26 里帰り
帰りたい、帰りたいといっていた花街は、それほど遠い場所ではない。
後宮ひとつで町ひとつと変わらない大きさだが、それをすっぽり囲むのが王都である。
花街は宮廷の反対側にあり、高い塀と深い堀をこえれば、歩いて行ける距離にある。
(馬車で行くなど贅沢なのに)
隣に座る大男、李白は馬の手綱を持って鼻歌を歌っている。
木簡を渡し、話が本当だとわかったからだ。
憧れの妓女に会えるなら、そんなものなのだろうか。
妓女と言っても、一括りにしてはいけない。
身を売るものもいれば、芸を売るものもいる。
売れっ子と言われるものほど、客は多くとらない。それによって希少価値を上げるためだ。
茶を一つ飲むのに銀をいくらでも払わねばならない、夜伽などもってのほかだ。
そんな奉られた存在は、一種の偶像となり、市民の憧れとなるのである。
町娘の中には、憧れて遊郭の門をたたく者もいる。それになれるのはほんの一握りだというのに。
緑青館は王都の花街の中でも老舗で、中級から最上級の妓女を取り揃えている。
その最上級の中に、猫猫が小姐と呼ぶものたちがいる。
がたんがたんと揺れる馬車から懐かしい風景が見える。
食べたかった串焼き屋は、香ばしい匂いを通りにまき散らしていた。
水路に沿い柳が揺れ、薪売りが声を上げている。
豪奢な門をくぐると、極彩色にまみれた世界が広がっている。
まだ昼間というだけに、人通りも少ないが暇な遊女が二階の欄干から手を振っている。
一際大きな門構えを持つ楼閣の前で馬車は止まった。
猫猫は軽い足取りで馬車を降りると、入口に立つ老婆に駆け寄った。
「ひさしぶり、婆さん」
煙管を噛む痩せた女にいった。その昔、真珠の涙を持つと言われた遊女は、今では、涙も枯れ果て枯木のようになっている。身請けも断り、年季が明けても居残り続け、今では誰もが恐れるやり手婆になっている。時は残酷だ。
「なにが、ひさしぶりだい。こん莫迦娘」
みぞおちに衝撃が走る。
胃液が逆流し、口の中が酸っぱくなるのも懐かしいと思うのだから不思議なものだ。
過去、何度これで摂取量をこえた毒物を吐き戻したことだろう。
基本、お人よしの李白はわけがわからないまま、猫猫の背中をさすっている。
なんだ、この婆と顔が語っていた。
汚した地面をつま先で土をかける。
隣の李白は心配そうに猫猫を見る。
「ふーん、これが上客かい?」
値踏みをするように李白を眺める。
馬車は店の男衆にあずけた。
「いい体格だね。顔立ちも男前だ。話によると、出世株みたいじゃないか」
「婆ちゃん、それ、本人の目の前でいうのどうよ」
やり手婆は素知らぬ顔で、門前を掃除する禿を呼ぶ。
「白鈴呼んできな。今日は、茶挽きのはずだ」
「白鈴……」
李白が、ごくりと喉を鳴らす。
舞踊が得意と聞く名の知れた妓女である。
李白の名誉のためにいっておくが、それは単なる遊び女に対する情欲でなく、憧憬の思いである。
雲の上の偶像に、目の前で会えること、茶を同席することでさえ、名誉なのだから。
(白鈴小姐かあ、ひょっとしたらひょっとするかもなあ)
「李白さま」
猫猫は隣で呆けている大男をつつく。
「上腕二頭筋に自信はありますか?」
「よくわからんが、身体は鍛えているつもりだぞ?」
「そうですか。うまくやってくださいね」
首を傾げる大男は、女童に連れられて行った。
猫猫としては、ここまで連れてきてくれたことに感謝している。やはり、それ相応にお返しもしたいわけである。
一夜の夢が見られれば、一生の思い出になるだろう。
「猫猫」
しわがれた声の主は、恐ろしい笑みを浮かべている。
「十月も連絡よこさず消えやがって」
「しかたないだろ、後宮で働いてたんだから」
木簡にしたためて、大体の説明はしてある。
「一見お断りのところを、こんだけ面倒見てやったんだ」
「わかってるって」
懐から袋を取り出す。
今まで後宮で働いた給金の半分だ。
「こんだけじゃあ、足りないねえ」
「まさか、白鈴小姐だすとは思わないけど」
上級妓女なら一晩いい夢を見ておつりがくるはずだった。
李白とて、ひとめでも三姫に会えたらそれで満足しただろう。
「お茶位ならぎりぎり負けてくんない?」
「莫迦。あの腕っぷしで白鈴が何もしないわけないだろ」
(やっぱり)
最上級の妓女は身を売らないというが、恋をしないわけじゃない。
まあ、そういうことである。
「それって不可抗力……」
「なわけあるかい。ちゃんと勘定に入れとくからね」
「払えないって」
(残りをいれても足りないなあ。どう考えても)
考え込む猫猫。
どうみても言いがかりである。
「なあに、最悪、身体で払えばいいことさ。お上から女郎屋にうつるだけだ、かわりないさ。おまえみたいな傷物でも、すき好む好事家はいるからね」
ここ数年、婆は猫猫にやたら妓女になることをすすめてくる。一生を花街にささげたこの婆は、妓女が不幸な職とは思っちゃいない。
「年季まだ一年残ってんだけど」
「なら、上客どんどんよこしな。爺じゃなくて、さっきみたいな長く適度に搾り取れそうなのをさ」
(うーむ。やっぱり搾り取られるか)
強欲婆は算段しか頭にない。
身売りはもうけっこうなので、今後、生贄を適度に送らなければならなくなった。
(宦官でも客になるのか)
壬氏の顔が浮かんだが、あれはだめである。
妓女たちが本気になり、店がつぶれかねないので却下である。
だからといって高順ややぶ医者には悪い気がする。やり手婆に搾り取らせるまねはしがたい。
出会いの場がないというのは、本当に不便なものだ。
「猫猫、爺はいま家にいるはずだから、さっさといってやんな」
「ああ、わかった」
深く考えても今のところ解決策はない。
猫猫は緑青館の脇道を抜ける。
通りを一つ抜けると、花街はとたんにさびしいものとなる。
掘立小屋が立ち並び、割れた茶碗に銭がたまるのを待つ物乞いや、梅毒のあとが見える夜鷹もいる。
寂れた小屋のひとつが猫猫の家である。
二間の土間しかない狭い家に、背を丸め、すり鉢をするものがいる。
深くしわの刻まれた、柔らかい輪郭をした、まるで老婆のような男である。
「ただいま。おやじ」
「おう、遅かったね」
普段通りの挨拶をし、何事もなかったかのようによろけた足取りで茶を用意する。
使い古された湯飲みに茶を入れるのでそれをいただく。
ぽつぽつと今まであったことを話すと、おやじどのはそれに相槌をうつだけだった。
薬草と芋でかさ増しした粥を夕餉にとると、そのまま眠ることにした。風呂は明日、緑青館でもらい湯でもしよう。
土間に菰を敷いただけの簡素な寝床に丸くなった。
おやじどのは上から着物を重ねて着せ、竈の火を絶やさぬようにすり鉢をすっていた。
「後宮か。因果だねえ」
おやじどのがつぶやいた言葉は、眠気の奥に消えていった。