三十八、火種
身の安全のため、という言葉を何度聞いただろうか。
壬氏は、軟禁に近い生活をもう一月以上続けていた。行動範囲は、玉袁の別邸。時に、呼び出され、本邸や公所へと招かれるが、周りには厳重に武官たちがはりつく。動きようがない。
移動の際、ちらりと馬車の外を見ると、荒れた様子がわかる。しかし、本来ならこの程度の荒れかたではすまないだろう。
壬氏はある程度、蝗害が起こることを前提に考えて西都へと来た。いくつか過去の蝗害について文献も調べた。作物は食らいつくされ、飢えた人々は人さえ喰らう。
蝗害が起これば国が滅びる、などという言葉はなまじ嘘ではないのだ。
そして、その矛先は自然と皇族に行く、と玉鶯は言った。
今、壬氏の行動は玉鶯に握られている。壬氏の周りの者たちは、それを快く思っていない。それどころか、煮え切らない主人だと思われているはずだ。
壬氏には立場がある。
皇弟として、西都の視察に来たという名目だ。視察であり、あくまで客人だ。
この形を崩そうものなら、後々弊害が生じてくる。
そう思っていたが。
「月の君は、ちょっと下手に出すぎだと思いますよぅ」
馬車の反対側に座った雀が涼しい顔で言う。護衛の他に侍女を一人つけるのだが、水蓮でも桃美でもない。
年齢もあるが、一番不測の事態に動ける者を連れていく。今回、護衛には古参の者を連れてきた。力としては馬閃のほうが強いのだが、向き合う相手の相性が悪い。西都での壬氏の扱いに一番腹を立てているのは馬閃だ。力が強くとも、心を律するのが上手くなければならない。
「あれでは無能なぼんぼんが引き立て役をしに中央からやってきたと思われますよ」
雀は器用に指先を動かして、小さな玉をいくつも指の間に挟んでいる。増えたり消えたり忙しい。
「わかっている」
そのために今公所へと向かっていた。
壬氏は客人という立場であるが、西都ではやるだけの行動をしてきたつもりだ。事前に用意してきた食糧を使うようにと使いを出し、それはすぐさま使われた。近隣の村々へと使いをやり、被害状況を把握する。被害状況に応じて、必要な食糧を試算する。文官である馬良を連れてきて良かったと思った。
都の支援がはやかったのは、羅半兄から鳩で連絡が届いた時点で早馬を走らせたからだ。ここでも鳩がいれば良かったが、都で育った鳩を持っていないので仕方ない。何かあったときはそれこそぼんぼん皇族の勘違いで済ませれば良い。
主上と幾人かの重鎮、部下には蝗害の可能性を視野にいれて話していた。そして、西都で起こる可能性も話していた。
だからだろう、予想以上に救援がはやかったのだ。
ただ、救援を頼んだのは壬氏の独断である。蝗害が必ず来るという確証はなかった。故に、支援の船も最悪停泊を断られる可能性も示唆した。
結果、壬氏は自分が泥をかぶろうとも、手柄を玉鶯という男に譲ることにした。
蝗害が来てすぐ壬氏の元に玉鶯の使者が来た。壬氏は、無事であることを伝え、同時に『都に救援を頼んでいいか?』と確認した。そして、物資の受け取りは、玉鶯にしてもらいたいと伝えた。
結果、元々壬氏が持ち込んでいた食糧も玉鶯が配ることになった。
真実を知る都からの部下たちは、憤りを覚えていたが、ここは西都だ。壬氏が配給を行うとして人員は足りない。炊き出しを行うような使用人はさほど連れてきていない。
迅速に行うには、玉鶯の力を借りるのが一番はやい。
天災により人の心が乱れるのは、何より不安が募るからだ。粥一杯、握り飯一つ、手元に配られるだけでいくらかの不安は紛れる。
市井の物価も知らないと何度も呆れられた壬氏だが、ここ数年で少しはまともになったと思っている。
豊かな都でも、腹を空かせた子どもが空の茶碗をおいて物乞いする姿。顔を隠し暗闇に客を引き込もうとする夜鷹。実の子を娼館に売りに行く親。
視察と言って馬車の中から見下ろすよりも、足を地につけて歩いたほうがいやというほど見えてきた。
絹の肌着を着せられ、混じりものがない白い粥を食み、澄み切った湯に毎晩浸かる。
