十九、船上生活その一
船は出発式らしきものを終えて出港した。お偉いさんがた、主に壬氏がなにやら祭事のように執り行っていたが、猫猫はぼんやり見ていただけだった。たまに、変人軍師がきょろきょろと周りを見ていたので、途中船室に降りた。
船旅は快適と言い難いまでも、想像よりもまともなもののようだ。
(昔、聞いた話だと虫がわいた麺麭をかじっていたとか)
そのため、生の魚を置き、虫をおびき寄せてから食べたとか。
蝗も蛇も食す猫猫であるが、好き好んで虫がわいた麺麭を食べようとは思わない。
(まあ、それほど長旅でもないからな)
猫猫にとっては長いが、数か月も船の上で過ごすわけではない。半月ほどで、何度か途中港によるらしい。船旅、最初の食事は、肉粽に魚の汁物、柑子が出てきた。初日ということで多少豪華なのだろう。
「水菓子までついているなんて、嬉しいねえ」
やぶ医者が顔をほころばせながら、皮を剥いて口に入れる。
猫猫はとうに食べ終わり、房楊枝で歯を磨いていた。
柑子が出てきた理由について、猫猫はなんとなくわかる。
「船旅では野菜が不足するそうです」
「そうだよね。日持ちしないからね」
「栄養が偏り病気がちになります」
「うんうん、偏らないように食べないとね」
やぶは意味がわかっているのか、わかっていないのか。
「それにしても、私たちは暇だねえ。患者さんがやってこないよ」
(いや、後宮のときもずっとそうだったでしょうに)
心の中でつっこみつつ、口の中を水ですすいで窓から吐き捨てる。下品だと怒られそうだが、外が海なので手っ取り早い。
「誰も怪我も病気もしないなら、それにこしたことはないけどね」
猫猫はそっと医務室の棚を見る。数は限られているが、なかなかの薬の量だ。基本的な病気の処方に使う薬草に、船特有の病気を治す薬が多い。あとは外科処置の類の外用薬。
猫猫はやぶ医者をじっと見る。
「一つ質問よろしいですか?」
ずっと気になっていたことだ。
「医官さまは、以前死体を見るのを苦手としていたようですけど、どうやって試験に合格したのですか?」
「試験? うん、ちゃんと医官の試験には合格したよ」
ふんっと鼻を鳴らして胸を叩くやぶ医者。
猫猫はじとっとした目を向ける。
「ええっと、試験というと筆記の?」
「ああそうだよ。後宮の医官がいないということで、宦官の中で医官試験を受けさせてもらえることになったのさ。その中で私しか合格者がいなかったんだよ」
ふふんと誇らしげなやぶ医者。宦官は文官、武官になれなかったものが諦めてなるものという。また、異民族によって去勢された奴隷も多くいた。正直、試験を受けた宦官が落ちた理由はわかる。
元々の医官は、宦官になってまで後宮で働こうと思わなかった。なので、宦官を医官にしようと思ったわけだが想定は外れてしまった。
「そのあと、実技試験は?」
「えっ、実技? うーん、なんかあったようななかったような……。そういえば、鶏の解体をさせられたことあったなあ」
「それで」
「うん、あの時は困ったよ。鶏を絞めようとして、額に一撃食らって気を失ってしまって」
「……」
なんだろう、容易に想像がつく。
「豚の解体にも呼ばれたんだけど、豚がつぶらな瞳でこちらを見てきてどうしても解体できなくて」
いわずもがな。
想像がつきすぎて怖い。
「……そうですか」
たぶん、ここらで上官たちは、やぶ医者を本当の医官にするのは諦めたのだろう。しかし、後宮で妃を見るためには仕方なく役職だけは与えたという感じか。
「その後、宦官から医官になる人はいなかったのですか?」
何度か試験を受けさせればもっとまともな人が医官になれると思ったが。
「それがねえ。皇太后が後宮の女官たちを集めた棟を作っていただろ?」
「ありましたねえ」
先の皇帝のお手付きを集めた場所だ。後宮を出ることもできない彼女たちを保護するために作った場所らしいが、結局、子の一族の反乱の際に利用されてしまった。
「医官不在の間に、診療所みたいな役割を作ってしまって。私が医局に入ったら目の仇にされてしまって、新たに医官を宦官から選ぶなんて大反対で」
「あー」
察しがついた。下手なやぶ医者より、ずっと医療としての知識は備わっていた。
「新たな後宮医官は必要ないと反対されて、結局、新たに宦官を医官にする話は、なあなあになってしまったんだよ」
というわけで唯一の後宮医官がやぶだったわけだ。
(運だけで生きてる、この人)
今度、富くじでも引かせてみようかと考えてしまう。
「深緑さんだったか。あの人が中心となってね……」
やぶが遠い目をする。
たしか女官たちが集まった診療所にいた中年女性だ。子の一族、子翠たちに加担し、後宮からの脱走を手伝ったと聞いた。しかも問い詰められて自害を計ったというが、その後の報告は聞いていない。
(死んでも死ななくても、処刑は免れないのだから)
話す必要はないと判断されたのだろう。
やぶも歯を磨き終えると、診療器具を準備し始める。
「さて、一日一回、往診だね。ご飯のあとにすることになっているから」
