

「ええ、そうね。大きくなったらそんな感じかしらねえ。声は出すんじゃないのよ」

「わかってる」


 姉と母の意図がわかった。今、戌の一族で男児は陸孫のみだ。皇族を名乗ることが不敬だと暴徒の言い分を信じるなら、陸孫が狙われる。


 姉はその身代わりになるつもりだ。


「⁉」


 くつわで声が出ない。手足が縛られて動けない。ただ、暴徒がやってくる声が聞こえた。獣じみた声と血と油の臭い。


 母が剣を振るう。


 母の剣術は舞のようなものだ。美しい剣筋を残すが、軽く儚い。相手にはかすり傷しかつけられない。


 やめてやめてくれ。


 くつわを噛む。涎がにじむ。行李の底は涙と涎でびしょびしょになる。


 何も出来ない。歯がゆい。


 姉が、母がどうなったのかは思い出したくもない。でも、その狼藉を働いた男の顔だけは覚えておかねばならなかった。


 瞬きもできなかった。


 唾液で光る八重歯。日に焼けた肌。節くれだった手に、耳や髪質。役者のように通る声。ただ顔を覚えるだけではない。五感を使って覚えられるだけの情報を頭に詰め込む。決して、忘れぬように――。


 暴漢の目には正義があった。何か絶対的な悪を見つければ、何でもやっていいという利己的でどうしようもない正義があった。


 煮えたぎる思い、焼石を押し付けられたような感覚。体の水分が抜けきったというのに、さらに蒸発しそうなほど熱くなっていた。


 こいつ、こいつが。


 男は姉の頭を掴む。髪を引っ張りそのまま引き摺っていった。


 今すぐ殴りたい。殺してやりたい。でも、できない。そんな真似をしようものなら、陸孫は一撃も与えられずに殺されるだろう。


 姉や母はわかっていた。だから、陸孫を閉じ込めた。何もできないように、縛り付けた。


 乾いた目には涙も浮かばなくなった。ただひ弱な自分を呪った。小さく知恵もなく何も出来ない自分を呪った。


 怒りと呪いで陸孫の頭には負荷がかかりすぎていた。いつのまにか気を失っていた。気がついたのは物音に気がついたからだ。


 まだ暴漢どもがいるのか、もう許せない。何があろうと殺してやる。


 陸孫は芋虫のように行李の中でばたばたあがいた。あがくうちに上に置いてある重石が落ちた。


 這いずり回って床に顔をこすりつける。くつわを取ると枯れた声で叫んだ。


「ごろしてやる!」


 睨んだ先にいたのは、涙を浮かべた男だった。男はぼろぼろになった母の骸の前に膝をついていた。


「こんなことになるなんて……」


 小太りの柔らかい笑みを浮かべていた記憶。


 玉袁がそこにいた。


 陸孫は体をよじり這いながら玉袁の足に食らいついた。普段の陸孫であればもっと冷静に対処できただろう。玉袁の目に浮かぶのは哀れみと後悔の涙であり、決して仇というべき相手ではなかった。


 玉袁は何も言わず、噛みつく陸孫をなだめる。


「すまない、すまない。私のせいだ。私のせいなんだ」


 食らいつかれた足に歯が食い込もうが、血が出ようが、玉袁は陸孫をなだめ続けた。


 


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― 新着の感想 ―
[一言] 玉葉后は陸孫を覚えているんだろうか?
[気になる点] 葉って、玉葉のことかな? だから、陸孫を見て反応したのか!
[良い点] .°(ಗдಗ。)°.うわーん
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