七、麦畑 前編
羅半兄がじっと土を見ている。手を伸ばし感触も見ている。
「どうですか?」
猫猫は横から羅半兄をのぞき込む。農家の朝は早いらしく、まだ日が昇り始めた頃なのにすでに動いていた。猫猫は、疲れていてよく眠れずに、早起きする農民の物音に気が付いたのだ。
場所は、昨日たどりついた農村の畑。許可は昨日のうちに村長からもらっているので、勝手に土を見ている。
畑には麦が芽吹いていた。羊や山羊が食べてしまわないか心配だが、放牧されているとき以外は柵の中に囲われているので大丈夫なのだろう。
「土については悪くない。水はけもよい。もう少し土が痩せてもいいくらいだな」
「栄養がないほうがいいんですかー?」
にょきっと顔を出すのは、雀だ。
(昨日、寝るの遅かったみたいなのに)
天幕に帰ってきたのは真夜中だった。交渉とやらが長引いたのかもしれないが、本人は元気だ。
どんな交渉をしていたのかは、猫猫は聞かないほうがいいだろう。
雀がいつも通り接しろと言っていたのだから、そうすることにする。
羅半兄は立ち上がり、畑全体を眺める。今の季節、畑はそのまま放置されている。これから小麦を植えるのだろうか。
「芋は他の野菜と違って土が痩せているほうが、育ちがいいんだ。甘藷は栄養が良すぎると葉っぱばかり茂って芋が育たなくなる。馬鈴薯は病気になりやすくなる」
「そうなんですねえ。ところで朝食は麺麭だけじゃ物足りないので、おかゆも追加しますね」
「ああ、それはありが……」
雀が甘藷を数本持ってきて、皮を剥いていた。
「何剥いてる!」
電光石火の動きで甘藷を奪う。「あ~れ~」と雀がぐるぐる回って見せる。
「これはた・ね・い・も! 食うな!」
「でも、ここって小麦しかありませんし。お米も手持ちが少ないので、お芋を入れてかさまししようと思いまして」
「芋粥、美味しそうですね」
猫猫も少しお腹が空いてきた。朝は麺麭よりも消化の良い粥がいい。
「これは植えるの! 食べちゃ駄目なの!」
子どもを躾けるような口調で怒鳴る羅半兄。近くの柵の中で眠っていた羊がうるさいと言わんばかりに「めぇ~」と鳴いた。
「あー、これ、もう種芋にできないわ……」
「じゃあ食べますね」
「仕方ない」
「足りないのであと三本ほど」
「だめ!」
すかさず雀を止める羅半兄。猫猫はぐっと拳を握り、普通な彼の輝ける場所があったと実感する。
「朝食はさておき、結局、栽培できそうなんですか?」
ぼけとつっこみの応酬をもう少し見たい気もしたが、話は進めないといけない。猫猫の質問に、羅半兄は腕組みをする。
「ここも子北州と似たようなものだな。子北州ほど北じゃねえが、気候を考えると甘藷より馬鈴薯が向いてそうだ。華央州よりここらへんは寒い」
「……確かにここは寒い気はしますね。西都はまだ暖かかったような」
寒暖差はあれど、外套を羽織るほど寒くない。てっきり、風が強いからだと思っていたけど。
(少し耳が痛い)
猫猫は鼻をつまんで耳抜きをした。
「ここは標高が西都よりかなり高いらしい」
「そのようですね」
「そうなのですか?」
雀が懐から地図を取り出す。
「雀さん、地図読むの得意なんですけど、高さとか書いていませんから。道理で空気が薄い気がしました」
「俺は、親父からいろいろ聞かされてたから、知ってたけどな」
ふふんと、普通の人が胸を張る。
「西都は砂漠に近いから昼の気温は高いですよね。こちらは、昼間も肌寒いです」
猫猫は同じ戌西州でもかなり気候が違うのだと、今更ながらに実感する。
「やはり育たないですか?」
「どうだろうな。基本、甘藷を植えるなら華央州の春から初夏にかけての気温くらい欲しい。こっちじゃ、砂漠にしろ高地にしろ、適した温度とは言えない。試しに育ててみる価値はあるかもしれないが、馬鈴薯を育てたほうが無難だろう――けど」
どうにも、羅半兄の顔が曇っている。何か納得がいかない顔で畑の中にずかずか入ると、いきなり麦を踏み始めた。
「何してるんですか? 怒られますよー」
と言いつつ、雀は傍観している。
「怒りたいのはこっちだよ! この畑、全然麦踏みしてねえじゃねえか!」
「麦踏み?」
猫猫は首を傾げつつ、蟹のように横歩きをする羅半兄を見る。
「麦はこうやって踏みつけて、分げつを促すんだ。根の張りも良くなるし、倒れにくくなる。なのに、ここの畑はそれをした感じには見えねえ!」
「さすが農民」
「誰が農民だ!」
(あなた以外に誰がいると?)
