三十、災禍 後編
収穫は七割ほど、最初の一匹が来た。
誰かが踏み潰して殺すが意味はない。それより、収穫しろと叫んだ。
松明に火をつける。焼け石に水でもかまわない。
女子どもを家に入れる。家の隙間は泥や布で埋める。中は暗いが火をつけるなと、言い聞かせる。あと、すぐさま食べられる食料は用意しておくように言った。隙間から虫が入ったらすぐさま殺すように言う。
念真の家に収穫物が入りきらない。廟に麦を入れる。狭いので誰も入らない。空気の入る隙もないくらい土で隙間を埋める。
家という家に、虫除けの薬をぶっかける。意味はあるかわからない。
天幕は隙間が多すぎる。倉には向かず、外にいる村人の一時避難所として利用する。
馬閃が大きな網を持っている。魚を捕る網だろうが、無駄に勢いよく振り回し飛蝗を捕まえる。そのまま、大きな水桶につけて殺している。
雀は革袋を配っている。飯の代わりに、山羊の乳を甘く味付けしたものを渡す。長期戦を見据えている。
陸孫は一軒一軒回っている。空気穴から不安な声を聞き取る。大丈夫だ、と言い聞かせ、虫が入っていく他の隙間を見つけては虫をはねのけ埋めていく。
だんだん視界が狭くなる。
色で言えば、白から灰色、どぶねずみの色へと変わる。
もうほぼ黒といってもいい。
歩くどころか目も開けない。ぶつかりかじられ引きちぎられる。口を開けようにも開けられない。なんとか布で口を覆う。
雑音だらけ、誰が何を言うのかさえわからない。
手で顔を覆い、ようやくうっすら目を開ける。
まだ、大きく網を振るう馬閃が見えた。すぐさま一杯になる網を地面に殴りつけて踏み潰す。とうに水桶は飛蝗であふれていた。
虫にかじられ気が狂う者もいた。奇声を上げ、松明と鉈、それぞれの手に持って振るう。飛蝗は死なず、村人へと向かう。
雀がすっと近づいて暴れる男に足払いした。倒れた男を縄で縛り付けている。
陸孫はまだそれぞれの家にまわって声をかけていた。人は狂う、光がないと発狂する。それを防いでいる。
ただ、その声も届かぬ者もいた。
民家の一つから火が上がった。密閉した家から顔を引きつらせた老婆と子どもが飛び出してくる。子どもの手には火打ち石があった。
中には刈り取られたばかりの麦、火はよく燃え上がる。雨期でもないこの季節、燃えるには十分な乾燥した空気だ。
馬閃が即座に動いた。家の梁に蹴りを入れる。元々、掘っ立て小屋のような家は即座にぐらつく。
「……!」
何か大声で言っているのはわかった。水場は遠いので家を壊して火を消そうとでも言っているのか。馬閃はこういう土壇場に強い。
ほぼ一人で壊した挙げ句、虫の死体が浮かんだ水桶を持ってきてひっくり返した。
雀が鼻水だらけの子どもと老婆を天幕へと突っ込む。どこもかしこも飛蝗だらけだが、いくらかましなはずだ。
どれくらい時間が経ったかわからない。四半時程度かもしれないし、数時間かもしれない。
誰も彼も見たことがない虫に恐れ、憎み、そして――。
「猫猫」
肩を叩かれた気がした。
振り向くと陸孫がいる。髪に、服に飛蝗がかじりついている。猫猫がとろうと手を伸ばした。
「もう薬作りはやめてください。手が使い物にならなくなります」
猫猫の手は赤くただれていた。
(あっ)
虫除けなど気休めにもならない。
猫猫は虫殺しの薬をひたすらまいていた。まいてまいて、でも足りず、飛蝗は飛来してくる。
どうして効かない、どうして効かない。
効いている。でもそれ以上にわいてくる。
飢えた飛蝗どもは、毒草すらかじりつく。人をかじり、衣服をかじり、家の柱さえ食らおうとする。
それどころか、落ちた虫は互いの体をむさぼっているようだった。
増えすぎた故の狂いだ。
猫猫もまた狂っていた。
虫殺しに効用がある草を取っては煮込んでいた。
大鍋には飛蝗が浮き、草が根っこごと突っ込まれている。
ただれた手は素手で草を引き抜いたのか、それとも、虫殺しの毒草にまけてしまったのか。
陸孫はまだ虫だらけの空を見る。空には虫、けれどそのさらに上を見ていた。
「災禍には災禍を――、となればよいのですが」
何のことだか意味がわからない。ただ、猫猫も暗い空を見た。
「いてっ」
ごつっと何かが当たった。
なんだろうと、下を向くと氷の塊が落ちている。
その痛みはさらに猫猫の背中、肩に当たる。
ごつ、ごつ、ごつ。
空気が冷えていた。
「雹?」
大きな氷の塊、冷えた空気。虫どもの動きが鈍くなっているように見えた。
「災禍には災禍」
いいや、災禍などではない。これは、天の恵みだ。
猫猫は普段なら考えない答えに至る。
「降れ、もっと降れ」
猫猫の狂いはまた別方向へと向かう。虫の中、雹が降る中へと身を乗り出した。雨乞いではなく雹乞い。
虫にかじられる痛みも、雹にぶつかる痛みもない。
ただ、なんでもいいからこの無数の飛蝗をどうにかして欲しいと願った結果。
ごつん、と大きな衝撃を頭に受けた。
「猫猫!」
陸孫が駆け寄ったところまで覚えている。
猫猫は雹の塊を受けて、気絶した。