四十一、慰問 前編
壬氏が朝餉を食べ終えた頃に、猪のような男、いや馬閃がやってきた。
「なんですか? そんなに足音を立てて」
桃美が息子を叱る。
「母上! 今の状況に黙っていられないですよ」
「誰が母上ですか! ここは仕事場ですよ!」
馬閃は桃美に引っ叩かれる。かなり理不尽だが、これが高順一家の日常なので仕方ない。壬氏とて慣れた。慣れたが疲れた。また補充がしたくなる。
「あらあら」
水蓮は頬に手を当ててのほほんと笑い、雀は自分には降りかからぬように珍しく大人しい。なお、いつもどおり馬良は帳の奥で引きこもっている。紙をめくる音が聞こえるので、壬氏の仕事の準備をしているのだろう。
「馬閃、あなたは近衛としての自覚を持ちなさい。配下が慌てふためくのは、主の恥となりますよ」
「しかし、今のこの状況を黙って見ていられますか? 桃美殿!」
母上は駄目だと言われたので、言い換える馬閃。雀が笑いをこらえている。
「まだ、中央から来た官ならまだいい。だが、西都の官たちはなんでしょうか! 月の君は名ばかりの長で何もしない。玉鶯を見習ってもらいたいと笑っていたのですよ!」
また、桃美の手が飛ぶ。今度は裏拳だ。雀が「ひい」っと両頬を挟んで、頬をすぼめる。気になったのか馬良が帳の隙間からのぞいている。
「敬称をつけなさい。どんな野郎でも、位はあなたより上です。何か因縁をつけられたときは、月の君に泥を塗ることになります」
どんな野郎、などと言っているところを見ると桃美のほうもかなりたまりかねていると、壬氏にも理解できた。
生憎、壬氏は宦官時代にその手の言葉に慣れてしまったので、どうとでも思わないのだが。
このまま母子喧嘩されても困るので、仕方なく前に出る。水蓮が止めるという手もあるが、その水蓮が壬氏をじっと見るので仕方ない。
「二人ともやめないか」
『しかし』
こういう時だけ、声が揃う。
「つまり、私の印象が良くないのだろう、西都では。わかっていたことだ。今更なんだという」
「しかし、月の君がやったことまで、玉鶯……殿の手柄にされています。ここはちゃんと表に出るべきではないかと」
「……私が表に出てよいことなどあるか?」
『……』
皆が黙る。
まず壬氏は水蓮を見る。
「護衛を追加しないといけませんね」
次に桃美。
「立場上、玉鶯殿に許可をとりましょうか」
桃美にとっても、玉鶯は『さま』ではなく『殿』らしい。
「病人、怪我人の慰問ということで、医官も付き添わせましょうか?」
珍しくまともなことを言う馬閃。
「最近すっかり忘れちゃいますけど、月の君の顔に耐性を持つ人どのくらいいますかねえ」
と、雀の言で皆が『うっ!』と唸る。
「……嫁が、恋人が心変わりしたという苦情処理したくないです」
ぼそっと、帳の奥から馬良の声が聞こえた。
『……』
皆が黙る。
外の喧騒が聞こえてきた。今日もまたどこかで喧嘩が起きているのだろうか。
「こういうのはどうですかねえ」
最初に口を開いたのは雀だ。雀は壬氏の衣装箱から、帯を一つ取り出して、馬閃の前に差し出す。
「あら、そういうことね」
水蓮は何が言いたいのか理解したらしい。
「なんだ、どういうことだ?」
馬閃には状況が飲み込めないのか、首を傾げている。
雀はにいっと笑う。
「別に、月の君が表に出なくても、月の君が仕事をしているように見られたら問題ないんですよねぇ」
壬氏も雀の言葉の意味が理解できた。
「馬閃」
「はい、なんでしょうか?」
「その帯はやろう。早速、身につけて私の代わりに仕事をしてきてくれ」
「はあ?」
馬閃はぽかんとした顔で、帯をじっと見た。
〇●〇
西都の広場の近く、元は空き家を改造した場所が、簡易診療所になっていた。開店前だが、もう列が並んでいる。
蝗害騒ぎで出た怪我人や病人を無料で診ているという。炊き出し場所も近いということで、診療所はにぎわっていた。
「娘娘が手伝いか」
そう言ってくれるのは、李医官だ。中堅医官でやたら真面目で堅物の男である。だが、間違った名前で憶えている。
(西都に行くってときどうなるかと思ったけど)
