二十、船上生活その二
「お茶はいりませんので」
猫猫は、地味な顔立ちの侍女に言った。
「では」
美人と言い難い顔だが、逆に落ち着くと言ったら失礼だろうか。
(世の中、美人が多すぎる)
水蓮も元はかなりの美女だろうし、いまでもその面影は十分残っている。
もう一人の四十代の侍女も顔はきつめだが、美人だ。
「水蓮さまはあとでいいとのことなので、私から見てもらえますか?」
そっと手を出す四十路の侍女。
(ん?)
はて、どこかで見たことがある気がした。
もう少し若ければ……。
「あら。私の顔に何かついているかしら?」
どこか猛禽を思わせる顔。
「猫猫、桃美は、馬閃たちの母ですよ」
「母?」
馬閃の母ということは――。
「姉の麻美とは顔を合わせたことがあるかしら?」
誰かに似ているかと思えば、その麻美だ。前に焼き菓子を届けてくれた女性だ。麻美があと二十ほど年をとれば、この桃美という侍女とうり二つになるだろう。
「ええっと」
この場合、お世話になっていますとでもいうべきだろうか。いや、馬閃には世話になっていない。麻美にもお世話になっていない。
いや、待て、お世話になっている人物が一人いた。
「高順さまにはお世話になっております」
あのまめな男だ。馬閃たちの母ということは、高順の妻でもある。
(あっ、やばいな)
前に高順に、花街の遊女をすすめたことがあった。その時、恐妻家とも言っていた。
猫猫の所業はばれることはないと思うが、なんだか気まずくなってしまう。
ともかく腕を取り、脈を診る。正常な脈で、むしろ猫猫の心臓のほうが早鐘を打っている。健康には特に問題はなさそうだが、一つ気になったことがあった。左右の眼の色がなんだか違う。
「……」
「どうかしました?」
「いえ」
目の動き、左右にずれがあるようにも見えた。猫猫はふと左手をぐるぐると回して見せる。次に右手をぐるぐると回すと、桃美の視線が動いた。
(右目が失明しているのか)
生まれつき左右の目が違うこともあれば、後天的に目の色が変わることもある。後者の場合、失明が原因であることが多い。
「あっ、気が付いて試しました?」
桃美は猫猫の反応に気が付いたようだ。右目を指して見せる。高順の妻をやっているだけあって、かなり敏い。
「失礼しました。生活に支障はありませんか?」
「別に気にしないでください。もうずいぶん前に見えなくなったものですから慣れました」
「はい。では、特に体に異常はありませんか?」
「問題なく」
「目と舌も見せていただきますね」
下瞼を下げて目を見る。確かに右目は失明していた。色が白濁している。目が白く濁る病は加齢によるものが多い。しかし、ずいぶん前に失明したというのなら、怪我が原因として考えられよう。
「船旅では足場が揺れますので、気を付けてください」
「わかっています」
当たり前のことを言ってしまって、猫猫は少し反省する。わかっていないわけがないのだから。
「それよりも、月の君の侍女たちが皆、花がないと思いませんか?」
肯定しづらい質問を投げかけてくる桃美。
「本当なら、娘の麻美が来てくれたら、私のようなおばばが出てくる必要もなかったのに」
「あら? 桃美がおばばなら、私は干物かしら?」
さっと突っ込んでくるのは水蓮だ。
「三人の孫がいるのに、若く振る舞うわけにもいきませんでしょう?」
水蓮のつっこみを真正面から返すところから、何かしらの強さを感じる。
壬氏の周りには、ごく一部の鍛えられた女性しか残らないらしい。
猫猫はさっさと往診を済ませたくて、次の若い侍女に移る。
「雀と申します」
団子のような鼻と小さな目をしている。肌も色黒で雀と言われたらそのままの名前だと言える。
(美人じゃないけど)
親近感がわく顔立ちだ。皇弟に仕えるより、露店で商売をしていたほうがよく似合う。
「雀は私の息子の嫁です」
「息子の嫁……。馬閃さまではありませんよね?」
「ええ、上の息子のほうです。あの子には早く嫁を貰ってもらいたいのですけどね」
舌打ちしそうな桃美。高順の家族は全体的に濃い。
「ついでですから、上の息子の紹介もしておきますね」
桃美はつかつかと歩きだすと、部屋の隅にある帳の前に立った。帳をひょいめくると、その奥に真っ青な顔をした男が詰碁をしていた。
「な、なんですか。母上」
「馬良、挨拶くらいできないのですか?」
「あっ、挨拶って」
馬良と呼ばれた男は馬閃によく似ていた。やや小柄にし、太陽の下に半年当てなかったような顔だ。
「は、初めま……っうう」
馬良は猫猫とほぼ視線を合わさないまま、床に崩れ落ちた。何やら腹をおさえている。見た目からして病人のようなので、猫猫は早速仕事かと思ったが、必要ないらしい。雀がさっとやってきて馬良をまた屏風の奥に押し込めた。