今も飢えることなく壬氏はいる。その立場は何のためにあるのか。
くだらない矜持があるなら捨ててしまえ。おだてて目立つ場面に立ちたいなら立たせてやればいい。意固地に支援を拒むより、利用されたほうがずっと楽だ。いや、利用しているのは壬氏のほうだとさえ思う。
皇弟は無能であればいい。民には莫迦にされたとて問題ない。傀儡に仕立て上げる気もなくなるような存在であったほうがいい。
馬閃に知られたらどう思うだろうか。怒り狂いつつも、壬氏に当たることができず部屋中の物という物が壊れるかもしれない。
壬氏は、壬氏という名を気に入っている。たとえ、数多の女の園の花たちを、宦官たちをだますために作った仮の名だとしても。
誰にも呼ばれることはない『華瑞月』よりも、口に出してもらえる『壬氏』のほうが良い。
もっと気安く話しかけてもらえたら、などと言っても高望みだとわかっているが。
そうこう考えているうちに、目的の公所についた。
「つきましたよぅ」
雀が目を細めて外を見る。
壬氏は、気持ちを切り替える。
気安いと、なめられるは別のことだ。
用意された部屋には円卓があった。
すでに、玉鶯と羅漢が座っている。羅漢は暇だったのか、詰碁をしていた。
部屋の隅には、何やら文書を持った官たちが待機している。
壬氏の護衛と雀が目配せをしていた。
雰囲気としては、前回、前々回にあったときとは違う。何より、羅漢が同席していることが気になった。この天才肌だが気まぐれな男は、何をどう行動するか動きがつかめないところがある。席につかせている時点で、どういうことだろうか。
「お呼び立てして申し訳ない」
玉鶯が立ち上がる。
やはり馬閃を連れてこなくて正解だった。皇族が部屋に入ってきた時点で座っているのは不遜と捉えられる。ちなみに羅漢は詰碁の続きをしていた。
「何の用だろうか? 蝗害の話についてなら、資料をいくつか持ってきたが」
雀がささっと文書を出す。
壬氏たちなりに試算した食糧の分配について書いている。また、それでも足りなくなるために食べられる救荒作物や、育ててから収穫がはやい作物も調べていた。このあたりは、猫猫や羅半兄の知識を頼っている。また、薬など食糧の次に支援が必要な物資についてもまとめていた。
「蝗害については、月の君の応援で大変助かりました。中央からの支援がこれほど早く来るなど思ってもいなかったのでね」
それは早いだろう。壬氏の申告の数日前に支援を頼んだのだから。
「それでは追加の支援か?」
壬氏も資料に目を通している。今の食糧事情だと、おそらく二、三月がせいぜいだ。支援にも限りがある。できるだけ早く収穫できる作物を育てないといけない。
「ええ、支援をお願いしたい。人的支援を」
「人的? それはどういう意味だろうか?」
確かに人手は足りないが、下手に人を増やしたところで養えない。農民を増やせというのであれば、現地民を教育したほうがいいだろう。
「武官を頼みたい」
「武官? 盗賊の制圧か?」
食糧の有無によって貧富の差は如実に現れる。貧しい者は食うのにも困り、犯罪へと走る。食糧支援を急いだのは、犯罪に走る前に食わせることでその衝動を押しとどめることができるからだ。
玉鶯がにやりと笑う。あまり玉袁には似ていない顔だ。商人というより武官、優というより勇の男である。
後ろにいた官が玉鶯に大きな紙を渡す。
「これを見ていただきたい」
玉鶯が卓の上に地図を広げた。戌西州の地図だが、各所に墨で丸が書かれてある。丸は黒丸と赤丸で色分けされており、西側ほど赤丸が多い。
「ふうん」
詰碁をしていた羅漢が顔を上げた。
「盗賊か?」
「ご名答」
丸は盗賊が現れたことを示しているようだ。
「異民族の襲来が多いな」
「すぐわかりましたな」
玉鶯は満足そうに羅漢を見る。
つまり、赤丸が異民族と思われる盗賊の仕業ということか。戌西州は国境沿いであるが、それにしても多いなと壬氏は思う。
「増えているのか?」
