三十五、兄帰る
「なかなか面白いことになっているようだな」
(なーんか久しぶりな感じする、この嫌味)
猫猫は、やぶ医者を帰したあとの定期検診の居残りをさせられていた。表向きは水蓮、桃美の健康診断だが、実質壬氏との質疑応答だ。
「陸孫というのは、ずいぶん親しいのだな?」
「別に親しいというほどではありません」
「本当にそうか?」
(いや、本当だって)
じっと猫猫を見る壬氏。
雀がぺろっと舌を出し、右手で額をこつんと叩いている。
(うん、腹立つよ、君)
雀も仕事だとわかっている、わかっているのだが。
「わざわざ農村に同行しようとしていたのは?」
「平民は乗り合い馬車のほうが安くつくと知っているからです」
「うむ」
壬氏はどうにも煮え切らない顔だ。
「では帰ってもよろしいですか?」
あれから、血止め薬と擦り傷の軟膏を追加して作るように楊医官に言われて、せっせと作っている最中なのだ。
ずん、と高い壁が前に現れる。座っていた壬氏が目の前に立っていた。
「なにか?」
案の定、お気に召さぬ様子だ。
「別に親しい仲でもないのに、最近は求婚などされるのだな」
単刀直入に来た。
「冗談だそうですよ」
「冗談で言うことか?」
「李白さまの簪と同じ、社交辞令かと思われます」
李白のときも何かしつこかったのを思い出す。堂々とはっきりと言っておけば問題ないと信じる猫猫。
「……」
壬氏は周りを見る。
雀に水蓮に桃美が同じ部屋にいる。見えないが馬良も近くにいるし、馬閃は護衛としてそう離れていないはずだ。
何か言いたいことがあるが観客が多いらしい。人払いしておけばよかったという顔だが、現在の状況ではそれは叶わぬものだろう。
(亜南とは違って、ここは外に出ると丸見えだからな)
外に呼び出すこともできないし、追い出すこともできない。
「……」
無言が続く。壬氏自身もどうしようか考えているようだ。
「あの」
帰っていいのか聞こうとした時だった。
左手に触れられたかと思ったら壬氏の手があった。猫猫の左手は壬氏の右手に持ち上げられ、指を組まれた。ぎゅっと長い指が猫猫の手の甲をおさえ、手のひらには壬氏の手のひらが密着する。
どくんどくんと血流を感じた。爪は綺麗に整えられているが手のひらに固くできた胼胝の感触。墨で指先が少し汚れていて、やや汗ばんでいた。
(結構時間長いぞ)
猫猫も手汗をかき始めていた。その前に外したくて、口を開く。
「何をしているんですか?」
「……補充くらいいいだろ」
壬氏はすねたような声を上げると、ようやく外してくれた。手の甲にはうっすら赤い痕がついている。
「補充」
「補充ですか?」
「そうだ。客人なりにやることはたくさんある。疲れもする」
猫猫は壬氏の机を見る。書きかけの文があった。反古にされた紙が屑籠に重なっている。指先も汚れていることから、だいぶ書いたに違いない。
(中央への手紙か)
状況を伝え、どの程度の被害があり、いくら支援物資が必要か。西都の主が玉鶯であったとしても、壬氏から連絡したほうが円滑なこともある。また、手柄が横取りにされることもあるかもしれない。
「壬氏さまは、自分の手柄を取られて悔しくないのですか? 西都の民には、配給を玉鶯さまからの物だと思われているはずですよ」
猫猫の発言に、水蓮は無言で穏やかに笑い、桃美と雀は「うんうん」頷いている。やはり侍女として思うところはあるようだ。
「別に私が西都でどう思われようが関係ない。どういう形であれ、玉鶯殿に任せたほうが、円滑に物資はいきわたるだろう。それに――」
「それに?」
やはり壬氏は自分が目立とうとは思っていないし、民衆が助かればそれでいいようだ。
「幾人に認められるかでなく、誰に認められるかのほうが大切だ」
壬氏は猫猫を見る。
(誰に認められるか、か)
それはそうとして。
「帰っていいですか?」
「勝手にしろ!」
わかりました、と猫猫は部屋を出る。
侍女たちの視線が妙に生ぬるかった。
部屋を出て、猫猫は扉を背にして手のひらを見る。
「……いや、ちょっと」
周りの目があったからといって、もっと違う何かがあろうに。
(いやいやいやいや)
なんとも言えなくなって、扉にずるずると寄りかかる。
「こっちのほうがよっぽど恥ずかしくないか?」
猫猫が思わず漏らしてしまったところで。
「何がだ?」
「⁉」
外で護衛をしていた馬閃に声をかけられ、猫猫は軽く飛び上がってしまった。
蝗害第一波が来てから十日目。
第二波らしい蝗の大群がやってくる。初回に比べて数は少なく、対処は出来ているようだ。
十三日目。
不審火が起きる。食糧強奪のためにやったらしく、火付け犯はすぐに捕まる。
十五日目。
食糧問題。随所で買い占めが起きている。住民の小競り合いが各所で起きている。
十六日目。
他の被害にあった地方から来たものが西都にやってくる。その中には、皇弟を出せという者もいるという。
十八日目。
「生きていたんですね」
猫猫はぼんやりとその浮浪者を見た。浮浪者という言い方は悪いが、どう見てもそれにしか見えない恰好だった。