「お義母さま。初対面のかたにはやはり文通から始めてもらい、慣れてきたら御簾越しで会話をしてもらわないと困ります。いきなり顔を合わせるのは、胃薬がいくらあっても足りません」
「そうね。馬良の扱いはあなたのほうが得意だったわね。というより前よりかなり悪化しているわね」
どう突っ込めばいいのかわからない嫁姑関係が見える。
「やはり馬良は置いて、麻美を連れてくればよかったかしら?」
「麻美義姉さまが来たら、誰がうちの子を見てくれるんでしょうか?」
「そうねえ。あなた、子育てする気ないものね」
色々つっこみたいことはあるけれど、終わらない気がした。
簡単にまとめよう。
高順の嫁、桃美。
高順の息子、馬良。
馬良の嫁、雀。
よし、これで問題ない。
もう検診とかどうでもよくなったので帰ろうかな、と思っていると、ちょんちょんと水蓮が猫猫をつついている。
「なんでしょうか?」
振り返ると、ねちっこい視線とぶつかった。
屏風の奥からじぃっと壬氏がねめつけていた。
「じ、壬氏さまでよろしいですか?」
「……うん」
どうやら屏風の向こうでずっと待っていたらしい。終わらないのでのぞき込んだようだが、一応女性の検診を見るのはどうかと思う。
「ここだけよ、その名前を使っていいのは」
水蓮がそっと猫猫を椅子に誘導する。
「船は揺れるから、座っていたほうが安定するので」
「わかりました。でも検診がまだ……」
水蓮はにこりと笑って茶器を準備し始めた。猫猫はいらないと言ったが、いるのはもう一人のほうだ。
やはり検診は表向きの用件だ。
壬氏が屏風の向こうから、移動してきた。
侍女たちは周りにいるが、特に会話に加わるつもりはないらしい。
ちなみに帳の奥から石の音が響いているので、馬良は詰碁を始めたらしい。
「うむ」
「はい」
「あの……」
「はい」
さて、言いたいことはたくさんあるが、同時になにも話すことはないと言ってしまったら失礼だろうか。
「……」
壬氏もまた何を話していいのかわからないらしい。
猫猫は首を傾げつつ、口を開く。
「お先に話をさせていただいてよろしいですか?」
「ああ」
「西都への旅ですが、どのくらいになるのでしょうか?」
聞いてもはっきりした答えがわからないとわかっているが、会話の糸口になればと口にした。
「正直わからん。少なくとも三か月という話は聞いているだろう」
「はい。ではもう一つ。私を旅に連れていく利点について」
「……」
壬氏は目をそらした。
(あー、やっぱり)
「変人軍師への餌に使ったのですか?」
「……申し訳ないとは思っている」
猫猫はねめつけたくなりつつも、周りの侍女たちの視線もあって我慢する。代わりに指先を動かして、何か先立つものがないのかちらちらと見せる。
壬氏はそのあたり物分かりがいい。懐から何やら取り出した。布をめくってみると、白っぽい灰色をした石のようなものがあった。
「これは!」
「ああ。確認するか?」
壬氏が目配せすると、水蓮が茶とともに針金を持ってきた。
「どうぞ」
針金とともに熱した炭が用意される。
ここでは『確認』と言われた。
猫猫は壬氏から石を受け取る。石というより軽石。かなり軽い。
「確かめさせていただきます」
炭で針金を熱すると、軽石に刺す。独特の匂いが漂う。
「壬氏さまが偽物を用意するとは思いませんが本物ですね。龍涎香です」
早速、やり手婆へのお土産を手に入れてしまった。
いつもなら馬の前に人参をぶら下げるようにもったいぶるのだが、こうして渡してくるというのは何かしら気まずいことがあるのだろう。
いや、変人軍師と共に旅をさせようとする時点でこの野郎と思うしかないが。
「らか……いや、軍師殿は今回の旅でどうしても来てもらわねばならなかった」
「……西都からの要請でしょうか?」
「それもある。同時に軍師殿には、西都を確認してもらいたかった」
(そういうことか)
変人軍師は、変人で人間としては最低限のこともできない愚図男であるが、軍略に関しては群を抜く。
「戦が起こるやもしれないと聞きましたが」
猫猫は周りを見る。
壬氏のいる部屋ということもあって、ちゃんと周りに音が漏れないような造りになっていると信じたい。
「戦に勝つのが正しいのではない。戦を起こさないのが正しいのだ。しかし、正しいことは難しい」
つまり、戦が起こる可能性も視野に入れていると言いたいらしい。
医官を無理やり連れていく理由もわかる。
「私がついていったところで変人軍師を上手く扱えるとは思えませんけどね。養父ならともかく」
羅門ならなんだかんだで上手くやるだろう。もし、羅門がもっと若く、足が悪くなければ一緒に旅に来たかもしれない。
生憎、そんなにうまくはいかず、やってきたのはやぶ医者だ。
(やぶ医者じゃあ、おやじのかわりは……ん?)
