九、麦畑 後編
念真という老人の家は、外観も内装も質素としか言えない代物だった。
(うちと似たようなもんだな)
花街の一画にある猫猫のあばら家によく似ている。竈と寝台に粗末な卓と椅子、他にあるのは仕事道具くらいだ。猫猫の家が薬関係なら、念真の家は農機具しかない。
(これだけ見ると素朴な人なんだけど)
どうにも堅気には思えない身体の傷だ。
椅子は三つあって、念真だけ立っている。欠けた茶碗に山羊の乳を注いでいる。
「陸孫という男は確かにここに来たな。五日位まえだ」
ちょうど猫猫が西都で会う前日だ。
「何をしに来ていましたか?」
馬閃か羅半兄に話をしてもらおうかと思ったが、陸孫の名前を出したのは猫猫なので猫猫が話す。
「何をするって言われても、ただ鍬持って耕して貰っていただけだ」
「耕す? 麦はもう時期的に遅いですよね? それとも、春に蒔く麦ですか?」
麦は二期作ができる作物だと聞いた。冬に種を蒔いて春または初夏に収穫するものと、春に種を蒔いて秋に収穫するものだ。
「違うよ」
念真は、山羊の乳を卓に置いて猫猫たちにすすめる。馬閃は慣れぬ物に微妙な顔をしているが、猫猫はありがたく喉を潤すことにした。ぬるいが変な物は入っていない、ただの山羊の乳だ。
「恰好付けて言うならば、祭事ってやつを手伝ってもらっていた」
「祭事?」
猫猫は首を傾げる。羅半兄も馬閃も話が読めないで顔を見合わせている。
「豊作を祝う何かということですか?」
「豊作を祝うのではなく、不作を祓うって言ったほうがいいだろうな」
「……すみません。私たちには難しい話です。もう少しわかりやすく説明してもらえますか?」
猫猫の頼みに対して、念真は舌を出しながら寝台の上に座った。どことなくがらの悪さがにじみ出る。
「なに。ちょっと爺の話し相手になってくれ。村人は、相手しちゃくんねえ」
「ご老人、私たちは暇というわけではない」
馬閃が少し苛立っている。
「ああ、そうかい」
念真はそのまま寝台に寝転んでしまった。
猫猫は椅子から立ち上がると、馬閃を制止する。
「すみません。お話をお願いします」
頭など下げるだけなら無料なのだ。
「ふーん、どうするかねえ?」
遊び心というより嗜虐心がある口調だ。
「気が向かねえからやめとくか」
「そ、それは⁉」
困ると馬閃が前に出ようとしたが、猫猫が遮る。
(血の気が多いからって喧嘩はやめてくれよ)
馬閃の腕っぷしは知っているし、老人相手に引けをとることはないと思うが――。
(こういう性格の奴って、妙に頑固だったりするんだよな)
たとえ、馬閃のほうが強くても、絶対負けと認めなかったりする。そして、貝のように口を閉じてしまうだろう。
(それは困る)
ただ、念真はちょっと意地悪で言っているような気がした。陸孫の話をしたら家に入れてくれたように、本当は何か話したいのではないだろうか。
「どうすれば、話をしてもらえますか?」
あくまで下手に出る。
「……そうだな。じゃあ、当てものをしてもらおうか?」
「当てもの? 何を当てればよろしいのでしょうか?」
「簡単だ。俺が何者だったか当ててくれればいい」
(意味が分からないことを)
馬閃と羅半兄がまた顔を見合わせる。なんだかんだでこの二人、相性がいいのではと思えてくる。
「じゃあ、私が……」
馬閃が答えようと手を挙げるが、念真は指が足りない手を振る。
「俺は、そこの小娘に聞いてる。坊主には聞いていない」
「ぼ、ぼう……」
馬閃がこらえている。童顔な武官は、傷だらけの老人にとっては坊主には違いないだろう。
さて、猫猫にだけ回答権があるのならどう答えればいいのだろうか。
(念真……名前は立派なんだけどな)
真実を読むと言う意味だ。
(名前は立派なんだから嘘をまじえてなければいいけど)
彼が話したことを、確認していく。
念真は己を『蝗』と称した。農民なら厄介な害虫だ。
(農作物を食い荒らす?)
念真の人差し指はない。左目もない。
(農民にしては傷だらけの身体。けれど、従軍したことはない)
少なくとも戦ったことはあるはずだ。しかも歴戦の傷に見える。
(指が無くなったら武器は持てないな。特に弓なんかは……)
ふと猫猫は、昨日襲ってきた盗賊たちを思い出す。腕をばきばきに折られた彼等は、今頃役人にでも引き渡されているだろうか。
(盗賊だと縛り首、良くて肉刑……)
そして、陸孫に手伝ってもらったことは、祭事だと言った。
「……念真さん」
「なんだい?」
当てられるなら当てて見ろというような念真。
関係ないが、羅半兄が何か憤りを感じた顔で猫猫を睨んでいる。さっき会ったばかりの老人を名前で呼んだことが気に食わないのかもしれない。
(いや、今そんな話じゃないし)
猫猫は大きく息を吸って吐く。
「あなたは、生贄ですか?」
猫猫の答えに周りが固まった。
「な、なんだ、その答えは」
馬閃が猫猫に食って掛かる。
「知りません? 生きたまま贄にされる人のことです」
「それくらいわかる。なんでこの老人が生贄だっていうんだ? この通り生きているぞ」
生贄と言えば、それは命を落とすものと考えられる。
でも、猫猫にはこの答えが一番適当に思えた。
「なんでって言われましても」
猫猫は念真を見る。老人の顔は、馬閃の反応とは違い、どこか納得した表情だった。
「そうか、そうだな。贄。俺はそうだったのか」
念真はふうっと息を吐くと、片方だけ残った目を細めた。
「ちょっとそこの三人。ある莫迦な野郎の昔話を聞いてくれないかい?」
軽い口調だが、念真の片目の奥には、重い感情があるように思えた。
「よろしくお願いします」
今度は、機嫌を損ねないように、羅半兄と馬閃も頭を下げた。