誰の、と言えば、お偉いさんになるのだろう。
「ひゃー、久しぶりの壬氏さま、いや、月の君だからとっても緊張しちゃうよ」
「そうですね」
別に、宦官として接していたときも顔を真っ赤にしていたが。
(うーむ)
とりあえず猫猫は一緒についていくことになっているが、なんとも微妙な気分である。
壬氏の部屋は、他の船室と比べるべくもないほど豪華だった。
(風当りはいい。部屋の広さもある。明るい)
もちろん、あくまで船の上という条件付きだが、ここまで立派なら心地よいだろうなと、通された部屋を見て思った。
「さあ、こちらです」
落ち着いた女性の声。
(船旅は年齢的にきついだろうに)
しかし、他に誰もいなかったのだろうな、という人選。初老の侍女、水蓮だ。
すました顔でやぶ医者を部屋に入れるが、猫猫と目が合うと、一瞬口をにいっと歪ませた。
(おつかれさまです)
他に侍女が二人ほどいた。
やぶに視線を一瞬やり、そのあと猫猫を観察するように見ている。
(やっぱりしっかりした人選がされているな)
あくまで様子見で、現状を把握しようとしている感じだ。いきなり敵意をむき出しにしないだけ、大変好感が持てる。
一人は四十代くらいだろうか。年齢的に壬氏の乳母をやっていた一人かもしれない。
もう一人は二十代前半位だろうか。猫猫とさほど年齢が離れているようには見えないが、妙な落ち着きがある女性だ。正直、美人とは言い難い容姿をしているが、壬氏の近辺、美女がありふれた中では逆に落ち着ける顔とも言える。
(有能なんだろうな)
皇弟の侍女としてはかなり地味な面子しかいないわけだが、大変壬氏らしい。もし、燕燕があのまま壬氏付を続けていたら、船旅についていくことになっただろうか、と考えながら奥へと入る。
「し、しちゅれいします」
早速噛むやぶ医者。
屏風の向こうには、壬氏が椅子に座って待っていた。服装は、祭事用のものから着替えて、比較的動きやすい恰好になっている。
「久しぶりだな。医官殿。それでは頼む」
そっと腕を出す壬氏。部屋には香の匂いが漂っているが、なにより壬氏から一番多く香ってきているように思える。
やぶ医者の前ということもあって、後宮にいた頃のきらきらしい壬氏が全開になっている。
(これはやぶ医者でなくとも緊張するな)
「ひゃい」
どじょう髭があったら揺れていたであろう慌てぶりを横で見る猫猫。
往診と言っても、脈を診て話を聞くくらいみたいだ。
(やぶにはあまり期待は寄せていないなあ)
水蓮は色々手練れそうだし、やぶの往診が無くても問題なく健康管理はしていそうだ。
一応、猫猫は変なところがないようにしっかり見ておく。
「と、特に問題ありましぇん」
最後まで噛むやぶ医者。
「すまない。今後は毎日頼む」
「ひゃい」
ほとんど持ってくるだけ持ってきて使わなかった道具を片づけるやぶ医者。
壬氏はまだやぶ医者を見ている。やぶ医者が顔を上げたところで、きらきらをさらに強めていた。
(なに、これ)
「医官殿、髭を剃られたようですが、お似合いですよ」
きゅんとなるやぶ医者。周りにふわふわとした何かが見える。
「本来、後宮医官である医官殿に船旅をさせてしまって申し訳ないと思う。しかし、重要な役割だ。最後までついてきてくれると嬉しい」
「も、もちろんです」
目を潤ませるやぶ。完全に壬氏を信じた顔だ。
猫猫にはどうにも茶番にしか見えない。水蓮を含めた周りの侍女たちも白けている。しかし、ここで大切なのはやぶ医者が信じていることだ。
「医官殿は宦官であると言うことは、周りの者も知っている。宦官という立場でもし何か不利益が生じることがあれば言ってもらいたい」
「はっ、はい」
涙があふれださん勢いだ。頬は紅潮し、その背には薔薇の花を背負わんばかりの勢いである。
「それと……」
壬氏が憂いを含んだ目で、ちらりとやぶ医者を見る。
猫猫は半眼を向けて、ただこの茶番が早く終わらないかと思っていた。
「医官殿の名は虞淵というのだな」
「はっ、はい」
(そんな名前だったよーな)
「この船には医官殿は一人。敬意を示して、名前ではなく『医官殿』と呼ばせてもらうがいいか?」
「こ、光栄に思います」
やぶに否定はない。むしろ、そう呼んでくれと言わんばかりだろう。
(どう見ても裏を感じる)
「ちょっと、お願いがあるのだけど」
やぶが道具を片付け終わったところで、声をかけてきたのは水蓮だ。
「私たちも毎日見てもらえないかしら? 医官様の手を煩わせることはないので、そこのお手伝いの子でお願いするわ」
(あー、そーきたかー)
猫猫はちらりとやぶ医者を見る。
「医官様はお忙しいと思いますので、先に帰られてください」
「かしこまりました」
水蓮相手には噛まずに言えたやぶ医者。
「じゃあ、お嬢ちゃん。あとは頼むね」
「かしこまりました」
棒読みで返事する猫猫。
やぶ医者を見送り、振り返るとどよんとした空気を漂わせた壬氏がいた。
猫猫は鼻で笑いそうになったところで、水蓮からすかさずぺしっとされた。