猫猫はふとさっきの壬氏の態度を思い出す。やたらやぶ医者を持ち上げるような、傍から見て胡散臭いとさえ思えるような――。
壬氏はやぶ医者の髭について言及していた。あれだけ褒めたらやぶ医者は、しばらく髭を自分から剃るようになるだろう。
また、やぶ医者の名前を呼ばず『医官殿』と言った。この船にはやぶ医者の知り合いはほぼいない。猫猫がやぶの名前を呼ばないことを知っていれば、やぶはただの医官である。ただ、その身体的特徴から宦官であることはわかるはずだ。
遠征に呼ばれる上級医官、しかも宦官。加えて言えば、猫猫がいつも付き添う人。
猫猫は思わず卓を叩きそうになった。
(駄目だ、ちょっと落ち着け)
茶が目の前に出されたので、了解も取らずに飲み干す。猫猫の感情を落ち着けるためか、鎮静作用のある薬草が使われている。
ふうっと息を吐き、壬氏を見る。
「医官さまを養父の身代わりに立てようというのですか?」
「いつも察しが良くて説明が省けるな」
壬氏の目は後宮時代に見せていた目と同じだった。
やぶ医者とおやじは同じ宦官だが、見た目も年齢も違う。だが、噂でしか知らない者にとっては宦官で医官というのは数えられるほどしかいない。後宮医官をわざわざ遠征へと連れて行くとは思わない。
もし行くのであれば、元宦官でありながら宮廷に医官として戻ってきた羅門だと思うだろう。
最後まで、医官の選抜を教えてくれなかった理由はここにあったのだ。
「西都、いや玉鶯殿は羅門殿も連れてこいと打診してきた。どういう意味かわかるか?」
「玉鶯さまって、……病人がいるというわけではないですよね?」
羅門の医術はずば抜けている。手を借りたいと思う病人はいくらでもいるが――。
「軍師殿を懐柔するつもりでいる、のかもしれないと私は思っている。もちろん、はっきりは答えなかったので、医官殿を羅門殿と勘違いしようがしまいが向こうの勝手だ」
『私』という一人称から、ここにいる壬氏は普段のどこか残念な男ではなく、皇弟としているのだとわかる。人を駒として扱う頭の切れる男がいる。
「懐柔って。狐にお手を教えたほうがまだ建設的ですけどね。なにより玉葉后の兄ですよね?」
「他人には出来なくても、自分には出来ると思う者は多い。それに、手段を選ばない場合もある。聖人の身内が皆聖人とはあり得ない。何より、国を傾けるのは后の親類縁者であることは珍しくない」
「……私が聞いていい話でしょうか?」
「断言はしていない。可能性の話だ」
(いや、でも疑っているじゃないか)
とは言え、何も話さずにいられるとそれはそれでもやもやする。
壬氏は、茶碗を掴みつつ人差指だけを立てる。指はそのまま猫猫に向けられる。
「手段を選ばない場合、誰が狙われる?」
「私が弱点とでも?」
「どう見ても弱点だ。玉鶯殿の元には、軍師殿の元副官がいる」
(陸孫のことか)
「おまえのことを知らないわけがなかろう」
(……聞かれたら言わなきゃいけない立場だろうねえ)
壬氏の無茶苦茶な遠征選抜について少し納得した気がした。
「私が都にいれば狙われるとでも思ったのですか?」
「可能性はある。何より、軍師殿の敵はどれだけいる?」
「……」
「おまえは、おそらく自分が思っている以上にその存在を知られているし、それを見逃すほど莫迦ばかりではない」
壬氏の言葉に猫猫は頷くしかない。医官手伝いになる前にもっと考えればよかった。
なるように仕向けたのは壬氏だが、変人軍師があんなに極端な態度を取らなかったらもう少し落ち着いた生活をおくれただろうに。過去のことを嘆いても仕方ない。
「羅半ならなんとかできるので、都に残ってもらった。羅門殿は、雲隠れも含めてしばし後宮に入ってもらう。おまえには悪いが、西都へ連れてきたということだ。なにより軍師殿の目が届く場所のほうが安全だと思った。安らかとは言い難いが」
(おまえねえ)
「そうですか」
猫猫としては渦巻くものがあるが、一応壬氏の言葉は猫猫を考えてのものだ。人間関係、人員の配置、その上で一番無駄がなく安全だと思ったに違いない。
「医官殿の護衛には、旧知の武官、李白をやる」
「はい」
猫猫は冷めた声で返事をする。ぼんやり貰った龍涎香を見た。
(なんか釈然としない)
猫猫は茶菓子にも手を付けずに立ち上がる。
「猫猫、お菓子持って行かないの?」
水蓮が焼き菓子を包んでくれる。何か猫猫の感情を読み取った気がした。
(やぶが喜ぶから)
「いただきます」
包んだ菓子を貰うと猫猫は頭を下げて退室した。
「あっ、えっと……」
壬氏がなにやら手を伸ばして猫猫に話しかけようとしているが、正直今日はもう十分話したという気持ちだ。
気が付かなかった振りをして出て行った。
部屋の外では、馬閃が見張りをしていたようだが、簡単に頭を下げて医務室に戻ることにした。