四十五、鶯は鳴く
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。
もうすぐ終わる。もうすぐ何もかも片付く。
足にまとわりつくような糸が切れていく気がした。まだ、首に巻き付いている無数の糸を断ち切るために動いていた。
もうすぐ、もうすぐだ。
棚に置いた風切羽根を見る。母が可愛がっていた鷹のものだ。母が死ぬとあとを追うようにして死んだ。世話を頼むわね、と言われたが困った。鳥の世話などやろうとも思ったことはなかった。
自分の名は、東の地に生息する鳥の名からつけられたというのに。どうせなら強い鷲の名前を付けてほしかった。
「玉鶯さま、面会を求める者がいますがどうしましょうか?」
副官がやってきた。玉鶯は椅子に座ったまま、書類を眺める。
「誰だ?」
「北西の村の拓跋という者です。どうしますか?」
どうしますか、というのは部屋に護衛を置くか、ということだ。
「いやいい。おまえも下がっていろ」
確か数十年前に定住した元遊牧の民がそんな名前だっただろうか。慣れぬ農業に何度も失敗し、父に金を借りに来ていたことを思い出す。父は優しく、金を貸した。返せぬ分は、農繁期の働き手として雇って払わせた。利息としては甘い。むしろ、教育代も考えれば、借りたほうが得をしている。それなのに、父は欲張らなかった。懐の広い男は、それだけ他人を養えるというのか。
今回も金の算段だろう。普通なら直接会うことはないらしい。直接会う玉鶯は変わり者だという。
なぜだろうか。玉鶯は父を真似てやっているというのに。
父のようになりたかった。
父の背中は大きい。玉鶯も大きくなった。だが、違う。
最初は別に気にしていなかった。
父と母で商売をして、使用人に囲まれていた。父は商売が上手く、母も賢かった。父に何が必要か確認し、動く。優秀な人だった。
玉鶯には、何不自由なかった。ただ、玉鶯が五つになった頃、違う母と子どもが家族に加わった。
父は新しい家族を可愛がる。妹だった。母も妹を可愛がり、二人目の母も玉鶯に優しかった。
また二年後、三人目の母と弟が来た。
四人目、五人目……。
どんどん増えていく家族。増えるたびに玉鶯は焦った。たっぷり入った蜂蜜の壺が、水でどんどん薄められている気がした。
父の選ぶ母たちは皆賢かった。ある者は馬術に優れ、ある者は算術が得意だ。母たちは自分の子たちに、それぞれ得意なものを教えていく。母たちが父を支え、母たちの補佐を子がする。
家族という繋がりで、新参者の楊一家は西都でどんどん大きくなっていった。
と、同時に父と玉鶯をつなぐものがどんどん薄まっている気がした。
「し、しつれいしやす」
少し怖気づいた声を出す拓跋。日に焼けた肌と、かろうじて西都でもおかしくない程度の服。農民は土の匂いがすると玉鶯は思う。
「どうした? 金の算段か? このご時世だ、特別扱いはできんぞ」
畑を作るのが下手なのは今も昔も変わらない。昨年も不作だと泣きついてきた。
「い、いえ。昨年の借りの件についてです」
玉鶯も父と同じようにこの男に金を貸している。このままでは飢え死にするというので、大きな額を貸している。もちろん、そのために文書も作っている。
父とまったく同じようにやっている。
「は、はい。ででも……」
「何が言いたいのか? ずいぶん、融通しているはずだが」
「そ、そうです、でも」
拓跋はいかつい風貌の割に、情けない目をする。
「書面には、有事の際に手を貸してほしいということでしたよね?」
「そうだ」
「有事というのは戦のことでしょうか?」
「他に何があるというのだ?」
父は農繁期に働くことで金を貸していた。
同じく玉鶯も有事に働くことで金を貸していた。この男、いや他に貸したいくつかの村長も有事など来るわけない、と施してもらったと勘違いしていた。
「あの、砂欧へ、戦を仕掛けるのでしょうか?」
恵んでもらった、と思っていた金に利子をつけて返せと言っている。至極まともなことを玉鶯はやっているのに、なぜ騙されたという顔をするのか。
