二十二、羅半兄再び
昨日の馬閃の報告通り、羅半兄は別邸へと帰ってきた。
「ふー、しんどかった」
農具を医務室(仮)の前に置く羅半兄。芋やら農機具やら色々荷物が多いので、離れの裏にある倉庫を使っているのだ。
「大変でしたねえ」
特に患者も来ていないので猫猫は、疲れた羅半兄を出迎える。ひまなのかやぶ医者も来ている。
天祐は留守番という名の昼寝だ。羅半兄は普通すぎて興味がないのだろう。
「お疲れさんだねえ。日焼けしているじゃないか」
親戚の小父さんがごとく普通に話しかけるやぶ医者。そのうち羅半兄を点心の時間に呼びそうだ。
「あー、こっちはほとんど雨が降らねえから、日差しがきつくてなあ。夏は大変かもしれない」
羅半兄は、鍬を壁に立てかけている。帰ってきたばかりなのに働き者だ。
「そうかい。そうかい。冷たい果実水でも飲むかい? 特別に地下で冷やしてある水を使うんだ」
(冷たい水って高級品なのでは?)
勝手に貰っていいのだろうかと猫猫は思う。そして、早速、羅半兄を茶に誘っていた。
「それはぜひと……」
羅半兄が止まった。いや、固まったといっていい。
どうしたのだろうか、と猫猫が突いてみる。よく見ると小刻みに震えていた。
「あひゃっ! つ、つきの!」
やぶ医者が慌てている。
猫猫が振り向くと、薔薇の花びらを散らすかの如き笑みを浮かべた壬氏が立っていた。
「羅半の兄というのは貴殿のことだろうか?」
傷はついても玉は玉。艶やかな絹糸の髪を揺らしつつ、羅半兄に近づいて来る。
「へ、へえ」
羅半兄もなんともいえない返事をする。まともに受け答えできる様子ではない。
「今回の旅に同行してもらったというのに、挨拶が遅れてすまなかった。私のことは皇弟と言えばわかるだろうか?」
壬氏の本名を口に出して呼べるのは皇帝など、ごく少数の者だけだ。ゆえに、自己紹介の時もまともに名前を出すことができないらしい。下手に名前を出して相手が覚えてしまった場合、そして壬氏の本名を口にしてしまった場合、不敬罪で罰せられることもあるための配慮だ。
(皇族って大変だなあ)
一般的には月の君、夜の君などと呼ばれているらしい。
「こ、今回はど、同行させて、いただき、こ、光栄で……」
(騙されて連れて来られたと言っていたのは誰だっただろうか)
普通な羅半兄は、普通に壬氏の前で緊張している。ちなみにやぶ医者は目をきらきらさせて壬氏をじっと見ている。
「羅半から色々聞いている。羅半の実父もまた羅に繋がる者として農業の才があると。そして、その手伝いをしていてそこらの農夫にはない農業の知識と技術を持っている兄がいると」
(玄人農民)
大変複雑な顔をしている羅半兄。褒められているが嬉しくないらしい。でも、壬氏のきらきら覇気に普通の民は太刀打ちできない。
つまり流される。壬氏の独壇場だ。
(あっ、ここ見た場面だわ)
猫猫はきらきらを武器に一方的に攻め込む壬氏と、普通ゆえに何も出来ない羅半兄を見る。
「虫害を減らすのに秋耕を行うのだな。私は初めて聞いた言葉だ。あとで部下に調べさせたところ、過去に統治者が農民に課したものであったと聞いた。残念なことに、秋に地を耕すことの利点よりも、放牧のため家畜を太らせることのほうが大切だと消えたという。政とは難しいものだ」
「は、はい」
「あと芋以外にも、麦の栽培にも詳しいのだなあ。まさか、麦を踏むことで強く太く育つなんて初めて聞いた。私にも知らぬことが多い。今後も、無知な私に伝授してほしい」
「い、いえ滅相もありません」
赤くなったり青くなったりする羅半兄。なお、やぶ医者はほわほわした空気を纏ったままで、ずっと話しかけられている羅半兄をちょっとうらやましそうに見ている。
「そして、心苦しいのだが、早速伝授願いたいことがある。いいだろうか?」
少し憂いを含んだ表情で壬氏が訴えかける。
羅半兄の頬が紅潮し、やぶ医者は流れ弾に撃沈する。
(うわー)
