十六、飛頭蛮 前編
奇妙な噂は二十日ほど前から起きていたらしい。
最初に見たのは、仕事終わりの下男だった。
月明りの中、ぼんやりと歩いていると、白いものが何か浮かんでいる。目を凝らしてみると、真っ白い面が一つ浮かんでいたのだ。
誰かが悪戯したのだろうか。疲れていた下男は気にもせず通り過ぎようとした。すると、面がぐるりと下男を見たのだ。
下男は驚き、怖くなって走って逃げた。
翌朝、心を落ち着けた下男は疲れていて何か見間違えたのだと思った。しかし、昨晩面があった場所には何もなかった。
それからだ。
おかしな面の話は、下男以外にもたびたび聞くようになった。
ある者は奇妙な音の方へと向かうと、面が笑っていたといい、ある者は面が空を飛んでいたという。
そして、ここ数日、女の首が廊下を飛んでいたと言う。
だから、ある者が言い出した。
その面は『飛頭蛮』ではないかと。
〇●〇
飛頭蛮、それが何かと言えば妖怪の類だ。猫猫が知る限りでは、夜に耳を翼のようにして首だけ飛んでいく妖怪だったと思う。
「というわけで、俺に相談されたんだよ」
「どこのどなたにですか?」
「下働きのちびっこ。飴やったら懐いた」
(犬猫じゃねえんだから)
緑青館に通うようになって李白は子どもの扱いがずいぶん得意になったようだ。
(禿に嫌われると、白鈴大姐につないでもらえないからな)
だからといって遠い西都の地で発揮しなくてもよいのに、と猫猫は思う。それだけ、ここ数日、やぶ医者の周りの警護が暇だったのだろう。
「もちろん、妖怪の類だと思っちゃいねえ。だけど、そのまま放置すると気になるだろ? 嬢ちゃんの性格なら」
(いや、そんなこと言われても)
言われなかったら別に気になりはしなかっただろうに。ご丁寧に教えてくれた。
結局、李白は夜も遅く猫猫を気遣ってか話だけして帰っていった。猫猫が疲れているとわかっているなら、明日でもよかっただろうに――。
翌日、朝餉をやぶ医者と天祐の三人で食べていたところ、小さな子どもが慌てて仮医務室にやってきた。
「ぶかんさまは?」
顔を真っ青にして誰かを探しに来ている。今、入るのを止めている武官は『ぶかんさま』ではないようだ。
「李白さまならいませんよ」
猫猫はすぐにぴんときた。李白は、夜の警備をやっているので、朝方は違う武官がいる。
昨晩話していたちびっこと言うのは、この女童のことだろうか。
「そ、そうですか」
女童はしゅんとなり、目をそらす。
猫猫はちらっとやぶ医者と天祐を見る。
「じゃあ、李白さまのところに向かいましょうか? 案内します」
やぶ医者が怖がるからという李白の配慮を想って、猫猫は女童を李白の部屋へと連れて行こうとして、ふと止まる。
「……李白さまはどこで眠っているんですか?」
「ん」
行儀悪く箸で示す天祐。一階の入り口に一番近い部屋だ。
「じゃあ、ちょっと案内してきます」
「そうかい。お嬢ちゃん、食器は残しておくかい?」
「片付けますのでそのまま置いておいてください」
「食べないなら私が片付けておくよ」
やぶ医者は気の良い笑顔を見せて、猫猫の茶碗を片づける。
「その子部外者だけど、いれていいのかなー」
やぶ医者と違い、痛いところを突いてくるのは天祐だ。
猫猫としても普通なら天祐の言葉が正しいと考えるだろう。
しかし、李白がわざわざ相談してきたことを考える。
(あらかじめそのことを考えて、私に話したのでは?)