「勝算はある。西への海路を手にしたら、我々は豊かになる」
陸路より海路を使ったほうがより西側の食糧は安定する。他国が非難しようが、以前と変わらず船の航行を許し、砂欧より関税を安くするだけで黙る国も多かろう。中継地点ということもあって、巫女の国はがめついところがある。
「し、死んだらおしまいです」
「死ななければいい」
強くあればいい。ただそれだけだ。
「あ、あんたはいい。旗を担いで後ろにいれば。先頭にたつのは俺ら、寄せ集めの兵だろう?」
「先頭か。ならば、一番最初に奪えるぞ」
拓跋の目が怯えた。そうだ、もうこの男は農民だった。草原を駆け、時に奪っていた遊牧の民ではないのだ。
「うちではようやく最後の子に男が生まれて、まだ十六なんだ」
「十六か、元服しているな。出世できるぞ」
「で、できるわけない。息子が行くなら、俺が……」
「無理だな」
書面の内容はどこも同じだったはずだ。
「年齢は十五から四十までだ。おまえはもう遅い」
似たような書面を見せてやる。
考えの至らぬ男はわなわなと震える。そして、玉鶯から書面を奪い取ろうとした。ひょいとよけると、無様にこけた。
もちろん、これは別の書面だ。破いたところで意味がない。
するとどうだろうか。拓跋は懐から小刀を取り出す。構えると玉鶯に向かって突っ込んできた。
これは仕方ない。
刃を向けてきたこの男が悪い。
親切に護衛もつけずに一対一で対話したのが悪かったか。ただ、玉鶯はこの程度の相手が襲い掛かってきてもすぐさま処分できる余裕はある。
立てかけておいた両刃の剣を手にする。鞘も抜かず、拓跋の腹を薙いだ。
苦痛で泡をふく拓跋。血走った目でこちらを睨む。
「この……戌腹の子め」
小さな声で何を言ったのか、玉鶯は聞き取れた。
気がつけば、鞘を投げていた。両手で握りを掴み、うつ伏せになった拓跋の背中のやや右よりに突き刺した。
声も出まい。口の泡に血が混ざる。
背骨と肋骨を避けて、心の臓を貫いた。手には小刀を持っている。逆賊としては十分な証拠だ。うめき声をあげ痙攣すると、絶命した。
外には誰もいないのだろうか。護衛はおかなくていいと言ったが、外にまで気を配らなくてもよいのに。しかも、武器を持っているところから、ある程度殺意があったことがわかる。
誰か呼ぶか、と玉鶯が思った時、扉に見慣れた男がいた。
「これはどういうことでしょうか?」
驚きつつも平静を装う男は、陸孫だった。父から玉鶯の補佐にと中央から来た男だ。
「どうにもこうにも、状況がわからないのか?」
「……この方は、昨年も公所にやってきた人ですね」
「そうだ。書面もまともに読まず署名をして、踏み倒しにきた」
「返り討ちにあったということでよろしいですか?」
「ああ。この程度で私が負けると思うか?」
まだ、顔がひくついている。拓跋がいけない。『戌腹』などと口にするから。
「ええ、玉鶯さまの腕には敵わないでしょうね」
陸孫は拓跋をしゃがみこんで観察する。
「こちらに非はないが、仕方ないことだった。できれば穏便にすませたい」
「はい、そうですね」
一瞬、体が冷たく感じた。どこだろうかと振り向くと、陸孫の顔があった。
「皆さまにはこう伝えておきます」
陸孫の冷ややかな顔。今度は体が熱く感じる。どうしたのだろうか。
「玉鶯さまは逆賊にあいました。そして、討たれました」
どういうことだ、と思う玉鶯だが、体がぐらりと倒れこんだ。
間近に拓跋の顔がある。その手には小刀は無くなっていた。
「私が来た時にはもう遅く、仕方なく私は逆賊をうちましたと」
何を言っている。意味が分からない。何か口に出そうにも声が出ない。口から赤い泡が出る。
「っ!」
声は出ない、鳥の鳴き声のようなうめきだけが出た。
「なんでという顔をしないでください。あなたは主役になれますよ」
陸孫は無表情のまま涙を浮かべていた。
「悲劇の主役に」
涙の粒が床に落ちてはじけた。
玉鶯の意識があったのはそこまでだった。
もう何を考えることも、成すこともできない。
あっけない終わりだった。