間抜けな蟹歩きで麦を踏み続ける羅半兄。本人の意向はどうであれ、完全に農家が染みついている。雀が面白そうだと、羅半兄にならって麦を踏み始める。そうなると、猫猫も混ざらないと終わらなくなる。
三人で蟹歩きしていると、村人が起きて集まり始める。客人たちの奇行を遠巻きに観察していた。
「おまえら、何をやっているんだ……」
顔を引きつらせた馬閃がいた。
平べったく焼いた麺麭の上に、羊の串焼きと包子がのっている。暖炉の上には鍋があり、羊肉と小麦麺が入った汁が煮えている。飲み物は茶というには薄すぎる色をしており、お湯の代わりに山羊の乳を使っているので、猫猫が知る茶ではなかった。
(乳製品と家畜肉が中心、野菜は控えめか)
穀類もここが農村でなければもっと少なかっただろう。
食事は大きな天幕の中で、猫猫と雀もまじえて取る。雀の粥は間に合わなかったので、夕餉にいただくことになった。なお、すでに皮を剥いた芋は薄切りにして暖炉で焼いている。
馬閃が暖炉の前に座っていたので、雀と猫猫、羅半兄も暖かい場所に座らせてもらっている。他の人たちはその周りにぐるりと囲む形で座った。
熱い汁はちょっと味が薄く、雀から塩をいただいて中にくわえる。串焼きは、都の露店物よりずっと美味しかった。
皿がわりの麺麭は固いので千切りながら、汁につけて食べる。加熱した乾酪をのせると美味しい。
野菜は汁と包子の中に申し訳程度に入っているだけで、量的には物足りない。
「だから、何でちゃんと育てないかだ。ああやってちまちまと麦を踏みつけることで、どんだけ後の収量が変わってくると思うのか?」
「はい、そうですね。その乾酪食べないならください」
「こら! 勝手に食うな!」
素早い動きで雀が羅半兄から乾酪を奪う。
(そんなことしなくても)
素早そうで注意力が低い馬閃を狙ったほうがより成功率が高いのだが、そこは雀もわかっていてやっているのだろう。
食事をしつつ、先ほど畑でやっていたことを話す。
「確か今回は視察という形でと聞いていたと思うが、どうなのだろうか羅半兄?」
馬閃の中で、羅半兄の名前が定着している。普段ならもっと真面目に名前を聞くところだろうが、なんらかの超法規的措置のような何かが働いているのかもしれない。
「いや、だから俺の名は――」
「種芋を持ってきていたのだから、多少は植えるつもりだったんですよね?」
すかさず猫猫が割り込む。
「そりゃ、いい場所があれば植えろって話だろ。俺は羅半からそう聞いている。頼まれた以上、あんな弟の話でもちゃんとしなくちゃいけねえだろ」
(ひどい身内を持った割に真っ当だなあ)
でもどこかからかいたくなる。
「麦畑の件はわかったが、とても不満そうに見える。何か、問題があるのか?」
「大ありだ。ここの連中、畑をちゃんと作るつもりあるのか?」
「専門外なので悪いが、その麦踏みとやらをやっていなかったからって、そこまで言われる筋合いなものなのか?」
馬閃の意見に猫猫も賛成だ。麦踏みというのは、確かに麦をより良くするためにやる作業だろうが、だからと言って麦が育たなくなるわけではない。他の仕事が忙しければ、省いても仕方ない作業だろう。
「麦踏以外もだよ。生え方もばらばら、直播でやったのはわかるが、均等にやるべきだろ。肥料ももっとまんべんなく撒かねえと、土の色にむらがあったぞ」
「細かいですねえ。芋食べます?」
「細かくねえよ! 芋食い飽きたよ!」
猫猫は雀から焼いた芋を貰って食べる。そのままでも十分甘くて美味しい甘藷だが、さらに乳酪を少しつけるとまろやかで美味しい。雀も気に入ったらしく、こっそりもう三本ほど輪切りにして焼き始めた。
