四十六、風は泣く 前編
「大人になったら風になるのですよ」
ずっと母から言い聞かされた言葉だ。十五の元服とともに外の世界に出る。それまで、世の中のことを勉強しなさいと言われた。
風となり、西の地の空気が澱まぬよう流れ続けなさいと。
陸孫が陸孫という名前でなかった頃の思い出だ。
女は街を守り、男は草原を走る。そのように教えられた。いつか家を出るのは寂しいが、風となり、耳となり、母と姉を助けるのなら良いと思った。
朝は教師に勉強を教わり、昼は街を散策、夜は母や姉に教えをこうた。
昼の散策は面白かった。与えられた小遣いをいかに無駄にせず、いい商品が買えるか。何に使ったら満足するか。それもまた勉強の一環としてあった。親族の男たちの多くは商人になる。陸孫もおそらくその道を選ぶだろう。
味と値段と量を比べ、一番手頃な干し果実と山羊の乳を買う。買って将棋道場へと向かう。
がやがやと暇な大人たちがいる。そこでは色んな情報も行きかう。酒場のほうが、より話を聞けるのだが、陸孫はまだ入れてもらえなかった。
酒浸りの暇人が多い中、たまに本物に出会うこともある。
「おう、坊や来たかい?」
将棋盤の前に座る老人は、公所で働いている元書記官だ。今は半分引退しつつ、文書を集めて新たに歴史書の編纂をしているらしい。西都では一番将棋が強い。
「うん」
陸孫は老人の横に座って盤面を見る。
「あれ?」
負けていた。珍しいな、と陸孫は老人の対戦相手を見る。
無精髭が生えている。よれよれの服で髪も結うというより括るに等しい。衣服の質は悪くないがどうにも状態がよくない。見た目は案外若そうだった。貧弱そうな体は西都の住人には見えなかった。
「なんかちまい歩兵がいる」
狐目の男は片眼鏡をかけていた。何から何まで胡散臭い。しかも歩兵などと言われた。
「坊や、怒るんじゃないよ。羅漢さんはそういう生き物だから」
「歩兵って」
「歩兵、いいじゃないか。周りなんざ、碁石なんぞ言われておったぞ」
「碁石」
歩兵とどこか違うのだろうか、と思いつつ将棋盤を見る。周りを莫迦にするだけあって、将棋の腕はものすごく強い。老人が負けるところを初めてみた。
気になって、翌日もその次の日も道場へとやってきた。羅漢という男は定職にもついていないのか毎日来ていた。老人はその日はいなかった。
「また来てるぞ、戌の子が」
老人がいれば聞こえることはない言葉も、一人だと聞こえてくる。
戌の子、戌の一族の子どものことを言う。西都を治める一族だが、一長一短ある。
女が長となり、生まれた男を追い出す。その女には夫はおらず、子どもは誰が父かもわからない。
元々、男尊女卑の強い遊牧の民の出入りが多い西都だ。言われることもあると陸孫はわかっている。父が誰かもわからない子のことを戌腹の子などと揶揄することもある。
それでも数百年、西の地を守ってきたのは戌の一族だという自負があった。
老人がいないので仕方なく羅漢の隣に座る。何度か顔を合わせているが、この男は陸孫を覚えようとしない。それどころか他の誰も覚えようとしない。ただ、自分の将棋盤の前に座って銭を置かれると将棋を指す、それだけだ。
「小父さん、顔を覚えないの?」
「人の顔、わからんもん」
「わからないって、何度も見たら覚えるでしょ?」
「碁石か将棋の駒にしか見えん」
何を言っているのかわからないけど、陸孫は羅漢が嘘を言っているように思えなかった。きっと羅漢にとって、家畜の顔を見極めるような難しさがあるのだろう。遊牧の民は羊の顔を全部覚えている者もいる。陸孫にはわからない。羅漢にとって人間の顔は羊の顔と同じ見え方をしているのかもしれない。
「じゃあ、どうしても判別したいときどうするの?」
「……」
羅漢は考えていた。陸孫の質問を考えつつ、将棋は容赦なく指す。対戦相手が青い顔をして負けを認める。
「耳の形を覚える、背の高さを覚える。髪の質を確認する。汗臭さを記憶する」
「顔覚えたほうが早くない?」
「顔はわからん。目や鼻や口はあるのはわかる。でもまとめるとこんがらがって碁石にしか見えなくなる。鼻の穴の大きさや、まつ毛の長さならわかる」