猫猫は唸りながら、李白の部屋へと女童を案内する。
「よお」
李白は起きていた。さすがに夜勤明けは眠そうで目をこすっている。寝台と箪笥が一つあるだけの部屋だ。やぶ医者はこっちの部屋もがんばって改装しないのだろうか。
「ぶかんさまー」
女童は寝台の上にいる李白に近づく。
「またでたよー」
「でたかー」
「でたでたー、おんなのくびー」
案の定、例の妖怪の話だった。
「どこででた?」
「それが、おやしきのそとー。にわしのおじいちゃんがこしぬかしてた」
「そうなのか。わかった。庭師のじいちゃんはどこにいる?」
「うん。あおざめたかおして、おにわのおそうじしているよー」
「わかった。よし、飴やるぞ」
「やったー」
女童は部屋から出る。
猫猫はじっと李白を見る。
「李白さま、一つ確認を」
「なんだ?」
「これは興味本位ではなく、調査ですか?」
「おっ、わかってるねえ」
李白は隠す様子もなく認めた。
(やぶにも天祐にもあまり話したがらないわけだ)
無論、やぶ医者はともかく天祐は難しい。
ただ、李白にしてはやり方が下手に思えた。もう少しうまい具合にはぐらかしてくれると思うのに。
「もっと上手くやれませんか? どうも怪しいんですけど」
「いや、最初はそのつもりだったんだけど」
李白は苦笑いを浮かべる。
「どーにも、あの天祐ってのは、馬が合わねえ感じだな。喧嘩するってわけじゃねえけど、会話しづらい感じ。わかるか」
「……」
猫猫が感じたとおりだ。
「つまり、普段なら当たらず触らずにいる人種ですけど、距離が近いのでやりづらい。いっそ喧嘩できる相手ならまだいいけど、向こうは絶対そんな性格じゃない、というところで?」
「おっ、わかってんな。つかみどころがないってわけじゃねえんだ。ただ、核となる部分が見えねえ。枝は見えるが、幹が見えねえ」
李白は本能で天祐の本質を見ている。
「嬢ちゃんの行動は、奔放なようで筋道があるよな。毒か薬かそのどっちかって感じ」
「……せめて薬か毒かの順番でお願いします」
猫猫は訂正をお願いする。ともかく、李白の動きが悪い原因はわかった。
「天祐の性格はちょっと難ありですが、そこまで気にするほどではないと思いますけど」
一応、医官になれたし、身元がはっきりしないと人手不足とはいえ西都にまで連れて行かないだろう。
「そこはわかるんだが。悪いな。俺は武官だからな、つい戦目線で考えちまう」
「戦目線?」
「どうやっても背中を預けられねえ奴ってわかるんだよ」
「……」
李白の野生の勘については何も言うまい。
とりあえず天祐の話は一度置いておくことにする。
「ともかく飛頭蛮の調査は、月の君あたりから来たんでしょうか?」
「そうそう、壬氏さまとやらだ」
李白は最近めっきり他人の口から聞こえなくなった名前を出す。
「昨晩、最初から話してくれたらよかったじゃないですか?」
「悪い悪い。昨日は、あの後、首の調査に出てたんだよ。嬢ちゃんのことだから、興味があれば睡眠も食事も無視して動こうとするだろ。無理はさせるなって言われてたんだ」
壬氏は、妙なところで気を使ってくれる。無茶な注文はいつも変わらないのに。
(そして、今回は飛ぶ首についてか)
怪談めいた話題を持ってくるのは変わらないらしい。
「それが不思議なんだが」
「何が不思議ですか? 飛ぶ首自体が不思議ですけど」
「それがよ最初、話を聞いた時、面が浮かんでいると聞いていた。でも、ここ数日の話では、飛ぶ首と言われたことが多い」
「……それはそれは」
「それは面白い話かな?」
後ろから声が聞こえて、猫猫は慌てて振り向く。
天祐がいた。にこにこと笑っている。
李白は特に表情を変えていないのはある程度想定したからだろう。
「聞き耳は行儀悪いぜ?」
「いえいえ。俺としては、いつまで二人きりで話しているのか気になったもんで。一応、未婚の娘さんだから」
『あー、ないない』
猫猫と李白は同時に否定する。
「だよねー。俺もないと思うー」
天祐が遠慮なく李白の部屋に入ってくる。
「医官さまは?」
「食後の茶の準備している。呼んで来いとさ」
やぶ医者らしい。茶飲み話をしながら、患者が来るのを待つのだろう。
「っで、飛ぶ首の話? 面白そうだね。いっちょ、噛ませてくれないか?」
「いやです」
「なんで?」
天祐は眉を下げる。
「口軽そう」
「軽くないって」
「途中で飽きて放置しそう」
「それはあるかも」
李白は天祐の扱いを猫猫に任せている。本当に苦手な型らしい。
「俺は、役に立つよ。使えない、危ないって思うのなら、使い方が下手なだけだ。鋏も器用に扱えないわけ?」
「……」
猫猫は李白を見る。李白は猫猫に任せるという顔だ。
「邪魔しないでください」
「おう」
天祐はほんの少し目をきらつかせた。