十七、旅の準備
出発は五日後。
急な話なので、猫猫は大急ぎで準備をすることになった。買い出しとともに、色々回って話をすることになった。
(いや、べらべら遠出するのを話していい物か)
と考えたが、すでに通達が回っており問題ないそうだ。
(やり手婆には絶対言っておかないとな)
また、腹に拳を食らってしまう。
というわけで緑青館に来たわけだが。
「ふーん、そうかい。土産は龍涎香でいいよ」
(いや無理だって)
名前の通り龍の涎からできる香だが、実際は違うらしい。とても高い。薬としても使われ、心臓に効果がある。
「おい、またかよ! どうなってんだよ! 官女って遠征するもんなのかよ」
とまあ、叫ぶのは誰かと言えば左膳。涙目で訴えている。
「悪いなんとかしてくれ。克用もいるし、なにかあればおやじに連絡すればいい」
と、猫猫の署名入りの紙を渡して終わる。
左膳は、客が来たのでしぶしぶ薬屋に戻った。
(本人が思っているよりちゃんとできているんだけどな)
けっこう心配性だ。
「あらら。西と言えば日焼けが大変ねえ」
おっとりとした反応なのは緑青館の姉御こと白鈴だ。今日はやたら肌艶がいい。
(昨日は上客が入ったのか?)
ちょっとどころではなく色欲過剰なこの小姐にとって、上客とは金払いの良さだけではない。きっといい肉付きをした絶倫な殿方が客だったのだろう。
「はい。これは必須。毎日起きたらつけて、寝る前には顔を洗って落とすこと」
どんっと陶器製の器を置くのは梅梅。入っているのは肌にいい軟膏だろう。
「顔洗えるかわからないと思うけど」
西都までの道のりは遠い。陸路でも海路でも、水は不足しそうだ。
「そんな場所に猫猫連れて行くなんて、どこの莫迦なんだろうね」
(あなたも知っている覆面の貴人でございます)
どこかとげのある言い方をするのは女華。
三姫勢ぞろいだ。
「心配よぉ。猫猫、今からやめにしない?」
ぎゅっと抱き着く白鈴小姐。昨晩はよほどいい運動をされたのか、体温が熱っぽい。
「私たちが必死こいて稼いだお金がお偉いさんの旅行に使われんだね」
けっ、と唾でも吐き出しそうな女華。
「なに言っているの。そのお偉いさんのおかげでうちらの商売が成り立っているんじゃない」
朗らかに笑うのは梅梅。言っていることはえぐい。
「それに、心配なのは心配だけど……」
梅梅はそっと窓の外を見る。
「猫猫に危害を加えるような相手がいたら、容赦しない人が行くのよね?」
「梅梅小姐。遠まわしに言っているけど、ほんとそれが一番気がかりなんだけど」
変人軍師が行くことだ。
どういう理由で行くことになったのか、わからない。少なくともどんな人物か知っていれば西都側としては断るだろう。
(断れない理由がある? まさか招待したとかねえ)
変人軍師なら数か月仕事しなくても、部下がしっかりしているので問題なかろう。
なにより怖いのは道中面倒を起こさないかだ。
想像するだけで頭が痛くなる。
(これを踏まえて私を利用したのか)
歯をぎりぎりと鳴らしてしまう。元々、なんでも利用してくる人間だったので、忘れていた猫猫が悪かった。
逆を言えば、後宮時代から変わらぬ人の扱い方に少しほっとしている面もある。
上に立つ人間が情に流されることはあってはならない。
壬氏の行動には時に感情的なものもあるが、その中には理性が残っていると信じている。いたい。
(だよねえ?)
でないと、この奇妙すぎる人選は理解できない。
そもそも、人選は壬氏が選んだものではなく、仕方なしにやったものかもしれない。
どちらにしても、猫猫には迷惑の一言であるが。
猫猫は梅梅から貰った軟膏を片づける。
「おい、そばかす」
生意気な声がした。
「なんだ、趙迂?」
猫猫は面倒臭そうに振り返る。
「ばーーーーかーーー」
それだけ言って、走り去った。
子分の梓琳もべぇと舌を出して、趙迂についていった。
「なんだ、ありゃ?」
「猫猫、だから趙迂は寂しがっているのよ」
「ふーん。梓琳も相変わらず、趙迂にくっついてんの?」
「あれは、最近再発したの」
困った顔の梅梅。
「再発?」
「あの子、姉がいるじゃない? 禿修行してたんだけど、今年の始めに客を取り始めたんだよ」
「そうなのか」
緑青館では女の出入りが多いので、いちいち確認していなかった。
「まだ早くないの?」
「年は十五さ。飯を食わせたらずいぶん肉付きが良くなって、あれよあれよと常連たちが目をつけだした。ここに来る前は、よほどろくなもの食べてなかったんだろうね」
本人も向上心が強かったので、早く初舞台を踏みたいとなったそうだ。
妹としては複雑な気持ちなのだろう。
「芸はまだまだだけど、伸びそうよね、あの子」
「そうかね? ちょっと尖りすぎてどうかと思うけど」
女華が言うのだから、白鈴が大笑いする。
「『女華』なんて名乗るあんたに言われたくないわー」
元々、親がつけた名前ではない。やり手婆が昔を捨てるためにつけることもあるが、彼女は創世の女神の名前をもじった名前を自分でつけた。
「母親が私の父はやんごとなき人だって言ってた。だから私にも使う権利がある」
とか言っていた。
(華の文字を使える相手なんて)
皇族しかいない。となれば、父親は先の皇帝くらいしか年齢が合わないが、もちろんそれはありえないことを猫猫は知っている。
女華小姐は、だまされた母親を見てどう思ったのか。彼女の男嫌いもそこから来ているのではと思わなくもない。
やり手婆もやり手婆で、その尖った名前を使わせるのだ。
(こわいこわい)
猫猫はふうっと息を吐くと、次の準備に向かった。
緑青館をあとにし、買い物を済ませて宿舎に戻る。
(これからが一番問題かもしれない)
猫猫は大きく深呼吸をすると、宿舎に入った。
とんとんとん、包丁の音が響いている。
(やってる)
台所をのぞき込む。
姚が燕燕の指導の元、鶏肉を切っていた。
その手はまだおぼつかないものの、先日の骨まで断ち切りそうな勢いはなく、ちゃんと料理しているように見える。
「……」
「……」
鶏肉に集中する姚は猫猫に気が付いていない。燕燕が気付き、猫猫に目で訴えかけている。
(今、集中している。邪魔するなってところ?)
