二十九、災禍 中編
「はあ、蝗害だあ?」
呆れたような村人の声。
猫猫は村長に、農民たちを集めてもらった。寄り合い所には多少息苦しい程度、人が集まっていた。
猫猫の必死な声は鼻で笑われる。
「いや、確かに去年は多少の虫害はあったけど、今年は豊作だし、大丈夫だろ?」
「そうだな、まだしばらくは晴れてるし、そこまで急がなくても」
「そんなんじゃあ、おせえんだ!」
のんきな村人の中から、一人、荒ぶる声が出た。
「念真さん」
隻眼の老人だ。過去、人が人を食らうほどひどい蝗害を経験した男は、今の緊張感がない村人たちに怒りをあらわにしている。
「そいつらは無視しろ。俺はさっさと刈り取りを始める」
「念真さん……」
元農奴であるが、新参者ばかりの村の中では最古参の念真だ。村長も軽く扱えないらしい。
猫猫も話し合うのは無意味だと考える。
どうしようかと悩んでいると、陸孫が前に出た。
「あなたがたの麦を買います。相場の倍で」
優しげな声とともに、がしゃんと金属音がする袋を卓の上に置いた。
「ほ、本当か?」
「嘘じゃないよな?」
村人の目がいきなり獣のように変わった。
「ええ、ただし国に納める分の余剰で。あと、期限は三日以内で」
柔らかな口調でむちゃくちゃなことを言う。でも、村人の目に宿った炎は消えない。
(これが金の力か)
村人たちが動く。家に帰り、嫁や子どもにも鎌を持たせていた。
「大丈夫なんですか? そんな安請け合いして」
誰もいなくなった寄り合い所で猫猫は陸孫に聞く。
「蝗害になれば、相場は二倍どころではすみませんよ。虫が来れば私たちは儲かり、来なければそれはそれで平和。問題ありますか?」
「いえ、大丈夫です」
母が商売をやっていたと言うし、何よりよく羅半とつるんでいたのだから、そういう計算は速いのだろう。
「私たちも動きますか。私は念真さんの畑の刈り取りを手伝うつもりですが、猫猫はどうされますか?」
「私は……、炊き出しの準備をしておこうかと思います」
猫猫は十中八九、蝗害が来ると予想している。ただ、その時期がわからない。
(羅半兄が最後にいた場所)
戌西州でも一番西よりの場所だ。そこで飛蝗の大群を見て、襲われる前に急いで鳩を放ったに違いない。
蝗害はすでに発生している。これから東へと移動して作物を食らいつくすと考えていい。
(始まったものは仕方ない)
どう終わらせるか、その後、どうするかが問題だ。
虫どもに食らいつかせぬよう、さっさと収穫し、倉庫に詰め込み、それこそ虫一匹入らぬように密閉せねばならない。
(腐らないか心配だ)
本来、麦は数日外で乾燥させるものだが、どうしようか。何より、保管する場所も必要になる。
猫猫は竈を借りて大鍋で汁を作る。猫猫の好みとしてはあっさり醤を使ったものにしたいが、村民には癖のある味になるかもしれない。根菜を油で炒め、塩でしっかり下味をつけた後に、牛の乳と干し肉のゆで汁で煮込んだ。
(逆に、中央の人間にとっては家畜の乳のほうが癖強いんだけど)
臭みを消すために、香草を入れる。小麦でとろみをつけたら、けっこういける味になったと思う。
(団子も入れたかったけど、やめておこう)
麺麭は別に焼いてあるしよしとしよう。
猫猫は、器についで盆にのせる。せっせと働く人たちにどんどん渡していく。
「猫猫さん、猫猫さん。雀さんにもください」
元気いっぱいの雀は、完全に村人に同化していた。右手に小刀、左手にずだ袋を持っている。ずた袋の中には、穂先だけ刈り取った麦が入っていた。
猫猫は最後の一杯を渡す。
「穂先だけ刈り取っているんですか?」
「念真さんの提案ですよう。収穫するだけなら穂先だけのほうが早いって」
確かに、いちいち屈んで刈り取らなくて済む。
猫猫と雀はひとまず近くの柵の上に座り、乳汁を食べることにした。猫猫の分はないので麺麭をかじる。
「おそらく乾燥させる時間もないですし、藁付きだと屋内に入らないので」
「なるほど」
麦藁はそれこそ家畜の餌や、筵などの日用品の材料として用いられる。副収入の一つだが、今は二の次としたほうがいい。
「いやあ、お金の力はすごいですねえ。耳打ちで『藁は後にした方がいいですよ』とつぶやけば」
鎌を持っていた人たちは、小刀に持ち替えていた。子どもたちは穂先が入ったずた袋を引きずりながら家へと運んでいる。
「外で乾かすと穂が飛んでしまうのでおうちで乾かしているみたいです」
「雀さんは誘導がうまいですねえ」
「そうですよぅ。やる気がない夜の旦那様をその気にさせる玄人ですからー」
雀なら今まで散々滑ってきた妓楼冗句も受けるのでは、と猫猫は思ったが、残念なことに今いえるようなねたがなかった。
今後、雀に披露できる冗句を集めておこうなどと考える猫猫。
三日という期限をつけた陸孫の判断は正しかった。期限が決められるといかに効率よく麦を収穫するか考えるようになる。二日もすれば、半分以上の小麦が刈り取られていた。
莫迦力の馬閃は大変役に立った。両手に麦が入った袋を抱えて収納する。大人が数人でやるところを一人でやってくれる。
ただ、あいかわらず繊細な仕事は苦手だ。
「あー、なにやってんですー」
家の修繕をすると逆に壊してしまう。雀にまたからかわれていた。
(収納する小屋が隙間だらけだと困る)
家の隙間に粘土を突っ込む。木材はこの地方では貴重なのでやれることをやるしかない。
「時機も良かったようですね」
空を見上げるのは陸孫だ。猫猫も見上げる。丘の向こうに小さな黒い雲が見えた。
「雨期にはまだ早いのでは?」
「ええ、そうです」
陸孫はなんともいえない表情を浮かべている。
「この季節に雲は少し危ないです」
意味深なことを言っている。
「雲がどうした?」
何食わぬ顔で大きな麦入りの袋を二つ抱える馬閃が通りかかる。
「いえ、この季節に雨雲があるのはあまり良くないという話を」
と、陸孫が東の空を指す。
「そうだな、あっちにも雲が見えるが、それも良くないのか?」
「あっち?」
馬閃が指すほうを見る。陸孫とは反対の空だ。
「何も見えないですけど」
「ふふ、義弟は無駄に目がいいのです」
雀がさっと解説に入る。
「こういうとき遠眼鏡があれば便利なんですけどねえ」
さすがの雀でも遠眼鏡は持っていないらしく身を乗り出して、目を細める。
「雲って……」
雀の動きが止まった。
猫猫も目を細めて西の空を見る。
ぶーん、と羽音が聞こえた気がした。
黒い粒が見えた。ただ、変に揺らいで見える。
雲なんかではない。
「猫猫さん、猫猫さん」
「雀さん、雀さん」
二人は顔を合わせて、頷く。
猫猫は近くにあった鍋とすりこぎをとると、がんがん叩く。
「虫が! 虫が来たぞ!」
雀はのんきに茶をしばいていた小父さんたちを叩いていく。
「飛蝗が、飛蝗が来るぞ!」
ひたすら声を上げ、緊張感がない村人たちをけしかける。
慌てて良いことなどないが、今はただ、我武者羅に焦るしかなかった。