「ええ、昨年も多かったのですが、やはり今年は特に多く。いくらかではありますが軍備のほうを整えたのですが、まさか蝗害が起こるとは」
徴兵を進めているという話を聞いたが、ここでこう言われると何も言えなくなる。玉鶯とて莫迦ではない。
「蝗害が起きていたからこそ、茘までやってきていたと考えるのが妥当でしょう」
蝗害は広範囲に及ぶ。なんの対策もしていないのであれば被害は大きい。他国でも同様の被害があると考えてもおかしくない。
「それで、異民族の制圧か?」
数年前にもあったことだ。あのときは追い返すだけで済んだ。場所は戌西州ではなく、子北州の西側だったろうか。
「いえ」
玉鶯は地図をさらに追加して重ねる。今度はさらに広域の地図で、砂欧と北亜連、亜南も範囲に入っている。
「ここを狙いましょうか」
玉鶯が指したのは、砂欧だった。
「……どういう意味だ?」
壬氏は確認するように、玉鶯を見る。
「見ての通りです。今回の被害が大きかったのは西。各国で被害が出ているとして、他国から作物を輸入するのは難しくなる。だからと言って、西に食糧を陸路で届けるとどうでしょうか?」
おそらく十分な量は行き渡らないだろう。また、異民族の襲来はもとより、他国からの侵攻も考えられる。
「西に食糧を届けるのに一番早い方法は何でしょうか? 陸路ではなく、海路だと思いますが」
そして、交易を中心とした国である砂欧。海からも、陸からも接続が良い。確かに、食糧の安定供給を考えれば、砂欧の港を自由に使えると楽になるが。
「そのために戦を仕掛けると?」
壬氏はできるだけ声をおさえた。手柄の横取りくらいいくらでもされてやろうと思っていたが、さすがにこの発言はいただけなかった。
民を飢えさせないためにやることが略奪だと。
これでは、盗賊と変わりない。
「おや? 反対でしょうか? 何より、砂欧に対して、大義名分があるのは、月の君のほうであったと記憶していますが」
玉鶯の言葉は自信にあふれていた。
壬氏は何を言っているのかわかった。砂欧の巫女のことを指しているのだ。
表向き壬氏は、砂欧の巫女を死なせてしまい、そのため砂欧には借りがある形になっている。
実際には、巫女は生きており、内密に匿っていることを玉鶯は知らないだろうが。
「巫女を殺したのは、元は砂欧の女。いくら、後宮入りした中級妃とはいえ、他国の女がやったことをすべて茘のせいにするのはどうかと思われますが」
確かに周りから見たら一方的に損害を被ったことになる。さらには、皇族に恥をかかせたことになろう。
「砂欧は巫女を殺すことで、茘を脅すことを目的とした。戦の名分には十分ではないでしょうか? 皇弟殿」
戦の名分など、時代によっては何でもある。皇族に恥をかかせた、それだけで一族皆殺しなどあり得るのだから。
「どう思いますか? 羅漢殿」
羅漢に問いかける玉鶯。
羅漢は地図をじっと見ている。盤遊戯をする目だった。副官のほうに手を伸ばし、袋を受け取った。袋の中身は将棋の駒のようだ。
「儂は大義名分などよくわからん。ただ、将棋で勝つだけだ」
と、地図に駒を並べ始めた。副官が、壬氏を申し訳なさそうに見ている。
羅漢に悪意はない。しかし、善もない。自分と身内に害がなければ何も気にしない。ただ面白い遊戯に参加する機会があれば逃さないだろう。
羅漢を呼んだ理由がわかった。
「もし、月の君が旗印となっていただけたら、西の民はさぞや高揚するでしょう」
玉鶯が壬氏を呼んだ狙いはこちらだ。
「客人としての貴方ではなく、指導者としての貴方を皆が見たいと思うのでは?」
玉鶯は思い違いをしている。壬氏が自分の立場を表に出したいと思っているのだろうか。それとも、皇族としての矜持をくすぐろうとしているのか。
「そのときは、私は全身全霊を以て、貴方の右腕となりましょう」
ぎらぎらした視線が痛い。本当に玉葉后と血がつながっているのだろうか。
その目は戦がしたくてたまらないと語っていた。