生真面目な医官は、日に焼けて色黒になり、連日の労働によるためか少し頬がこけている。だが痩せたというより引き締まった印象で、当初感じていた優等生の雰囲気から野性味が加わっていた。
「はい、月の君より命を承りました。虞淵さまは、月の君のもとを離れるわけには行かないので、私がかわりにやってきました」
猫猫とて学習する。やぶ医者の名前は覚えた。
(やぶがおやじの影武者とか知らずにやっているけど)
この部屋には他に護衛の李白と雀、馬閃に李医官の四人しかいないので口にしても問題ないだろう。挨拶だけだが、患者を後回しにして申し訳なく思っている。
なお、猫猫が仕切っているのは馬閃の挨拶はとうに終わっているからだ。馬閃は落ち着かぬ様子で診療所の中を見ている。部屋の外には護衛があと二人いて、馬閃を守る形になるが正直いらないとはいえない雰囲気だ。
(落ち着かないよなあ)
馬閃は普段の武官服ではなく、少し洒落た服を着ていた。そして、腰には壬氏から下賜された帯を付けている。貝で染めた鮮やかな紫は、庶民には手に入る物ではない。わかりやすく身分をわからせるにはちょうどいい。
つまり、壬氏の代理で慰問に来ているという形だ。
(慰問っても)
向き不向きがあるだろうに、と猫猫は思うが、この状況で壬氏が表に出るわけにもいかないだろう。
「薬については、おまえが率先して作っていると天祐から聞いた」
「そうですか」
まともな薬が足りていないと文句を言われるかなと覚悟する猫猫。
「送られてくる薬はまあまあだった。代替品にしては頑張っている」
一応褒められているようだ。
「何かお手伝いすることはありませんか?」
「仕事ならいくらでもある。さらしの洗濯、煮沸、絶えない喧嘩の怪我人の治療だ」
「わかりました。優先順位は怪我人の治療でよいでしょうか?」
「では私は洗濯しますね」
ひょこっと雀が口を出す。
「俺はどうすればいいかねえ」
「護衛のかたは大人しく座っていてください。それが一番役に立ちます」
妙に据わった目で李医官が返す。
「わかった」
李白は入口のところで立つ。
「わ、私は……」
馬閃は自分の立ち位置が普段と違うのでどうにも居心地が悪い。誰かに命令されたほうが簡単だと、李医官を見る。
「ええっと、馬閃さまは……」
元々優等生の李医官は答え辛そうだ。仮に何か命令して失礼ではないかと、緊張している。
「馬閃さまはこちらに座ってお薬を渡すのはいかがでしょうか? 私が用意しますので、袋にいれて渡してください」
「わかった」
変に複雑な仕事をさせるのも、力仕事をさせるわけにもいかないのでこういう妥協案になる。
「ついでに慰労の言葉もかけてください」
「何と言えば?」
「うーん『茘の民には健やかに生活してほしい』とかですかねえ。『お大事に』じゃあ、馬閃さまには少し変ですしぃ」
雀が口を出す。一応義弟に『さま』をつけている。
「そうですね。『茘の民』という言葉は忘れないでほしいですね」
李医官の言葉に猫猫は妙に引っかかる。
「楊医官はどちらでしょうか?」
「あの方は、診療所に来られない患者を診て回っている。元々、西都出身ということもあり、地理はわかっているからな」
「そうですか」
李医官は、楊医官についてどこかとげがある言い方だった。
「楊医官がどうかされましたか?」
もう少し探りを入れてもよかったが、患者が待っている。さっさと終わらせよう。
「楊医官は別に玉鶯さまの親類ではない。だが、患者は親族だと思う。楊医官はすばらしい医官であるが、政治関係には疎い。そういうことだ」
なるほど、と猫猫は手を打つ。
楊医官の仕事ができればできるほど、なぜか壬氏ではなく玉鶯が評価される。
(人選まずかったかなあ)
いや、当初の人選では最良だっただろう。時期が悪かっただけだ。
人選ついでに天祐の存在も思い出す。
「天祐さんは?」
「今日は、楊医官の付き添い。傷口の縫合は本当に上手いからな」
確かに上手いと猫猫も記憶している。いろいろ一番若手ということで、こき使われているようだ。
「では、そろそろ患者も待っているので、診療所を開いてもいいですか?」
李医官が言うので、猫猫たちも頷いた。