相変わらずえげつないなあと猫猫は思いつつ、傍観者に徹する。まだ、羅半兄が片付け終わっていない農具を壁に立てかけてやった。
「ええ。お、俺、いや、私のできることでしたら」
「そうか!」
ぱあっと晴れ上がる壬氏の笑顔に、やぶ医者はまな板の鯉のように口をぱくぱくさせた。
「では、せっかくなので中に入って説明をしようか」
右手を挙げて指をぱちんと鳴らす壬氏。ささっと、馬閃と雀がやってくる。馬閃の手には大きな紙が丸めてあった。
(なんだかんだでこの二人、仲いいな)
我が物顔で医務室に入っていく壬氏。中の長椅子で昼寝をしていた天祐が寝ぼけ眼で起き上がる。護衛の李白は「なんだ?」と猫猫に視線で訴えていた。
「どーしたんだ?」
「なんか色々」
天祐に説明するのが面倒くさい猫猫。
「ふーん」
素っ気ないようだが興味があるらしく、そっと見る天祐。
馬閃が持ってきた紙は地図で、医務室の卓の上に広げられた。
「これは戌西州の地図だ」
馬閃が説明する。
草原と山と砂漠地帯。華央州に比べたらずいぶん地味だが、その中央を横断する道がある。東と西をつなぐ交易路だ。
「ところどころ丸で囲んであるところがありますねえー」
何食わぬ顔で話に交じってくる天祐。やぶ医者は茶の準備を始めていた。
馬閃があからさまに嫌な顔をする。
(距離が近いよな)
皇族に対してあるまじき近さだ。宦官時代ならともかく大丈夫なのだろうか、と猫猫は心配してしまう。
でも、今、壬氏は打算のために動いているのだと思った。
「羅半兄」
「はい!」
(名前はいいのか?)
ぴしっと姿勢を正す羅半兄。
「実はこの丸で囲まれた部分は農村地区なのだ。是非、貴殿には農業実習として秋耕や芋の栽培を手掛けてもらいたい」
壬氏はまさに人を殺しそうな笑顔を見せた。
「……えっ」
先ほど、農村から帰ってきたばかりの羅半兄。
「できるだけ早く。そうだな、明日にでも向かっていただきたい」
輝かんばかりの笑顔に羅半兄はまぶしそうに目を閉じる。反論できない。
(――そういうわけね)
使える者は使えというが、使われる側はやはり可哀そうだなと猫猫は思う。地図はずいぶん大きく広い。
「西都から一番遠い村までどれくらい距離があるのでしょうか?」
ちょっと暇そうな雀に聞いてみた。今日はただついてきただけのようだ。正直、いなくてもいいが猛禽類の姑から逃れたかったのだろう。
「ざっと百里ですねえ、たぶん」
「百里……」
羅半兄の顔が青ざめる。
「まずは近場の村に行ってもらいたい。それから次の村に。馬に乗るのが不得意であれば乗り心地の良い馬車を用意しよう」
働かせること前提の話だ。
「できれば二月以内ですべての地区に秋耕を教えてもらいたい。芋についてはその後、順次始めよう」
農業実習というが、要は蝗害対策だ。何が蝗害に効果あるのかわからないのでやれることは全てやる。そして、使えるものは使い潰すつもりだ。
羅半兄には可哀そうだが、尊い犠牲として労働してもらおう。猫猫にできることと言えば――。
猫猫は戸棚から薬を取り出して、蜂蜜で練る。そして、水で割って玻璃の器に入れる。やぶ医者が茶を配る隣で、羅半兄に差し出す。
「どうぞ」
「なにこれ?」
「栄養剤です。長持ちする原液を用意しますので、道中疲れたときに飲んでください」
「労働がまず前提条件なわけ⁉」
「……断れますか?」
「……断れると思うか?」
いや無理だなと、思って栄養剤を作った猫猫だ。あと、筋肉痛に効く湿布薬もろもろも用意しておこう。
普通の民である羅半兄には、壬氏がこんな近距離でやってきて頼み事をすれば断れるわけがない。それも壬氏は折りこみ済みなのだ。
(えげつない)
普通だが、普通の中で言えば優秀な羅半兄。
「やってくれるか?」
困ったような笑みに軽く首を傾げる壬氏。
羅半兄はがっくり項垂れるしかない。
天祐は部外者として、他人の不幸をぷぷぷと笑っていた。
(゜∀゜)アヒャ