四、畑と放牧地
(どーすんのかな、往診)
医官たちは、三か所に分けられた。公所と玉袁の本邸と別邸。
猫猫たちは別邸にいる。壬氏のことだから公所か本邸にいるかと思いきや――。
「今日もよろしく頼むよ、医官殿」
にこやかな笑顔で応対するのは壬氏。別邸の一番豪華な客室にいた。羊毛をふんだんに使ったふかふかの絨毯は見たこともない細かな模様が織り込まれている。帳は絹製だろうか、揺れるたび涼やかな光沢が現れる。
大粒の葡萄には結露が纏い、よく冷やされていることがわかった。張りがある実を噛み潰したら、甘い果汁が口いっぱいに広がるだろう。
(毒見させてくれないかな?)
生憎、今の猫猫の仕事は毒見役ではない。壬氏付の侍女として桃美が担っている。今日は騒がしい雀はいないようだ。なお、馬良は見つからず、新しい場所に慣れずしばらく出てこないのかもしれない。馬閃は珍しく部屋にいた。
「ひゃい!」
相変わらず噛んでいるやぶ医者は、ぷるぷる震えながらいつもの形だけの診療をしている。
天祐はいない。
医官は何人もいらないし、いたらいたで困る。やぶ医者のやぶさがさらに浮き彫りになる。
妙に勘のいい天祐なら気が付かないわけがないが、今のところ口に出していうことはない。何かを感じ取って暗黙の了解で黙っているのか、それとも壬氏側から手を回して納得できる理由を用意しているのか。
(まあ、どっちでもいいか)
猫猫はやることがあった。壬氏がどうして別邸にいるのかという疑問は今はいい。変人軍師が同じ邸じゃないだけ万々歳だ。
「じゃあ、お嬢ちゃん、先に戻るね」
「わかりました」
何の疑問もなく帰っていくやぶ医者。護衛の李白が一緒に戻る。
壬氏がほんの少し輝かしい空気を解いた。
「茶の用意をしてくれ」
「かしこまりました」
桃美が準備しにいく。
「さあどうぞ」
水蓮が気を利かせて椅子を持ってきてくれたので、猫猫は大人しく座った。さすがに葡萄に手を出せるほど図太くはないので、お土産にいただけないか水蓮に念を送ってみる。
「新しい職場に慣れそうか?」
「人間は変わっておりませんので、環境に慣れるのみです」
猫猫は正直に答える。あと、西都にはどんな薬があるのか確かめておきたい。足りない薬などは、やぶ医者と天祐、李白についでに羅半兄も使って調べた。船旅なので酔い止めの薬を多く用意していたが、意外なほど減ったのは解熱剤の類だった。
南の航路をとったため、真夏のような暑さだった。船の中で、換気もろくにできなかったためにのぼせる患者が増えたのだ。熱中症の類に近く薬より水分補給をさせたほうがいい。しかし、猫猫がいない間にやぶ医者が風邪と診断して解熱剤を渡したのが原因と考えられる。
なお、やぶ医者が処方した解熱剤は不味く、嫌でも大量の水で飲んだので、結果的には効果があったように見えたらしい。
(いつもながらすごい運だ)
薬については、楊医官が足りない分を買いだしてくれると聞いている。
(本当はついていきたいけど)
猫猫には別にやることがある。
「羅半の伝手で、芋農家が来ていますよね」
戌西州で芋の栽培に成功したら、そのまま砂欧にでも輸出する算段だろう。輸送費はよりかからないほうがいい。
「芋農家……、猫猫の従兄弟と聞いているぞ」
「他人です」
猫猫はしっかり断言する。
「たしかに来ている。てっきりもっと特徴がある人物が来ると思われたが、なんというか」
「普通ですよね」
「普通だな」
羅半兄への評価は壬氏も一緒らしい。
しかし、羅半兄の存在がわかっているのなら、話が早い。
「私も一緒に農村へと出向きたいと思うのですが、許可はいただけますか?」
「農村か。行ってくれたら助かるが、医官手伝いの仕事はどうするんだ?」