全体ではなく一つ一つの特徴を覚えるらしい。大変疲れるのでよほど大切な人以外ではやらないようだ。
「小父さんは中央の人?」
「ああ、そのうち帰る。帰らんといかん」
次の対戦相手を打ちのめしながら羅漢は言った。
母は風になって流れろと言ったが、中央まで流れるのを良しとしてくれるだろうか。
「中央で偉くなったら、仕事くれない?」
「んー、歩兵から出世したらいいぞ」
「わかった」
なんでも縁故は作っておいたほうがいいと姉からも言われた。商人になるなりなんなり、色んな人と知り合っておいたほうがいい。
家に帰ると夕餉だ。夕餉は一族総出で食べる。周りは女ばかり。元々、女が多く生まれる血筋で、昨年一人が旅立ったので男は陸孫しかいない。子どもは陸孫の他に年子の三人の娘がいる。陸孫にとっては従姉妹で三人とも父親が同じなのか顔がよく似ていた。姉はもう元服の年を過ぎているので大人の仲間入りだ。
陸孫は従姉妹の食事の世話をしながら、話に耳を傾ける。食糧のこと、渡来品の輸入のこと、茘から出す輸出品のこと。
母は一族の中心人物だった。今、戌の一族をおさめているのは母の妹で、陸孫の叔母だ。叔母には女の子どもはできなかった。このまま行くと、年齢や才覚からして姉が次の代の長になるということで積極的に会話に加わっている。
異国との交易で、今はとても大変な時期らしい。赤字が何年も続いていて、中央から文句を言われているようだ。茘は上質な紙を大量に輸出していたが、近年質が悪くなっている。軽くて運びに便利な主要な商品だっただけに、困っていた。
さらに、小さな蝗害も起きる。人口が増えたため農地も増やしたのが徒になった。中央は数値だけを見て、収穫高が変わらないと支援を断ったのだ。人は増えた分、食糧は足りなくなる。
「黒い石を出しましょう」
叔母が言った。
母も、母の姉も、姉も、年上の従姉妹たちも頷くしかなかった。
陸孫は黒い石とは何かわからず、三つになる小さな従姉妹の口に麺麭を運んでいた。
夜は姉と母に、戌西州の歴史を教わる。茘建国の際、王母の腹心の三人が三つの州の長になった。
西を治める戌の一族は、最初どうしようもなく苦労したらしい。男尊女卑が特に強い土地。一族の始祖は女であることを莫迦にされ、何度も騙されそうになった。名前を得るために甘い言葉をささやく者たち、力づくで奪おうとする者たち。
なので、家が乗っ取られることがないように、女系の家族体系を作った。婿は取らない。跡取りは皆女にする。
男には男の特殊な役割が生まれた。
その一つが、風になることだ。
風、もしくは耳役ともいう。
戌西州の各地を駆け、情報を集める。商人として、遊牧の民として。遊牧の民になった者は、後に風読みの一族と呼ばれるようになった。鳥を操り、虫を制御する。
ただ、誤算はあったのだ。
風読みの一族は五十年前に滅びてしまう。
いくつかあった風読みの一族の一つは、戌の一族との定期連絡を絶っていた。何年も、何十年も、何百年も戌の一族と分かれて時がたっていた。いつまでもかつての族長に忠誠を誓う者はいない。いつしか、他国との連絡を取る者が現れた。
そして、事件は起きてしまう。連絡を絶った風読みの一族は不幸にも全く違う部族によって滅ぼされてしまう。鳥を使う術を血筋によるものと判断したどこぞの者が、我が力にしようと女をさらった。そして、独り占めにするために他の者たちを殺し、生き残りは奴隷にした。
連絡を怠っていた風読みの一族を戌の一族は許すわけにはいかなかった。残った風読みの一族は解体し、能力があるものを街に住まわせた。時に悪用する者は人知れず処分することもあったようだ。
もし、風読みの一族が存続していたら、陸孫にもう一つ道が増えていた。風読みの一族の一員として草原を駆けるという道が。
母や姉は言った。鳥の扱い方は教えてもらわなかったが、どうすれば虫を御することができるのか。各地に残った農村の制度も教えられた。
もし、蝗害が起きたとき、各地に散らばった戌の一族の男たちが誰よりも動けるように――。