「……武官を呼んだとしても、戦となれば人がいる」
「ええ。西の地には、忠義心の強い者は多い。たとえ農民であろうと、有事の場合には力を貸すという者が多くいます。皇弟殿の旗頭、羅漢殿の戦略。そして、微力でありますが楊一族が補佐します」
「楊一族か」
玉袁は元商人だが、戌西州全域に力がある。
壬氏は目を細める。
「では、玉袁殿はこのことを知っているのか?」
一瞬だが玉鶯の眉が動いた。
「父は昔から砂欧の地に手が伸びれば、と口にしておりました」
「ほう、ではまだ知らないというわけか」
壬氏はあくまで冷静に返す。
後宮の、女の伏魔殿にいた頃を思い出す。しかし、女の嘘に比べれば、男の大口などいくらでも粗を探せる。
「確かに海路を考えれば、砂欧の港は喉から手が出るほど欲しい。しかし、弊害が多すぎるぞ。陸路で砂欧に面している国はどうだろうか。そこからの品は来なくなるだろう。また、中立地として成り立っている国を襲うのはいかがなものか。玉袁殿であれば、そこをしっかり算出すると思われるが」
玉袁は元商人だ。目先の益だけを見ない。弊害をしっかり確認するはずだ。たとえ息子から相談する文を貰おうと、時期尚早だと言い聞かせるはずだ。
玉鶯の目は、玉袁の名を出すと揺らいだ気がした。
そして怏怏とした空気を玉鶯が周りにまとっていると感じた。
壬氏は表情を緩めない。玉鶯にとって皇弟であろうとも、まだ己の半分しか生きていない若造だろう。空気で押し込もうとしたのだろうが――。
「私は中央の代表で来ている。同時に、主上の目としてきている。目が勝手に旗印になるのはおかしかろう」
『主上』という言葉に後ろに控えていた官たちに動揺の色が現れる。官たちは皆、西都の者。すなわち、玉鶯に肩入れし、壬氏のことをでくの坊と思っているのだろう。
でくが主人に反抗したら、どよめきたくもなるはずだ。
玉鶯とて、簡単には引かない。
「では、貴方は主上の目であり、自分で判断を下せないというわけですか」
やはり馬閃を置いてきて正解だった。
「判断しているから言っている。砂欧を攻める上で、利益より被害のほうが大きいと算出した。その計算を皆はしたか? 商人ならば得意であろう」
あえて挑発するように言った。ここでは完全に玉鶯の領内である。壬氏とて負ける喧嘩はしたくない。ここで援護が欲しいところだ。
「砂欧を攻めるとしたら北亜連がまず黙っていない」
「北の蛮族の集まりを恐れるというのですか?」
「そうだな。北亜連で取れる赤鹿には世話になっている。鹿の角は、良い精力剤になるのでな。後宮では主上と妃たちのために毎晩用意していた、良い薬だ」
壬氏は自虐も込めて返す。挑発を受け流すなどたやすい。
「あと虎もな。北の地には大きな虎がいて、その骨を酒にする」
虎骨酒という。滋養強壮に良いそうだ。
壬氏が薬に詳しくなったのは言わずもがな。
「薬に詳しい医官に教えてもらったもので、たいそう効き目が強かった」
正しくは医官ではないが、聞かせたい相手には通じただろう。また、効き目も本当のところはどうか知らない。その手の薬膳は後宮の料理人に任せていた。
「薬に、酒か」
つぶやくのは羅漢だ。
「なあ、音操。戦が始まったら、そういう薬は手に入らないか?」
「入らないことはないかと思いますが、たいそう高くなるでしょうね。大体、戦が起こるだけで薬は品薄になります。医者や薬師は困るでしょうね」
「そうか」
羅漢は並べていた将棋の駒を袋に戻すと、立ち上がった。
「羅漢殿、いかがしましたか?」
「すまんが、儂、帰る」
羅漢はそう言って背を向けた。
「羅漢さま、お待ちください」
音操と呼ばれた副官は、羅漢のあとを追う。
ぽかんとした西都の者たちを見て、壬氏も立ち上がった。
「軍師殿は、戦の気分ではないらしい。私も帰るがよろしいか?」
玉鶯は何も言わない。
壬氏はそのまま立ち去る。
「悔しそうですねえ」
雀が小声で言った。
生憎、羅漢の性格については壬氏のほうがいくらか熟知していた。