猫猫は自室に向かうと、廊下の向かいから宿舎の小母さんがやってきた。
「猫猫、何か月も遠出すんだって? 部屋はそのままにしておくけど、掃除はしておいたほうがいいかい?」
声が通る。もちろん、台所まで聞こえたようで「いたっ!」、「お嬢さま!」とお約束の応酬が聞こえてきた。
そっと戸の隙間から顔を出して確認すると、予想通りの光景が広がっていた。
「ああ、お嬢さま駄目です。指をくわえないでください。すぐ手当しますので」
たとえ食用でも生肉には毒や虫がいる場合がある。
「燕燕、やりすぎだと思う」
猫猫は姚の手をさらしでぐるぐる巻きにしてむしろがんじがらめにしているところで、声をかけた。
しかし、話しかけたはいいが、姚はむすっとしていた。何か言いたそうな顔なのはわかるが、猫猫とて人間関係に器用ではない。なんと声をかけていいのかわからない。
まだ包丁の使い方を習っている時点で、劉医官から声をかけられて特別授業を受けているということはないだろう。
「……すみません。しばらく留守にします」
「わかりました」
燕燕はちょっと寂しそうな顔をしてくれたが、それは一瞬で「これで姚さまと二人きり」というなんとも言えない表情が浮かんでいた。姚が俯いて見ていなくてよかった。
姚もわかっていると思う。彼女は頭がいい。頭では理解していて、感情が追い付いていないだけだ。
(まだ十六だものな)
猫猫よりも四つも下だ。
仕方ないと自室に向かおうとしたら、だんっと床を大きく踏み鳴らす音が聞こえた。
「猫猫!」
「はい?」
ふしゅぅと、猪が鼻息を出すような呼吸の荒さだ。姚が立ち上がって何か覚悟を決めた顔をしている。
「お嬢さま」
どこから取り出したのか、『姚』『加油』と書かれた団扇を二枚持っている燕燕。この侍女はどこか芸が細かい。
姚はもう一度大きく息を吐くと、猫猫の前に立った。
「はい、お嬢さま」
燕燕がそっと姚に冊子のようなものを渡す。
「んっ」
姚はその冊子を猫猫に押し付けた。
「な、なんでしょう?」
「な、何って」
上手く口に出せない姚を支援するのは燕燕だ。
「先日、羅漢さまの屋敷にて、猫猫が写しとれなかった本の要点をまとめました」
「えっ?」
(なにそれ、欲しい)
「も、貰っていいんでしょうか?」
「あ、あげるって言っているでしょ!」
姚が切れ気味に返すが、言っていない。
でも、貰えるなら貰う。早速、ぺらぺらとめくり確認する。
「おおっ、おおおおおお」
「ちょっと、今見ないでよ! い、言っとくけど、私は別に大したことしてないわよ。燕燕がどうしてもというから、書き写してあげただけだからね!」
どうしよう、この子はつんとしていてでれっとなる。
生憎、姚と燕燕の字の特徴はわかっているので、どっちが書いたのか指摘しない優しさくらい猫猫にもある。
「ありがとうございます」
猫猫は丁寧に頭を下げる。
正直、鼻水垂れるほど嬉しい。
「……ふん。せいぜい、旅の途中の暇つぶしにでもしなさい」
手土産らしい。
「ではお返しにお土産を買ってきますね」
「別にいらないわよ!」
むっとしたまま、姚はまたまな板の前に立つ。
「怪我をした状態だと、まず何も切らせてもらえないので、とりあえず怪我の処置をしましょうか」
燕燕だけに怪我の処置を任せると木乃伊になってしまいそうだ。
姚は大人しく猫猫に治療させてくれたが、ちょっと燕燕が怖かった。