羅半兄が言いたいこともわかるが、猫猫も反論はある。
「地方によって農作業の仕方が違うのでは? 元々、畜産を主流にしていれば穀物の類はさほど必要ないでしょう。必要がなければ技術の面で発達しませんし」
「そうだよ。でも、ここは手抜きをしているって俺は言っている。あんなんじゃ、大した収穫があるように思えねえ。ここの連中は、技術を知っていながら手抜きしているんだ」
「他に収入があれば問題ないだろう。気にすることか?」
馬閃も乳茶をすすりながら反論する。
「だーかーらー」
「なんで、他に収入があってわざわざ農業をするのかと?」
猫猫は、羅半兄が何を言いたいのか、分かった気がした。
「そ、そうだよ」
羅半兄がようやくわかってくれたのか、と少しだけほっとした顔をする。
「意味が分からんぞ」
「よくわかりません、雀さんにもっとわかりやすく言ってください」
馬閃と雀がそれぞれ説明を求める。
「放牧で食べていけるのであれば、ずっと旅をしながら放牧すればいいでしょう。わざわざ定住して畑を作ればそれだけ家畜を育てづらくなりますから。つまり、放牧より農業のほうが、利点があったからだと思います」
「身体を壊したりなどあるからなあ。旅をしながらだと」
「はい。この天幕でも言えることですが、放牧の民から農民になることについて、珍しくはないようです。致し方ない理由があって農民になったのか。それとも農民になったほうが、利点があるからなのか。もし、後者ならもっと収穫量を増やそうと思いませんか?」
猫猫の説明を聞いて、羅半兄は「うんうん」頷き、他二人はぼんやりした顔をしている。
「上手く説明できないですけど、どうしましょうか?」
「なんていうんだろう、おかしいのはわかるんだけど」
「上手く言語化できませんね」
猫猫は、唸りつつ、冷えた芋を食む。ここでは一切甘味の類はないので、甘藷の甘味がさらに引き立つ。
「……」
ふと、猫猫は天幕の外を見る。子どもが二人ほど、客人に興味を持っているのかのぞいていた。まだ十になったかなっていないかの男女の子どもで、顔が似ているので兄妹だろう。
「食べる?」
子どもたちは少し動揺しつつも見たことない甘藷に手を伸ばす。一口食べると、まさに目をまん丸にした。
「もう一つ……」
「いいけど、ちょっと質問していい?」
猫猫は畑を見る。
「あの麦畑って……」
話を聞こうとして猫猫は止まる。さて、何と聞けばいいのだろうか。
「君たちの家族って畑をちゃんと作ってる? 手抜きしていませんか?」
雀が横から単刀直入に聞いてきた。
「畑をてぬき?」
「てぬき?」
兄妹二人は顔を見合わせている。
「雀さん、さすがにそれはわかりにくいかと思います」
「そうでしょうか、猫猫さん」
雀は焼いた芋をさらに子どもたちに渡す。
「……てぬきかどうかわからないけど、はたけをつくるとおかねがもらえるって」
「おかねがもらえる? 麦を売ってってこと?」
子ども、兄のほうは首を振る。
「ええっと、そうじゃなくて、そだてなくてももらえるから楽だって――」
「おい! 客人に近づいちゃだめだろ」
村の大人に声をかけられて兄妹はびくっとする。
「あっ、ちょっと」
猫猫が呼び止めようとしたがもう遅い。どこかへ行ってしまった。
(育てなくてもお金がもらえる?)
なんだか変な話だ。もし本当なら、麦畑を世話する必要もないだろう。
「すみません、子どもが何かしませんでしたか?」
「いいえ、何も」
村人はすまなそうに猫猫たちに謝る。
(何か隠し事をしているようには見えない)
どういうことだろうか、猫猫は首を傾げつつ天幕に戻った。