「配置換えで、天祐という者が来てくれましたので、たぶん、なんとかなるんじゃないかなあと思っています」
天祐の仕事はそれなりに信頼できる。問題は人格だ。
「それなら、助かる……。色々、そっち方面で不具合があってな」
「不具合ですか?」
猫猫が首を傾げる。
壬氏が馬閃を見た。馬閃は卓に戌西州の地図を広げる。各所に墨で丸がついていた。
「これは?」
「農村部の位置だ」
「……西都の規模の割に少ないですね、やはり」
季候として枯れた土地が多い。畑も少ないのはわかる。
「そして――」
馬閃がそっと筆を壬氏に渡す。壬氏は大きく丸を付ける。
「これが、放牧地だ」
「……ほうぼくち」
放牧、つまり家畜の放し飼いだ。西都だと、牛ではなく山羊か羊あたりだろうか。
「集落は持っていないが、放牧の民が移り住んでいる」
「そうですね」
猫猫が知らないから説明しているというより、頭の中を整理するよう話しているように聞こえた。
「前に、飛蝗の駆除に対して触れを出したのは覚えているか?」
「はい。害鳥の駆除の禁止や、虫食を推進したり、あと農村部に虫殺しの薬の作り方の伝搬でしたね」
猫猫も、殺虫剤については知恵を絞った。できるだけ地域で取れる素材を使って、何種類も作成した。
「ああ。それは茘国内、もちろん戌西州でもやっている……んだが――」
壬氏の歯切れが悪い。
猫猫もなんとなく壬氏の誤算がわかった気がした。
「農民なら、殺虫剤で虫を殺すにしても、自分の畑しかやらないですからね」
「その通り」
そして、戌西州にはちんまりとした畑地に対して、広大な草原がある。農民は草原まで虫の駆除をするわけがない。付け加えて、放牧民に対しては、そんな伝令が届いていない可能性が高い。
(たとえ届いたとしても)
家畜が食べるかもしれない草に農薬を振りまくわけはなく、だからといって飛蝗を一匹一匹駆除することはなかろう。
『……』
駆除しそこねた飛蝗は、次に何倍にも膨れ上がる。
しかし、猫猫は首を傾げた。
「すみません。去年、茘の西部で小規模な蝗害が起きましたが、それは西都周辺も含めてですか?」
「それが、そんな報告は来ていない」
壬氏も怪訝な目をしている。
「確かに西都周辺は、交易が中心で作物の作付も少ないので農作物被害の影響は少ないが――」
「あってもおかしくないですよね」
去年の秋のことを思い出す。壬氏に嫌がらせのように飛蝗を送り付けられ、何百匹も計測した。その時、羅半は飛蝗が季節風に乗って北亜連から来たのではないかとほのめかしていた。
そして、北亜連に一番近い土地はこの戌西州である。
(偶然、飛蝗がやってこなかったのか?)
それとも――。
(隠しているのか?)
猫猫は壬氏の顔を窺う。壬氏の顔は、これといって慌てるでもなく落ち着いたものだ。まるで、すでに知っている情報を再確認しているように思える。
猫猫は心の中で唸りたくなる。
(玉葉后の兄か)
西都を父の代行で治めている男。玉葉后とはなんだか因縁があるようだが、一介の薬屋には関係ないと流していた。
陸孫が汚れた格好で農村へと行っていたのもそこが関係しているのだろうか。
なんだか猫猫はむずむずしてしまう。考えると頭がこんがらがるが、解決しないと気持ち悪い。
「早速ですが、明日から農村部へ出向いてもよろしいですか?」
「助かるが、言い訳はどうする?」
「薬の材料の買い付けと採取ではだめですかね?」
「そんな風に言いくるめておく。あと、農村部と言ってもどこへ行く?」
地図を見ると距離からして一番近いところから回るのが良いかと思うが一つ考えがあった。
「陸孫さまがこちらにいますよね。彼が訪問した場所に行ってみたいです」
「……わかった。手配しよう」
「ありがとうございます」
猫猫は頭を下げた。しばらくゆっくりできそうにない。