「生きてるよ!」
髭を生やし、ぼさぼさの髪、ところどころ食いちぎられた着物を着た男。だいぶ印象は変わっているが、遠い地に旅立った羅半兄だった。
難民の一人が猫猫の名前を出すというので、役人に呼びつけられたのだ。そして、来てみればぼろぼろの羅半兄がいたわけだ。少し暴れたらしく、牢屋とは言わないまでも、狭い個室に閉じ込められていた。ここのところ暴徒が多く、役人もぴりぴりしている。
あまりにみすぼらしい恰好なので、雀に着替えを用意してもらう。その間、どういう状況だったのか聞くことにした。
雀は猫猫が出かけるときには常についてくるのが普通になった。なお、護衛には李白がついている。
「しかし無事でよかったです。皆心配しておりました」
「あー、うん、心配してた」
李白と共に猫猫は、社交辞令を言っておく。なんとなくしぶとそうな感じがして、皆羅半兄のことはそれほど心配していなかったとは言えない。むしろねたにされていたとは、口が裂けても言えない。
「なんだよ、畜生。予想よりずっと早いじゃねえか! 蝗害の発生はよ。こちとら急いでやったんだぞ!」
「はい。順調だと皆話していました。さすが玄人だと」
「玄人とかいいから! あー、本当に死ぬかと思ったし、実際死にかけたし、実は死んでるかもしれない」
「生きてます、大丈夫です」
猫猫はぺしぺしと羅半兄を触る。実体はちゃんとあった。
「頭もだいぶ齧られてんな」
李白はぼろぼろの頭に、櫛を入れてやっている。護衛がすることではないが、羅半兄に対する申し訳なさの表れだろうか。ただ、大男の仕事だけにすこし杜撰で力が強く、羅半兄の顔は引きつっている。
「いてえよ、いてえ」
「あれ、なんですかこれ?」
猫猫が触っている中、背中のあたりに何かがある気がした。
「あっ、これはな」
羅半兄がぼろ布みたいな上着を脱ぐ。背中に密着して、手ぬぐいの包みがあった。中を開けると麦の穂が入っている。
「麦ですね?」
「麦だな」
猫猫と李白はのぞき込む。
「そうだ」
「後生大事になぜ麦を?」
いくら飛蝗から麦を守るためとはいえ、たったこれだけの麦を肌身離さず持つ理由は思いつかない。
「それがな、蝗害が起こる直前な――」
羅半兄は、村の話を始める。小麦を多く作る村だが、村長がある話をしたのだという。
「とある家の小麦がな。いつも他の家よりも収量が多かったんだよ」
「ほう」
「それでその家の育て方とか、畑とか見てまわって調べてくれって頼まれたんだ」
その家の住人はこれといって特別な育て方はしていないし、畑の土も日当たりも他の家と変わらないものだったという。
ただ違ったのは――。
「小麦は一つ前に作った小麦を残してそれを種に作るんだけど、偶然にもその家の小麦はある種のものが多かったんだよ」
「ある種?」
猫猫は小麦をよく観察する。特に変わったところはない気がした。
雀が帰ってきて着替えを持ってきたので、羅半兄はそのままぼろの上着を脱ぎすてて着替え始める。
「おっ、いい身体してますねえ」
雀が茶々を入れる。
「まじまじ見られるとやりにくいから」
しっしと雀を追い払う羅半兄。
「いや、いい肉付きしてるぞ。武官にでもなれそうだ」
「武官? そうか?」
武官と言われて満更でもなさそうな羅半兄。普段、農民扱いしかされていないので新鮮なのだろう。
「すみません、話を続けてください」
「……わかったよ」
ちょっと残念そうに羅半兄は説明を続ける。
「その小麦は他の小麦に比べて背丈がかなり低かったんだ。たぶん、畑で何度も作っているうちに、短い小麦ができて、そればかり増えるようになったんだろうな」
「短いとどうなんです?」
雀が質問する。
「麦に限らず稲もだけど、背が高くなると風にあおられる。倒れやすくなる。倒れてそのまま茎が折れたり、腐ったりしたら終わりだ」
「ほうほう」
なるほど、だからその畑に偶然背の低い小麦が出来て、そのまま増えていったということか。
「あともう一つ、仮定なんだけど」
羅半兄は着替えて少しはまともな姿になった。髪紐を貰い、ぼろぼろの頭をくくり始める。
「他の小麦に比べて粒がしっかりくっ付いているみたいだ」
「くっ付いている?」
「収穫の際、小麦の穂にどれだけ粒が残っているか。これはかなり収量に影響するんだ。収穫する前に穂から小麦の粒が落ちたらどうなる? 農民は忙しくて、地面に落ちた粒まで拾えないだろ。収穫前に一割落ちれば一割減り、二割落ちれば二割減る」
そのままの計算だ。
「そうだな。これは残っている粒が多い。もし、この種を育てて、短い丈でなおかつ粒が落ちにくい小麦が育てば、収量増が期待できる」
「それでわざわざ持ってきたと」
猫猫だけでなく雀も李白も感心する。
きっと二人とも猫猫と同じことを考えているに違いない。
(生粋の農家だ)
そういえば、蝗害を最初に知らせたのは羅半兄の手紙だ。
(功労者としてちゃんと労わないとなあ)
食糧が少なくなっているが、今日はちょっとご馳走を作ってもらわねばと猫猫は思うのだった。